五 『波乱の幕開け』
「ぎゃーっ! ペンキが倒れたーっ!」
「この愚か者! 何故下にブルーシートを敷かなかったんだ! 握り潰すぞ!」
「ま、待ってくださいヒナちゃん! お説教よりもまず先にペンキを拭わないと!」
おっかなびっくり顔を上げると、床に置いていたバケツを風丸が誤って蹴り飛ばした直後だった。中に入っていたペンキがブルーシートも何も敷いていない床に広がり、徐々に徐々に染みになっていく。
「うっわ〜、ぐっちーやらかしちゃったね! 依檻ちゃんにまた殴られるよ〜!」
「やめろやめろやめろやめろ〜! なっ、なぁヒナ! どうすればいい?! 拭ってどうなる?! 綺麗になるのか?!」
「黙れ、そのようなこと私が知るわけないだろう! 千里、どうなんだ?!」
ヒナギクは床を見下ろし、唯一ペンキを雑巾で拭っている千里に尋ねる。だが、千里の表情は中々晴れなかった。
生徒会の仕事が一段落し、結希たちはクラスの準備を手伝う為に教室に戻ってきたが──結希が購入した日曜大工用品はすべて机の上に散乱しており、足の踏み場もほとんどない。
思えば誰かがペンキを蹴り飛ばすのは時間の問題だっただろう。
「きゃははっ! 丸っちドンマ〜イ!」
「やっば〜! 新しいペンキすっげー流れちまってんじゃん! もったいね〜! これはもう床になんか描くしかないんじゃね?!」
「それはさすがにバカすぎっしょ。つーか鳥居塗る用の赤だしさぁ、そーじしてもめちゃくちゃ目立つんじゃない?」
「何それヤバ〜! めっちゃウケるじゃん!」
けらけらと笑うクラスメイトはヒナギク以外誰も風丸を責めようとはせず、結希ははぁとため息をつく。喋る暇があるのなら全員で手伝えばいいのに。
「どうなるかはまだわかりませんが、誰か用務室に行って雑巾と除光液を持ってきてください。やれるだけのことはやってみます」
「よし! 頼んだあっちゃん!」
「らじゃあー!」
見様見真似の敬礼をし、いつの間にか陸上部に入部していた亜紅里は教室から飛び出していく。
風丸は千里の手伝いに従事し、ヒナギクは体操着の裾を捲って何故かノコギリを担いだ。
「持ち方おかしいぞ、ヒナギク」
それを見ていた結希は突っ込み、水を張ったビニールプールに入れていた手を引き抜く。
背を向けていたヒナギクは振り返り、何故か少し怒ったように眉間に皺を寄せた。
「私に指図するな、副会長」
「死人が出る予感しかしねぇんだけど」
タオルで手を拭い、試運転としてあらかじめ作っておいたヨーヨーをビニールプールの中に落とす。そして、モグラ叩き用の箱を一人で作ろうとしていたヒナギクの傍らに立った。
「そもそも設計図はできてるのか?」
「美術部の奴らのラフ画ならあるぞ」
机の上に乗っていた何かの裏紙を見せ、ヒナギクはノコギリの持ち手で自らの肩を叩く。
「わかったから肩に担いだノコギリ下ろせ。そしてしまえ」
「切らないのか?」
「まず線引けよ」
「不要だろう。図面は頭の中に入っている」
その自信は一体どこから来るのか。
ドヤ顔にも見えるヒナギクの曇りなき表情が何を言っても無駄なように思え、結希は本能で押し黙る。
薙刀とは違うということを理解しているのかいないのかよくわからないが、ヒナギクの言葉にはいつだって迷いがない。嘘がない。
……いや、一度だけ──
『全部ではない。…………白院家と百妖家のみだ。貴様の親族の結城家は半妖ではないだろう』
──一度だけ、ヒナギクは言い淀まなかったか?
「ヒナギ……」
「──フッ!」
「それは違う!」
息を吐いた刹那に薙刀の要領で板を切ろうとしたヒナギクから距離を取る。危なっかしくて近づけない。半妖よりも圧倒的に恐ろしい無知の殺人鬼だ。
「ノコギリの持ち方誰にも習わなかったのか?!」
「貴様は人のことが言えるのか?」
「どっちもどっちだな!」
納得した言葉を言おうとしたが勢いのままに言葉が走る。
結希は肩で息をし、自分も知らないが明らかに違うと断定できるヒナギクの持ち方を怪しい物を見るかのような目つきで眺めた。
「たっだいま〜! ほいっ、雑巾と除光液! 大量に仕入れてきましたぜ、大将!」
「ありがとうございます、あっちゃん」
「あっちゃ〜ん! お前ほんと頼りになるな〜!」
「でっしょ〜?」
視線を移すと、本当に大量に仕入れられた雑巾と除光液が床に積まれていた。
風丸がやるべきことを千里だけが真面目に取りかかり、風丸はただただ瞳を輝かせ、亜紅里はドヤ顔で笑っている。その笑みの中に照れくささと誇らしさが見え隠れしているような気がして息を止める。
「副会長?」
「風丸!」
訝しげなヒナギクの声は聞こえなかったフリをして、結希はその中心にいた風丸を呼んだ。
「ん? どうした結希」
「お前は責任をもって床の掃除をしろ。神城さんはこっちに来て。教えてほしいことがあるんだけど」
「ゆうゆうあたしは〜?」
「お前に聞いてもしょうがないから手が足りないところを手伝え」
結希の指示で散り散りになり、千里は自分の元へと足を向ける。
