六 『解ける縁』
減速し、教室の扉を勝手に開く。
「紅葉! 火影!」
そして、家族の名前を喉の奥から叫んだ。
「ナメてるの?! もっとしっかりやってよ!」
鋭い音をたてて床に落下した小道具は、粉々に砕けて散ってしまう。歪な形でも、きちんと心がこもっている──そんな小道具が一瞬にしてガラクタと化す。
結希は唾を飲み込み、目の前で繰り広げられている惨状を刮目した。
「申し訳ございません、姫様」
教室の中心で、火影が頭を下げて謝っている。なのに心がこもっていない。ただの形だけの謝罪と化している。
それがいけなかった。
それが紅葉の感情に油を注いでいた。
「ねぇ、そんな薄っぺらい謝罪をくぅが求めていると本気で思ってるの!? うっざ! あんたの謝罪はいっつもそう! 本当に悪いと思っていないのが丸わかり! そういうのマジで死ぬほどちょ〜うざい!」
「申し訳ございません、姫様」
だが、今の紅葉にそれしか言えないのも仕方のない話だった。
「何やってるんだ」
少し声が低くなる。
無意識だった。上手く声が出ない。
「ッ?! にぃ……?」
びくっと両肩を上げ、紅葉がおずおずと振り返る。
そんな彼女に、結希は一体どんな言葉をかけたら良かったのだろう。
「なんでお前らが喧嘩してるんだ」
だが、聞かなければ何も始まらない。
紅葉は叱られた子供のように縮こまっていたが、少しだけ対抗心を剥き出しにしてこう言った。
「火影が真面目に〝ロミオ〟を演じないの」
「火影がロミオ?」
耳を疑った。
《ロミオとジュリエット》という物語は一切知らないが、それが男の名前だということは結希でもわかる。
「それは……《十八名家》の百妖家と結城家が昔っから犬猿の仲だったから……。しかも百妖さんは結城さんを『姫様』って呼ぶから、ちょうどいいと思って……」
その疑問に答えたのは、遠巻きに二人を見ていたクラスメイトの一人だった。
結希は眉を顰め、念頭から外れていた百妖家と結城家の千年にも及ぶ確執を思い出す。
彼らは政治家だ。古の時代から対立している正義の一族なのだ。
そんな大切なことを、両家の家族である結希は完膚なきまでに忘れていた。
「火影。なんで真面目にロミオを演じないんだ」
喉が渇いた。
百妖家と結城家は家族だ。それは自分が証明しているし、火影と紅葉も証明している。
なのに、こんなにも簡単に綻ぶ。
「火影は姫様の従者。姫様とは決して対等な関係になってはならない。……例えそれが、演技であっても」
火影は結希を射るような視線で見つめ、そう告げた。
内にあるたった一本の芯を護るように、鴉が光り物を守るように、獲物を見つめる鳥類の目をした火影がそこに君臨する。
「はぁっ?! ちょっ、なんでそれを今さら言うんだよ!」
「ど、どういうこと? 主役なのに適当にやるってこと?」
普段の火影を思えば当然の返答のようにも思えたが、火影を知らないクラスメイトはそうではなかった。
常に主である紅葉を立てて、常に彼女の後ろを歩き。時に彼女の矛となり、盾となって命を懸ける。そうやって、兄を亡くしながらも姫としての務めを果たそうとする彼女を支え続けた──。
百妖火影とはそういう人間なのだ。そういう生き方を六年以上も続けて来たのだ。
それが百妖家と結城家の間にある千年の確執を踏み躙り、結城紅葉と共に生きることを選んだ百妖火影の尊い生き様なのだ。
結希はそれを、誰よりも深く知っているからこそ否定することはできなかった。
「どうしてそれをもっと早くに言わなかったの? 選ばれた時は何も言わなかったじゃん!」
「酷いよ百妖さん! そんなの真面目にやらない理由にはならないよ!」
火影に非難が集まっていく。
だが、彼女はそれを真摯に受け止めない。聞くつもりなど最初からないのだ。
火影にとって現世に存在している人間は紅葉のみであり、〝絶対〟は彼女であり、聞くべき言葉を発する人間も彼女であり、百回に一回結希の言葉を聞いたらいい方なのだ。
それくらい、火影は紅葉を愛している。
「火影、あんた本気でそんなバカなことを考えてんの?」
だが、紅葉には火影に大切にされているという自覚がない。
自分にとって信用できる人間は結希のみ。自分か結希、そしてそれ以外にしか現世の人間を区別できないのだ。
「はい」
そんな噛み合わない主従の溝が、今、亀裂を生んだ。
「じゃあなんで引き受けたの」
「姫様が、火影がロミオじゃないとジュリエットをやらないと仰ったので」
「はぁ? それってつまり、くぅのせいだって言いたいの?」
「ちがっ」
びくっと、今度は火影が両肩を上げた。
目に見えて怯えている。嫌われることを恐れている。
だが、この陽陰町唯一の姫君は静かに肩を震わせて火影を軽蔑していた。
「ッ……! もういい! 火影なんかもう知らない! 今日で付き人をクビにするから!」
「紅葉?!」
最後に残った小道具を投げ飛ばし、紅葉は結希の静止も聞かずに飛び出していく。
追いかけようと扉の淵に手をかけて、結希は黒板に書かれた丸い文字を視認した。
ジュリエット役:結城紅葉
ロミオ役:百妖火影
歪に、壊れていく。赤い縁が、解けていく。
「ッ! 紅葉! 待て! 落ち着け!」
叫び、廊下を飛び出した。キリキリと脇腹が痛む。押さえても収まらない痛みだ。
