十六 『空け者』
今──なんと言った?
結希は眉間に皺を寄せ、自らの耳を疑った。
『オマエ、イイヤツ』
目の前にいる火車が、猫そのものの顔を綻ばせてそう言っている。たったそれだけで、町中から忌み嫌われている火車に悪意がないことだけはわかった。
ただ、火車の思惑だけがわからない。
結希は唾を飲み込み、涙を片手で制して火車の瞳を見つめ返した。その中にある何かを探そうとして、神経を研ぎ澄ませて、頭の中に直接響く火車の声の真偽を探る。
『オマエ、コマッテル?』
刹那にすべてを疑った。どうしても信じられず、瞳孔が開く。
火車が、妖怪が、陰陽師である自分との会話を試みようと話しかけている。
そんな非現実的な話があるだろうか。本当に、あっていいのだろうか。
「結希」
異変を察知した涙が結希の名を呼ぶが、結希の心はそこにはなかった。まっすぐな火車の瞳から視線を逸らせず、吸い込まれるように取り憑かれている。
『オマエモ……』
目を細めた火車は、ゴロゴロと雷のように喉を鳴らして
『……オマエモ、キコエナイ』
特別な感情は一切込めず、縁側に寝そべる猫のように顔を手で擦った。
「……きこえてる」
震える唇で告げる。絶対に視線を逸らさず、先ほどの紫苑のように細部まで相手を見つめる。
火車は細めていた目を開けて、ゆっくりと嬉しそうに牙を向いた。
『キコエル?』
「聞こえる」
今度ははっきりと言葉にした。
『ホントウダ。オマエミタイナニンゲン、オイラ、ハジメテダ』
火車はそのまま舌舐めずり、無垢でありながら品定めするように結希を見下ろしている。
火車は屍体を喰らう妖怪だ。生き人とはいえ、ご馳走を目の前にすればそうなるのも必然かもしれない。
だとするならば、戦わなければ。
『ソレニ、オマエイイヤツ』
なのに、目の前にいる火車にはどうしようもなく敵意がなかった。
「何がだ」
火車は何を基準にして自分を〝いい奴〟と評価するのだろう。六年以上も前から妖怪を殺し、百鬼夜行を終焉へと導いた自分が火車にとって〝いい奴〟なわけがない。
『オマエ、オイラタスケタ。オマエ、イイヤツ』
ただ、火車はそのことを知らなかった。
『デモ、アイツ、ワルイヤツ』
そう言って、呆気に取られてはいるもののさほど驚いてはいない紫苑とタマモを一瞥する。視線で舐められた紫苑はぶるりと身を震わせて、忌々しげに火車に敵意を向けた。
『オイラ、オマエスキ。ダカラ、オマエガコマルノ、ダメ』
「助けてくれるのか?」
先ほどの虐殺で生き残った火車は、恩を恩で返すというのだろうか。
恐る恐る、だがそれを表に出さないで問いかけると、火車は確かに頷いた。
『オイラ、オマエ、タスケル』
そう言って、確かに笑った。
「鈴姉よりも、速い?」
その声にはたと我に返る。忘れることは決してない和夏の声は、ただただ事実を追求していた。
『オイラ、ハシルノトクイ。ダカラ、ハヤイ。ハシルノ、マケナイ』
少し憤慨したように牙を見せる火車は、猫の手を前に突き出して地面を引っ掻く。和夏はへらりと笑い、「ごめん」と一言告げて姉妹を見回した。
「結希、和夏……? お主らは先ほどから、一体何をしておるのじゃ……?」
「…………ボクよりも速いって、どういうこと?」
心春、そして月夜と幸茶羽は言葉を失っている。
朱亜と鈴歌、そしてビャッコとスザクは険しい表情を消さないまま緊張の糸を張り詰めさせていた。
「大丈夫。ユウが全部交渉してくれたから」
頼もしそうに首肯する和夏は何も疑っていない。妖怪を猫と同様に捉え、素直に信じて結希の肩を抱き寄せる。
「いや、わらわらが聞きたいのはそういうことではなく……」
「それは不要な疑問です、朱亜。結希、出陣ですか?」