生真面目で、心配性で、責任感が強くて、人一倍働き者。そんな面をクラスにようやく慣れ親しんだ今でも見せている。そんな彼女に、結希はノコギリの使用方法を尋ねた。
「確かにそれはあっちゃんに聞いてもしょうがないですね」
千里は苦笑し、「任せてください」と腕捲りをする。
記憶がない結希と高貴なヒナギクがノコギリを使えないことを察したのだろう。結希は片手で千里を制し、「切るのは俺がするから」とノコギリを手に取った。
「えっ」
「え?」
見下ろすと、何故か目を丸くした千里がいる。
「ごめんなさい百妖君!」
「何が?」
「危なっかしくて見てられません!」
「え?!」
「ダメですダメです! 絶対にダメです! 百妖君ってすっごく不器用じゃないですか! 危なっかしくて絶対に絶対に見てられません!」
不器用──それは、スザクのことだろう。
千里はスザクの唯一の友人で、スザクは千里の最初の友人だ。そんな千里がスザクのことを何も知らないわけがない。
式神を見れば、主である陰陽師のことは大体わかるのだ。
そういう世の理があるのだ。
「…………」
末森を知る為には、まずヤクモから。
ヤクモから逃げていたら末森には決して辿り着けない。それくらい、式神は陰陽師にとって重要な存在だった。
「ひゃ、百妖君?」
言い過ぎたとでも思ったのだろうか。
お互いがお互いに危なっかしいと思っている結希と千里は、間違いなく〝そういう関係〟だ。今さら遠慮など不要だろう。
「なんでもない、千里」
思わず微笑んだ。
そういう顔をせずにはいられない。小さい頃からずっと欠けていた何かが心の隙間を埋めたような感覚なのだ。
この気持ちは、きっともう二度とない。
目の前の千里と視界の端のヒナギクが驚いたように喉を鳴らすが、結希はその意味がよくわからないまま千里が口を開くのを見つめた。
「百妖く……」
「会長っ!」
千里が言葉を発した刹那、誰かが二年A組の扉を開けた。
視線を移す。制服から見るに彼は中等部の一般生徒だ。そんな少年が何故このクラスに雪崩込むようにして来たのだろう。
「どうした」
会長といえばこのクラスで、この学園でたった一人しかいない。
ヒナギクはすぐさま表情を引き締めて少年の元へと歩いた。
「たっ、助けてください!」
中等部から高等部まで走ってきたのだろう。息が上がっており、ヒナギクが背中を摩ることで落ち着きを取り戻す。
「なになに〜?」
「ただの中坊みたいだな」
「カイチョーって大変だよねぇ」
登場があまりにも騒がしかったせいか、クラスメイトの誰もが手を止めて彼を注視していた。
結希は一人息を呑み、少年の次の言葉を待つ。
「百妖さんと結城さんが突然喧嘩を始めてっ……、誰も二人を止められなくって!」
「百妖と結城だと?」
それは、誰と誰だ。
一瞬そう思ったのは、あの二人の強固な主従関係を六年間も傍で見てきたからだった。
「百妖火影さんと結城紅葉さんですっ! 百妖さんは俺たち男が抑えても全然敵わなくって! 結城さんは小道具に当たってたくさん壊してて……! もう俺たちだけじゃ止められないんです!」
「先生は呼んだのか」
すぐさま結希が尋ねると、少年は首を横に振った。
「《十八名家》を止められる先生が見つからなくって……!」
それで、同じ《十八名家》──しかも生徒会長がいるこのクラスに助けを求めたのか。
「副会長」
背筋を伸ばす。
ヒナギクに何を言われても基本は従うのが自分の務めだ。
ヒナギクへのさりげないフォローを忘れない。そう心に誓った。余計な負担は絶対にかけさせない。彼女の右腕は彼女の希望通り自分自身なのだ。
「貴様が行け」
それを、忘れていると見せかけて片時も忘れたことはない。
「わかった」
結希はノコギリを置き、すぐさま教室を飛び出した。
生徒会長と副会長という立場ではない何かで繋がりたかったが、ヒナギクがそれを許さない。忘れたいのに、使命がそれを忘れさせない。
結希は足を上げ、どうしようもなく生徒会長で副会長な自分たちの関係を断ち切るように連続で足を踏み出した。
不器用だが、陸上競技には腕に覚えがある。
本気を出した亜紅里とヒナギクにはどうしても劣るが、それでも誰よりも早く駆けつけて誰よりも二人のことを理解できるのは自分自身だ。決して他の誰でもない。
「……ッ!」
二人はかけがえのない自分の家族なのだ。
血縁のある結城家の嫡女と血縁のない百妖家の従妹なのだ。
何度も同じ釜の飯を食べ、何度も同じ部屋で寝泊まりをし、何度も陰陽師の勉強をしてお互いの技術を高め合い、何度も姫としての重圧に負けそうになる少女を助けようと誓い合った仲なのだ。
それが、どうして自分の知らないところで喧嘩という道を生んだのだろう。
曲がり角を曲がり思考する熱を上げる。今朝見たあの二人はどこまでもいつも通りの二人だった。
同じような立ち位置で、同じような会話をして。同じような繰り返す日々の中のたった一つだったはずなのに──。
「一体何があったんだ……?」
考えても答えは出ない。ただわかるのは、紅葉と火影の出し物のみ。
「──ロミオと、ジュリエット」
演目名を口に出す。それが、どんな物語かも知らないままに。




