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欠月剣娘百越譚  作者: 宙うし
第1章 ベトナム
3/11

3.出稼ぎ

 アパートの細い共用廊下、チカチカと不規則に瞬く裸電球の下で、タオとリエン、そしてロローリャが思い思いに腰を下ろしていた。タオは煙草をふかしながら壁にもたれ、リエンは子どもを膝に乗せてあやしている。ロローリャは床に座り、フオンに半分だけ意識を向けながら、リエンの子どもをあやす手伝いをしていた。


 フオンはいつものように廊下の端の窓際に腰を下ろし、どこを見るでもなく煙草の煙を吐き続けていた。細くなった指先がわずかに震え、灰を落とすたびになにかを振り払うような仕草を見せた。そしてぽつりと口を開いた。


「出稼ぎの話があるの」


 誰に向けたわけでもない声だったが、その場にいたリエンとタオが顔を上げた。ロローリャも、子どもをあやしながらその声に耳を傾ける。


「まとまった金が入るって。向こうでの生活はしっかり手配してくれるし、期間は3か月だって。人気の仕事だから、受けるなら急いでくれって」


 言葉は整っていた。あまりにも整いすぎていて、逆に不自然だった。


「どこで働く話だい」


 リエンが煙草を指で弾きながら、短く言った。


「中国のほうのカラオケバー。あっちは景気がいいし、少し歌って酒を注ぐだけだから」


 ベトナムでは、こういう話はたいてい人づてにやってくる。親類か、同郷か、昔の知り合いか、そのまた知り合いか。街へ出るときも、仕事を探すときも、部屋を借りるときも、頼れるのはそういうつながりしかない者が多い。だから「向こうで世話もしてくれる」という言葉は、嘘くさく聞こえるくせに、同時にひどく本当らしくも響いた。


 その場の空気が、ほんの少しだけ重くなった。タオが苦笑した。


「そんなうまい話、転がってるわけないさね」

「でも……」


 フオンは視線を落とし、膝の上で指を組んだ。


「借金、もうどうにもならないの。薬も……やめられなくて」


 最後の言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。リエンは何も言わなかった。ただ煙草を吸い、煙をゆっくり吐き出した。フオンはその沈黙に耐えかねたように、言葉を重ねた。


「ちゃんと住むところも食事も面倒見てくれるって。だから、その……戻ってきたら、ミーをいい学校に……」


 その言葉の途中で、声がわずかに震えた。自分でも信じきれていないことを、無理に信じようとしている声だった。


 ロローリャは、その顔をじっと見ていた。笑っている。笑おうとしている。だが目は笑っていない。何かを押し殺したまま、表面だけを整えている顔だった。


 それでもフオンは、その話を何度も繰り返した。翌日も、その次の日も、同じ言葉を、少しずつ言い回しを変えながら繰り返した。あの金があれば、借金は返せる。あの金があれば、ここから抜け出せる。あの金があれば、子どもをいい学校にやれる。


 誰に言うでもなく、何度も、何度も。


 そしてある日、フオンはタオの前にミーを連れてきた。


「……タオ。少しのあいだ、お願いできる? 頼める人は、あんたしかいない」


 同郷の人間に子どもを託すというのは、この国ではそれほど不自然なことではない。言葉も訛りも食の好みも通じる相手は、見知らぬ土地では血縁に近い重みを持つ。フオンがタオを選んだのも、そういうことだった。


 タオは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。


「うまくいく保証なんかないよ」


 リエンが横から口を挟んだ。


「帰る。絶対に帰る」


 フオンの声だけは、妙に強かった。タオはため息をつき、それからロローリャを見た。


「ロローリャ、一緒に見てくれるかい。あたしだけじゃ手が回らないんだよ」

「……いいよ」


 ロローリャは頷いた。断る理由もなかったし、引き受ける覚悟があったわけでもなかった。ただ、ミーの小さな手がフオンの指にしがみついているのを見て、その手が離される瞬間を想像してしまった。だから、頷いた。


 フオンはほっとしたように息を吐き、それからしゃがみ込んでミーの手を握り直した。


「いい子にしてるんだよ。すぐ帰るからね」


 ミーは何も答えなかった。ただ母親の顔を見つめていた。その瞳に、どこまで言葉が届いているのかは分からなかった。


 フオンは最後に、その小さな手をぎゅっと握りしめた。それから立ち上がり、振り返らずに扉へ向かった。ドアが閉まる直前、ロローリャはその背中を見た。細く、頼りなく、そしてひどく小さく見えた。まるで、もう戻ってこない人間の背中のように。



 ◇ ◇ ◇



 タオの仕事の都合もあって、ミーの世話はこれまで以上にロローリャの手に委ねられるようになった。いちばん時間があり、もともとフオンが出かけている夜にはミーをあやしていたロローリャが、そのまま面倒を見るようになるのは自然な流れでもあった。


 二歳のミーは手がかかった。とくに、母親がいなくなってしばらくのあいだはひどかった。夜中に何度も目を覚まし、暗がりの中でひどく怯えた顔をした。うまく声にならないぶん、その目だけが不安と恐怖をむき出しにして母の姿を探した。ロローリャはそのたびに抱き上げて、揺らして、片腕と体幹と断端で幼い身体を支え、自分の体温を伝えた。そうやって夜をいくつも越えるうちに、ミーもようやく、ロローリャの腕の中で眠り直すことを覚えていった。