「…………ルイ先輩」
結希は息を止め、それぞれの表情を改めて確認した。
百妖家が襲われている。それはビャッコの表情を見れば一目瞭然だ。不安で怖くて寂しくて、愛する人の無事を祈らずにはいられない──そんな表情も容易に見て取れる。
一刻も早く家族の元へと駆けつけなければならない状況下で、何を優先させるべきなのか。
何が、一番大切な物なのか。
結希は息を吐き出した。
顔を上げ、不思議そうに首を傾げる火車を見据える。
「連れて行ってくれ、俺たちを」
考える必要はなかった。
大切なものは、考える必要もなく決まっている。
「連れて行くって……え?! 俺たち火車に乗るの?!」
「正気でございますか?! 結希様!」
頷くと、ビャッコとスザクは口を噤んだ。
式神は主を選べない。その代わりに自我がある。スザクは朝日に呼ばれて召喚された結希専属の式神で、結希に似ているとはいえ瓜二つではない。
「……わかりました。貴方様が決めたのなら、私は地獄の果てまでお供いたします」
それでも、スザクは日本刀を消滅させて跪いた。
隣にいたタマモは緑色の目を見開き、ゆるりと緩めて紫苑に視線を送った。
「本気だとか」
「…………嫌だとか」
「言ってる場合じゃないよ、朱亜姉。鈴姉」
和夏の言葉が背中を押す。
やがて思案していた二人は顔を上げ──決意に満ちた顔つきで火車を見上げた。
「ついていくよ、お姉ちゃん! お兄ちゃん!」
「……つ、つきも行くっ! 絶対に行くっ!」
「さ、ささも行く! 絶対に離れないから!」
結希が出した答えと全員が出した答えは同じだ。
だから、誰もが大切なものだと認めるものを見捨てるわけにはいかない。
「置いてくわけないだろ」
にゃあごと、火車が一声鳴いた。
『オイラ、オマエスキ。ダイスキ』
刹那、屋形車の前簾が上がる。乗れと、言葉にせずとも言われた気がした。
「ありがとう」
誰よりも先に乗り込もう。そう思った矢先に躓く。
「……待てよ」
視線を辿ると、紫苑が自分の手首を力強く掴んでいた。
「……なんだよ」
視線の端で二人を捉えながら火車の中に乗り込んでいく姉妹は一人じゃない。最後まで残っていたスザクは正面から二人を見据えていたが、タマモが紫苑から離れているのを見て自らも離れた。
「俺も連れて行け」
たったそれだけを言葉にするだけなのに、とてつもない時間がかかってしまった。紫苑にとってその言葉を発するということは非常に難しく、様々な葛藤があったに違いない。
だが、多くの間を開けて告げられたその言葉は火車の言葉よりも鮮明に、耳から聞こえていた。
「断る」
「死ね」
息つく暇もなく返された純粋な罵倒に頬を引き攣らせ、結希はぐにゃりと紫苑の頬を摘んで捻る。
「ほほわる」
「ひぃね」
同じく頬を捻られた結希は歯を食いしばり、何度も何度も抗い続ける紫苑の紫苑色の瞳を睨んだ。
「なにふる気だ」
「ばばぁを殺ふ」
ババァ? 刹那、脳裏がチカっと光った。
『おい、まだかよババァ!』
『先に言っとくけど、家族じゃねぇから。あいつらもお前も、俺の家族じゃねぇよ』
『つか、んだよこの結界。ジャマ』
あぁ、そうか。
紫苑はあの時町役場にいた少年で──あのマギクの、家族なのだ。
「ジャマするな」
手を緩めた。紫苑はあの時と同じ台詞を言って、怒っている。あの時も今も、紫苑は怒りを沈められない無垢な少年だった。
「条件がある」
「……んだよ」
「〝それ〟と〝これ〟の交換だ」
結希は腰元に手を当てて、紫苑の腰元を指差した。指先で鈍く光る《半妖切安光》の鍔は、結希の声に応えるようにくるりと光らせ方を変える。
紫苑は唾を飲み込み、結希が触れた《鬼切国成》の赤みがかった鞘を見下ろした。
