第十ニ章 もう一度、動き出す
久しぶりに会った彼女との時間は、思っていた以上に短かった。
仕事中だから、以前のようにずっと俺の隣にいるわけではない。
他のお客さんのところへ行って、また戻ってくる。
その繰り返し。
それでも、彼女が視界にいるだけで、不思議と安心した。
「最近、仕事どうですか?」
彼女が戻ってきたタイミングで聞いてくる。
「前より楽になったかな」
「そうなんですね」
「部署が変わってから、かなり違うよ」
「よかった……」
彼女が小さく笑った。
「前はすごく大変そうでしたもんね」
「まあね」
「ちゃんと寝てます?」
「一応」
「一応って……」
彼女が少し呆れたように笑う。
その表情を見て、胸の奥が温かくなる。
以前と同じだった。
彼女は、何も変わっていない。
いや。
少しだけ変わったのかもしれない。
以前より大人っぽく見える。
でも、笑ったときの表情はあの日と同じだった。
「つづみは?」
「私ですか?」
「うん。学校」
「大変ですけど、楽しいですよ」
「美容師になるんだもんね」
「はい」
彼女の目が少し輝く。
「絶対になりたいんです」
「そっか」
「だから、頑張らないと」
「うん。応援してる」
俺がそう言うと、彼女は一瞬だけ黙った。
「……ありがとうございます」
その声が、ほんの少しだけ震えていた。
それからしばらくして、彼女が席を離れた。
俺は一人でグラスを眺める。
以前なら、もっと彼女と話したいと思った。
できるだけ長く隣にいてほしいと思った。
でも今日は違った。
会えただけで嬉しい。
話せただけで十分だった。
彼女には彼女の生活がある。
夢がある。
俺は、それを邪魔したくない。
「……これでいいんだ」
そう呟いた。
すると、後ろから声が聞こえた。
「何がいいの?」
「……ママさん」
いつの間にか、ママさんが立っていた。
「ずいぶん大人しくなったわね」
「そうですか?」
「前は、あの子が席を離れるたびに寂しそうな顔してたでしょう」
「……そんな顔してました?」
「ええ」
ママさんは笑った。
「でも今日は違う」
「……」
「少し余裕ができたんじゃない?」
俺は少し考えた。
「そうかもしれません」
「どうして?」
「彼女のことが好きなのは変わらないです」
「うん」
「でも、付き合えないからって、無理に振り向かせようとは思わなくなりました」
ママさんは黙って聞いている。
「彼女が夢を叶えるまで、待つとか……そういうことでもなくて」
俺はグラスを見つめた。
「ただ、彼女が頑張ってるなら、それを応援したいなって」
「……そう」
ママさんが優しく笑う。
「いい顔するようになったわね」
「え?」
「最初に来たときとは大違い」
俺は苦笑した。
「最初は本当に場違いでしたからね」
「そうね」
「今も場違いですけど」
「ふふっ」
ママさんが笑う。
「でもね」
「はい?」
「あの子も、あなたが来たときは嬉しそうだったわよ」
「……」
胸が少しだけ跳ねる。
「ただ、それだけは覚えておいて」
そう言って、ママさんは仕事へ戻っていった。
俺はその言葉を何度も考えた。
帰る時間になった。
「今日はありがとうございました」
彼女が見送ってくれる。
「こちらこそ」
「また……来てくれますか?」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「……いいの?」
「はい」
彼女は小さく頷いた。
「迷惑じゃなければ」
「迷惑なんて思ってないです」
「そっか」
「だから……また来てください」
その言葉が嬉しかった。
「うん。また来るよ」
「待ってます」
彼女が笑った。
店を出る。
夜の街を歩きながら、俺は空を見上げた。
何も解決していない。
俺たちは恋人じゃない。
彼女の気持ちも分からない。
それでも。
「……今日は来てよかった」
そう思えた。
一方。
店に残ったつづみは、ぼんやりと入口を見つめていた。
「……帰っちゃった」
思わず呟く。
久しぶりに会った。
嬉しかった。
もっと話したかった。
本当は、もっと近くにいたかった。
でも、自分から距離を置いた以上、そんなことは言えない。
「……また来てくれるかな」
そう思った瞬間。
「また来てほしい?」
「……!」
後ろからママさんの声。
「聞いてたんですか?」
「聞いてないわよ。顔に書いてあるだけ」
「もう……」
つづみは恥ずかしそうに笑った。
「嬉しかった?」
「……はい」
「そう」
「でも……」
「何?」
「私、まだ夢を諦めるつもりはないです」
「知ってるわよ」
「恋愛も……ちゃんとできるか分からない」
「それも知ってる」
ママさんは優しく言った。
「だから、今すぐ答えを出す必要なんてないでしょう」
「……」
「会いたいなら会えばいい。話したいなら話せばいい」
「でも、期待させたら……」
「それは二人で考えればいいの」
つづみは黙った。
「あなたが一人で全部決めなくてもいいのよ」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなった。
その夜。
帰宅した俺は、スマートフォンを開いた。
しばらくすると、つづみからメッセージが届いた。
『今日は来てくれてありがとうございました』
俺はすぐに返信する。
『こちらこそ。久しぶりに会えて嬉しかった』
既読がつく。
少しして。
『私も嬉しかったです』
その一文を見て、思わず笑ってしまう。
そして、もう一つメッセージが届いた。
『またお話ししたいです』
俺の指が止まった。
胸が熱くなる。
『うん。また話そう』
それ以上は送らなかった。
今は、それでいい。
焦らなくていい。
少しずつでいい。
止まっていた二人の時間が、ほんの少しだけ動き始めた。
恋人ではない。
まだ、何も始まっていない。
それでも――。
あの日、一度離れた二人は。
もう一度、互いの存在を確かめ始めていた。




