十七 『君の元へ』
空間が歪んだ。そう思ってもおかしくないほどの速度で夜空を駆け巡る火車に感服し、結希はそっと内部から火車を撫でる。
「見えた」
離陸してから数分も経っていない頃、誰よりも視力がずば抜けている和夏はそう呟いた。前簾の隙間からたった一人で外の世界を一望していた彼女は、唇を引き締めて内部に戻る。
それを確認した涙は頷き、結希の肩に片手を置いた。
「結希。俺は火車と結希がどのような会話をしたのか不知です」
「あぁ」
「ですが、一応忠告です。火車がこのまま陽陰町の内部に侵入することは、不可能です」
「あっ」
結希は目を見開き、戻ってくる和夏とすれ違ってほんの少しだけ前簾を開けた。
火車を挟んだ遠くの方に広がる景色。そこに、巨大な結界が張ってある。
「理解感謝です。ので、途中で別離することを推奨です」
結希は息を呑んで、外側から見た結界の全貌を眺めた。
山々の窪みを覆うように張られている結界は、山よりも高く強固に築かれている。隙間なんてものはなく、千年前に張られたという結界に綻びはまったく見られない。
見慣れたものだというのに、その規模を前にして結希は何も言えなくなった。
どうしてもあれが千年前に張られた結界には見えず、仮にそうだったとして今の陰陽師にあの規模の結界が張れるとは到底思えない。
陰陽師の能力は、千年かけてじわじわと地に落ちている。
結希はきつく歯を食いしばり、火車を呼んだ。
『ナンダ?』
「このまま行くと結界に阻まれる。だから、途中で俺たちを下ろしてくれ」
『ドコマデ? ドコマデ?』
話しかけられたことがそんなに嬉しかったのか、尻尾を垂直に立てた火車はくるりと振り向いて結希を見据えた。
「それは……」
結希はこの辺りの地形に詳しくない。振り返ると、険しそうな表情の涙が姉妹と顔を合わせて話し合っていた。
「陽陰町への入口は、あのトンネルのみです」
「そうかもしれんが、そうなると線路を歩くということになるぞい?」
「…………大丈夫」
鈴歌は一つ頷き、白い一反木綿の頭を撫でる。
「…………みんな、ボクに飛び移って」
相変わらずの無表情のままに告げた鈴歌は、疑うこともしなかった。
「で、でも、半妖姿だったら鈴姉も通れないんじゃ……?」
「えっ、そうなの?!」
「じゃあ、どうするの」
疑った心春は眉を下げ、朱亜にしがみつく月夜と幸茶羽は眉間に皺を寄せる。スザクとビャッコは互いの手をきつく握り締め、固唾を呑んで全員の決断を見守った。
「……山に」
はっと、視線を落として結希は固まる。
紫苑色の瞳を開いて唇を動かしていたのは、今の今まで気絶していた紫苑だった。
「山に、下りろ」
「主君、まさか……」
「背に腹は変えられない。そうだろ? タマモ」
口調ははっきりとしているというのに、ぼんやりとした瞳は天井のみを捉えている。
下敷きになっていたタマモを気遣う様子さえ見せずに言葉を紡ぐ紫苑は、タマモに命令を下して体に鞭打つように起き上がった。
「承知いたしました」
命令を拒まないタマモは床と紫苑の隙間から抜け出て、結希の隣で前簾の奥の世界を一望する。そして腰を屈め、火車の背中に飛び乗った。
「タマモ!」
引き留めようと手を伸ばすが、タマモは結希の言うことをまったく聞かずに火車の背を撫でる。
『ナンダ? ナンダ?』
「山の中へ」
タマモは、それだけしか言わなかった。
「まさか……式神の家を経由するの?!」
「えぇっ?! そんなことが可能なのでございますか?!」
同じ式神だからか彼らの思惑にいち早く気づいたビャッコは、スザクと共に身を乗り出して結希を挟む。タマモは一切こちら側を見ないまま下降する火車の背に跨り──
「うるさい、黙って」
──主の紫苑には決して吐かない悪態を同族に吐いた。
「うるさい?!」
「黙っ……?!」
余程ショックだったのか、同じ家の同族とでしかたいした交流がない二人は口を開けて放心する。
間宮家の陰陽師が他の陰陽師から忌み嫌われているように、間宮家の式神も他の式神から疎まれているのだ。
『ツカマレ』
「ッ、スザク! ビャッコ!」
涙が結希にそうしたように、結希は二人の襟首を引っ張って内部に戻る。そして、言霊が解かれたバイクを調整する紫苑の正面に立った。
「今から行くのはお前の式神の家か?」
「当たり前だろカス。それと、テメェらはそのままでいい。このまま突っ切るぞ」
下降しているにも関わらず、内部は不思議と揺れを感じない。それでも、タマモを先導にして突き進んだ山中が一気に開けたことはわかった。