「本気で言ってるのか?」
「そんなに驚くことじゃないだろ」
刀剣の交換は、決して無意味なものではない。
これも、大切なものを守る為の一つの儀式だ。
「……なるほどな。やっぱ俺、テメェのこと嫌いだわ」
ぴくりと、《半妖切安光》を指す手が反応した。
あの時のマギクと大差ない台詞を吐いて、紫苑は腰元の《半妖切安光》を鞘ごと引き抜く。
「ほらよ。テメェが出したら交換だ」
「あぁ」
同じく腰元から《鬼切国成》を引きちぎった結希は、前に突き出して正面から突き出されている《半妖切安光》を見下ろした。互いの片手が恐る恐る伸び、その弱さを見せつけまいと同時に奪い取る。
手元に渡った《半妖切安光》に宿った半妖の魂が、一瞬だけ蠢いた気がした。ただそれだけで、《鬼切国成》のような衝撃はない。
安堵して再び正面を見据えると、痛みに堪え忍ぶかのように表情を歪めた紫苑が《鬼切国成》を握り締めている最中だった。
「しお……」
「うっせぇ黙れブス! 集中させろぶっ殺すぞ!」
口を噤み、咄嗟に上げた片手を下ろして数歩下がる。そして踵を返し、全力で走った。
「スザク!」
呼びかけると、離れていたスザクがすぐさま屋形車に乗り込む。差し出された手を掴んで引き上げられると、スザクは結希を抱き留めて満面の笑みを浮かべた。
「あっ、おいてめぇ! 勝手に行くんじゃねぇよぶった斬るぞ!」
結希の思惑に気づいた紫苑は《鬼切国成》をタマモに投げつけ、何故か逆方向へと走って姿を消す。その間にゆっくりと浮き上がる火車は、紫苑に尻を向けて空へと駆け上がり出した。
「待てっつっただろーがクソ野郎共!」
が、間髪入れずに叫ばれた罵声は何故か異様に大きく聞こえる。刹那に急接近してきたのは、エンジン音を猛らせるバイクに乗った紫苑だった。
「うわっ!」
思わず声に出して口元を抑えた結希は、紫苑の非常識な運転の仕方にドン引く。と同時に、一瞬だけ──本当に一瞬だけ、バイクに乗れる紫苑を羨んだ。
紫苑は止まることなく途中でタマモを乗せ、さらに速度を上げて近づいてくる。
「全員後退です! 奥へ!」
憧れは一瞬で消え、非常に嫌な予感がした。そう思ったのは涙も同じだったらしく、慌てて姉妹を後ろへと送る。
「まさか……」
「結希も……っ」
舌を噛むまいと歯を食いしばったのか、勢いの割りにはやけに無言のまま紫苑は堤防に乗り上げる。ブレーキをかけるという発想がないのか、勢いを殺せないまま空へと飛び出した紫苑のバイクは──離陸して間もない火車の屋形車に乗り込んで一回転した。
「結希ッ!」
涙と共に端へと飛んだ結希は、紫苑とタマモ、そしてバイクが後方へと突っ切るのを横目で見て絶望する。
「待っ──!」
じわっと喉の奥が熱くなり、最悪の自体が脳裏を過ぎる。伸ばした手は空を掠り、なんの意味もなくだらりと垂れる。
が、半妖姿に変化した彼女たちに怖いものなど何もなかった。
「『停止せよ』!」
世界の法則を無視したかのように停止したバイクはそのままで、言霊の呪いから外れた紫苑とタマモは落下する。
「ぐぁっ!」
「ふみゃっ!」
紫苑に押し潰されたタマモはバタバタと手足を動かして、紫苑が動かないのを悟ると途端に大人しくなった。
「……めちゃくちゃだ」
そう声を漏らした結希は、めちゃくちゃであると同時に何よりも輝かしい煌めきを持つ紫苑の気絶した顔を眺める。
「結希、真似は危険です」
「しねぇよ」
涙は自分をなんだと思っているのだろう。
厳しく突っ込み、何度か紫苑の頬を叩いて無反応であることを確認した。
「彼は馬鹿です」
「まぁ」
「でも、俺の親友によく似ています」
そう言った涙の言葉に身を固めたのは、鈴歌と朱亜だけだった。