火影を失くした紅葉の未来が想像できない。
紅葉を失くした火影の未来が想像できない。
最古の記憶の中にいる二人は、その価値観の相違に気づいていながら一致する利害の下に生きていたはずなのに。
中学生となりどちらかの心の琴線が変わったのか、とことん心が噛み合わない──いつの間にかそんなところまで来てしまったのだろうか。
「紅葉!」
廊下を曲がり、結希は立ち止まっていた紅葉の背中を視界に入れる。
紅葉の背中は、六年前と同じように小さかった。その背中には背負いきれない重圧があり、抱え切れない悲しみがある。
何も覚えていない結希でさえ、その背中を見た時に思ったのだ。
──この子を、独りにしてはいけないと。
そう、思っていたのに。
「どうした、紅葉」
ごめんと、一瞬だけそう思った。
独りにしてはいけないとわかっていながら、百妖家に預けられた結希はずっと紅葉を放置していた。傍にいてやれなかった。
「……最初から、要らなかったの」
紅葉は背中を震わせて自身を抱く。
「……最初から、付き人なんて要らなかったの」
その涙声は、一体何を意味しているのだろう。
「くぅが本当に欲しかったのは、付き人なんかじゃない……! なんでも言うことを聞く機械みたいな従者なんかじゃない……! そうなって欲しかったわけじゃないもん……!」
「…………」
それは、最初からそこにあった価値観の相違だった。
「だったら手を離すなよ」
明日菜と風丸が、結希の手を掴んで離さなかった中学のあの頃のように。
「お前から手を離したらダメなんだよ」
紅葉もまた、自分の手を掴んで離さない火影の小さな──それでいて母親のように苦労をした手を離してはいけないのだ。
「その手を離して後悔するのはしんどいぞ」
結希は後悔していない。手放して、自分の手を掴み返さなかった僅かな手を。
ただ、飽きるくらい手放して、何度も何度も掴み返した明日菜と風丸の手の温かさを──知ったその時の、溢れるくらいの胸の痛みに。こんなにも温かい彼らの手を離し続けた自分の貧相な意地と愚かさに。
死ぬほど後悔したのは間違いないのだ。
「後悔なんて、くぅは絶対にしない……!」
振り返った紅葉は、やはりと言うべきか泣きじゃくって化粧を崩していた。
いつも通りだ。そして、本当にいつも通りならば火影が慌てて彼女のその顔を隠すのだ。
「くぅは悪くないもん! 火影なんて最初から要らなかったしっ、くぅにはにぃがいれば……それだけで良かったもん! くぅが本当に欲しかったものは、にぃが全部……にぃの存在が全部持ってるから……!」
ぷつんと、糸が切れたように紅葉が膝から崩れ落ちる。
その綺麗な膝小僧を庇いもせずに痛々しい音を上げ、声を押し殺して紅葉は泣く。
「だがら、もう二度と……ぐぅのことわずれないで……」
両手を顔に押し当てて、肩を震わせて、目元を拭ってその手を汚していく。
紅葉には、自分が未来の王だという自覚だけはあったのだ。
《十八名家》に所属する結城家の王として。落ちぶれた陰陽師の王として。未来の陽陰町の町長として、この町の人々を率いる〝強さ〟が紅葉には必要なのだ。
決して人前で〝弱さ〟を見せてはいけないし、はしたなく声を上げて泣いてはいけない。
だから声を押し殺す。声なき声で悲鳴を上げて、人知れずに折れて朽ちるまで彼女は叫ぶ。
寂しい、と。
「これから先、何があったとしても」
一瞬だけ考えて、それでもやっぱり変わらないなと結希は思わず笑って。
「どんな未来があったとしても、俺の描く未来には当たり前のようにお前がいるよ」
幾つになっても変わらずに、正月になればおせちを食べ、初詣をし、豆撒きをし、雛人形を飾って、花見をする。兜を飾って、母の日や父の日のプレゼントを共に選び、短冊に願いを書いて墓参りもする。月見もすればクリスマスもするし、大晦日だって共に過ごす。
当たり前のように、幾つになっても。
「俺たち家族だろ?」
親世代を除けば、誰よりも濃く血が繋がった唯一無二の家族だ。
紅葉には涙もいるが、結希には紅葉しかいない。
多忙な両親。死んだ兄。離れていった従兄。残された唯一の従兄に頼った紅葉は何も間違っていない。
父親を知らず、母親と過ごす時間は少なく、友人関係を切っていた結希が傍にいて心の底から安心したのは紅葉と火影なのだ。
「……俺も紅葉と火影がいればそれだけで良かったし、俺が欲しかったものは全部紅葉が持ってたよ。でも、家族だけじゃ、この現世を生きていくのはしんどすぎる。──友達は、一人くらい欲しいよな」
目の前で蹲る紅葉の全身を抱き締める。
すっぽりと収まるほど紅葉は小さくなかったが、撫でた背中はやはり小さい。
「でも、そう思ってないのが火影だ。火影は俺でもお前でもない。違う人間だから難しい」
小さく、「うん」と紅葉が言ったような気がした。
「あいつね、友達が何か知らないの」
「だろうな」
「くぅもね、友達が何かよくわからないの」
「だろうな」
それしか言えなかったが、紅葉はそれで充分だとでも言うように何度も何度も頷いて。
「ありがとう、にぃ」
決して顔を上げなかったが──
「やっぱり、くぅの味方は六年前から……ずっと、ずっと、にぃだけだよ。…………大好き」
──涙声でそう答えた。