物見から見えた建物は一ヶ月前に結希が訪れた例の洋館で、間違いなくここが紫苑の一族の式神の家であることがわかる。なのに、タマモ以外誰もいないこの空間は──一ヶ月経った今でも、やはり錆びれていた。
「出ろ!」
紫苑の合図で飛び出した鈴歌の一反木綿は、鈴歌自身を乗せて火車とタマモの真上を奔る。
朱亜は両脇に双子を抱え、頭部に心春を乗せて飛び移り。スザクとビャッコ、涙と和夏に続いて、バイクに跨った紫苑の手を結希が引いた。
「お前バカか、こっちに乗れ」
「はぁっ?! てめぇ、置いてったクセに乗れってなんだよ!」
「お前が常識外れだから仕方なくだよ! いいから早く乗れ!」
一反木綿に飛び移り、出ていく直前でタマモの手も引く。
『ドコニイク?』
空になった屋形車を引く火車は無邪気に問いかけ、「ここで待ってろ!」と指示を出す結希に従った。
『マツ? オマエヲ?』
「必ず迎えに行く!」
猫目で結希を追っていた火車は頷き、『マツ、ズット』と歩を止める。
『センネンタッテモ、マッテル』
そんな火車の笑顔が、一瞬で脳裏に焼きついた。
過度に一反木綿にしがみついた紫苑とタマモはそんな火車を目で追い、何故か目を細める。そして、式神の家を飛び出した刹那に行く手を阻んだ木々に顔を顰めた。
「…………飛ぶ」
真上へと上昇する一反木綿は鈴歌の命令に従い、森を越えて町を俯瞰する。そのまま直進し、一反木綿は百妖家へと向かっていった。
「タマモ」
「はい」
「あのババァ、何してると思う」
「……邪魔者の始末、それ以外の思惑があるとは到底思えません」
「そうか」
二人の会話を聞いていた結希は、唇を引き締めて前を見据える。
今日は依檻の誕生日で、スケジュールを無理に合わせた姉妹全員があの家に集っているはずだ。
少なくとも、彼女以外でそこにいたことがわかっている姉妹は麻露、歌七星、愛果、亜紅里──そして、眠り続けている真璃絵のみ。
彼女たちは決して弱くない。弱くはないが、相手は陰陽師だ。油断していると、すぐさまやられてしまう。
どうか。どうか──
「──生きて」
口をついて出た言葉は、自分の言葉ではないようで自分の言葉だった。
わけがわからず胸の辺りを掻き毟ると、和夏が驚いたように振り返る。いや、彼女だけではない。全員が驚いたように結希に視線を向けていた。
「ユウ、今……」
「結希様……記憶が……!」
「戻ったの? ねぇ、戻ったの?!」
「は?」
顔を近づけるスザクとビャッコの肩を押し、何も知らない結希は顔を顰める。それでも、全員の戸惑いにも似た表情は変わらなかった。
「お兄ちゃん、今の言葉って……」
「心春、停止です! 正面を!」
問い詰めたい。その一心で前のめりになった心春は、涙に止められて朱亜の髪を掻き分ける。そして、その先にある宝箱を視認した。
「なん、てことじゃ……」
「…………熱い。どうして?」
「家が……つきたちの家が……」
「あのバカが燃やしてるのか、あのバカの中の誰かが幻術を使っているのか……。最悪、両方か」
結希は目に力を込め、燃え盛る百妖家の周辺を直視した。
「タマモ!」
「承知いたしました!」
急に飛び降りた二人は森の中に消え、結希は焦りを押え込みながら視線を巡らせる。
「見つけたっ!」
百妖家の屋上に、依檻が。バルコニーに、歌七星が。玄関先で蹲っているのは麻露と愛果。そして、百妖家へと続く坂道で激闘を繰り広げていたのは──あの、亜紅里だった。
「ッ!」
そんな彼女に向かって飛び降りたのは、黙考していた和夏で。
「アグ!」
手を伸ばし、マギクからの攻撃を鉤爪で弾き返した。
記憶が疼く。
刺さっていた鉤爪が食い込む。
「生き、て……?」
思い出そうとして、結局思い出せなかった。だから首を振り、何も考えずに飛び降りる。
「結希様っ!」
「『着地せよ』!」
心春の言霊に縛られた結希は羽根が生えたように着地し、流れるように和夏と亜紅里の元へと駆け寄る。
「ユウ!」
「ゆう、ゆう……?」
二人を追い越して立ち塞がった結希は、途中で見えた亜紅里の姿の痛々しさに胸を強く締めつけられた。
あの亜紅里が血を流している。
結希が三度戦って一度もまともな攻撃を与えられなかった亜紅里が、人間姿のまま血を流している。
わけがわからなかった。正面にいるマギクは相も変わらず黒いマントを着用し、目深にフードを被っている。
「……また会ったな」
そう声をかけると、マギクは思い切り口元を歪めた。