 朝になると、ロローリャは小鍋で豚ひき肉の粥──チャオ・ティット・バムを作った。フオンがよく作っていた味を、タオに聞きながら真似したのだ。米を洗って水を切り、小鍋の底でうっすら色づくまで炒ってから水を注ぐ。ひき肉には魚醤をほんの少し揉み込み、刻んだ小さな玉ねぎと一緒にさっと火を通した。米が崩れてとろとろになったところへその肉を加え、最後に青ねぎを散らすと、安い台所にもちゃんと食べ物の匂いが立った。これが母親の味なのかどうか、ロローリャには分からない。ただ、ミーはその湯気を見つめるたび、少しだけ目をやわらげた。


 眠らない夜には手がかかったが、悪いことばかりでもなかった。ミーを連れて通りに出ると、宝くじは目に見えてよく売れた。ロローリャがノコギリを弾いているあいだ、ミーは横の小さなプラスチック椅子にちょこんと座り、通る人に向かってにこにこと笑った。市場帰りのおばさんは「いい子だねえ」と言って一枚余計に買い、バイクを止めた男は手を振ってから紙幣を置いていった。ノコギリの音が止むと、ミーはロローリャの顔を見て、それから宝くじの束のほうを見る。まるで次に何をするのか分かっているようだった。ロローリャはそれがおかしくて、思わず笑ってしまうことがあった。


 そうやって日々は過ぎた。最初は、決まった期間が来ればフオンは帰るのだと思っていた。だが約束の時期を過ぎても、フオンは帰ってこず、何の連絡もないまま、ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎた。


 さすがにおかしい、と最初に言い出したのはタオだった。


「一度、相談しに行くよ」


 その言葉にロローリャは黙って頷き、ミーを連れてタオと二人で近くの警察へ向かった。案内された部屋は狭く、くすんだ壁の上では古い扇風機がだるそうに回っていて、その下の机に座った男は、タオが事情を半ばまで話しただけで、すでに面倒そうな顔をしていた。


「中国へ出稼ぎに行ったんだろ」

「そうさ。期間が3か月って決まってるって話だったんだよ」

「なら、まだ向こうにいるだけかもしれない」


 タオの眉がぴくりと動いた。


「もう何か月も音沙汰がないんだよ」

「本人から被害の届けが出てるわけでもない。帰ると言って出たなら、待つしかないだろ」


 それで話は終わったような口ぶりだった。タオは机に手をつきかけたが、結局は舌打ちだけで抑えた。ロローリャは黙ってミーの手を握っていた。ミーは何も分からないまま、回り続ける扇風機を見上げていた。


 警察を出てからもしばらく、タオは何も言わないまま歩き続け、通りの角を曲がって人の流れが少し途切れたところで、ようやく胸の底に溜まっていた苛立ちを押し出すように、低い声で吐き捨てた。


「待てってさ。あいつらは待ってりゃ腹がふくれるんだろうね」


 それでもフオンは帰らなかった。


 それからまたしばらくして、今度はミーのことを相談しに役所へ行った。母親が戻らないこと、このままでは子どもの行く先が宙に浮くこと、いったいどうすればいいのか分からないこと。タオは苛立ちを押し殺しながら、なるべく順を追って説明した。


 窓口の女は書類をめくり、顔も上げずに聞いた。


「母親は死亡したんですか」

「分からないよ」

「戸籍上の父親は」

「知らない」

「正式な委任状はありますか」

「あるわけないさ」


 そこでようやく女は顔を上げた。


「では、こちらでは何もできません」

「何も、って、この子はどうなるんだい」

「今はあなたが預かっているんでしょう」

「預かってるっていうか、放っておけないから見てるだけだよ」

「それなら、引き続き面倒を見てください。母親が戻るか、正式な書類が出るまでは動けません」


 タオの顔が強張った。


「戻らなかったら?」

「そのときは、また手続きが必要です」

「いつだい、その“そのとき”ってのは」

「状況が確定してからです」


 まるで最初から、ミーのことなど見ていないような言い方だった。ロローリャは窓口の高さに届かないミーの頭を見下ろした。役所の人間にとってこの子は、泣くでも喚くでもなく、ただ大人の脇に立っている小さな影でしかないらしかった。


 帰り道、タオは珍しく煙草にも火をつけず、ずっと黙ったまま歩いていた。ミーはロローリャの指を握ったまま、石畳の継ぎ目を一つずつ踏むようにしてついてきたが、自分のことがいまどこでどう決められようとしていたのかなど、たぶん何も分かってはいないのだろう。それでも、ときどき不意に立ち止まっては通りすがりの人の顔を見上げるので、そのたびにロローリャは、胸の奥を何か細いものでつつかれるような気がした。


「結局、あたしたちで見るしかないってことさね」


 そう言ったタオの声には、怒りよりも、もう動かしようのない疲れが濃く沈んでいた。ロローリャは何も言わず、ただミーの手を握り返した。柔らかくて、小さくて、ひどく軽いその手は、誰かが決めなければならないことだけを、黙ってロローリャに渡してくるようだった。

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