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欠月剣娘百越譚  作者: 宙うし
第1章 ベトナム
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2.女たちのアパート

 その夜、ロローリャはいつものようにラックチャイ川の湿った風を背に受けながら、バインダークアの屋台へと立ち寄った。バインダークアは蟹とトマトをベースにした濃厚なスープに平たい米麺を入れたハイフォンの名物料理で、上には香草がたっぷりと乗り、仕上げにライムを絞るとさっぱりとした酸味が立ち上る。値段は安く、常連のロローリャには屋台の親父がいつも具を気前よく大盛りによそってくれた。彼女は、路面に並べられた低い赤いプラスチック椅子に深く腰を下ろすのが好きだった。身体を丸めて座れば、周囲に密集する人々の熱気が孤独を塗り潰してくれるからだ。


 ともにテーブルを囲むのは、リエン、タオ、そしてフオンといった、みな同じアパートで暮らす顔ぶれだった。


 リエンは二十代半ばで、三歳になる息子を抱えた未婚の母だった。背が高く、愛嬌のある笑顔をしていて、男にも店にも可愛がられる術をよく知っていた。昼は食堂や洗い場のような表の仕事で金をつなぎ、夜のあいだは子どもをロローリャに預けてKTVへ出る。そうやって男の相手をして稼ぎを足しながら、どうにか日々を回していた。宝くじの束をロローリャに預け、この街でのささやかな「シノギ」を覚えさせたのもリエンだった。


 タオは二十代後半で、タインホアの貧しい村から出稼ぎにきた女だった。故郷には幼い子どもを二人残しており、その仕送りが、何をするにもまず先に立つ。市場まわりの雑用や食堂の手伝いで細かく金をつなぎながら、夜になると酒も会話もいる店へ出る。客の機嫌を取るのがうまく、どこまで笑えばよくて、どこで引けばいいかも知っている。逞しさのある顔つきと、少し乾いた物言いには、金の切れ目や客の顔色を数えながら、それでも明日の食い扶持を取りに行く女のしぶとさが滲んでいた。


 そしてフオン。彼女もまたタインホアの出で、生まれて間もない娘のミーを抱え、一年前にこの港町まで流れてきた。昼の仕事を探しても長続きせず、愛想よく客に酒を注いだり、話を合わせたりするのも得意ではなかったため、夜は不定期にドーソンの海沿いへ出て、置屋の女として足りない分を稼いでいる。かつては整った顔立ちだったろうと推測させる凛とした骨格をしているが、慣れない仕事と育児、そして産後の疲弊からか、今はただ遠くを見つめるような静かな眼差しを湛えている。


 彼女たちは、ロローリャがこの街で最も近くで見てきた女たちであり、同時にハイフォンの路地裏に掃いて捨てるほど存在する、生身の「母親」たちでもあった。


 タオがロローリャに声をかけながら麺をすすった。


「今日はよく売れたって話じゃないか」

「即売だよ。新記録かも」


 ロローリャが得意げに胸を張ると、リエンがライムを絞りながら横目で見た。


「それだけじゃないでしょ。大金ももらったって聞いたよ」

「知らない男が五十万ドン置いてった。でもまあ、わたしの演奏が良かったんでしょ」


 タオが怪訝そうに眉を上げた。


「知らない男って、誰さ」

「知らないってば。背が高くて、無愛想で、鋭い目をした男」

「それで、何かあったのかい。帰りに少し揉めたって聞いたよ。あんた、また面倒な道を通ったんじゃないだろうね」

「ちょっとだけね。路地で三人に囲まれて、『さっきの金の分け前を寄こせ』ってナイフを出されたの」


 リエンの箸が止まった。


「ナイフ!?」

「でもそのとき、五十万ドン置いてった男が現れて、一瞬で二人をボコボコにしちゃったんだ。三人目が咄嗟に銃を撃ったんだけど、その男はいつのまにか剣を抜いてて、キィンって音がして、弾が壁に飛んだんだよ。あの動き、ほんとにすごかった」


 ロローリャは身を乗り出し、興奮したまま続けた。


「まあ、あいつが来なくても、わたしには隠し釘があったし、目か喉くらいなら狙えたけど」


 リエンが呆れたように目を丸くした。


「まだそんなもの持ってるのかい? まったくこの子は。大丈夫じゃない子ほど強がるんだよ」

「強がってないって。本当に大丈夫だもん」


 その言葉に、タオの顔から笑みが消えた。


「そりゃ、まずいね。赤鳳会かもしれないさ」

「なに、それ」

「港の裏を仕切ってる連中だよ。薬、賭場、借金取り、女の売り買い。表じゃ運送屋や警備会社みたいな顔をしてるけどね。銃に向かって剣を抜ける男なんて、まともな道の人間じゃないさ。とにかく、金を持ってる日に裏路地へ入るのはやめな」


 ロローリャは不満げに唇を尖らせたが、タオの声がいつもより低かったので、それ以上は言い返さなかった。


 その横で、フオンだけは静かに沈黙を守っていた。最近のフオンは、明らかに様子がおかしかった。落ちくぼんだ目元には生気がなく、かつての艶を失った肌は土色に沈んでいる。大好物のスープにもほとんど手をつけないその姿に、ロローリャは売春婦たちの間に蔓延する薬物の影を感じ取っていたが、そのことを口にする勇気は持てなかった。


 ふとした会話の流れで、リエンが子どもの話を持ち出した。


「うちの子、ご飯を自分で食べようとするんだけど、こぼしてばっかりで」

「三歳ならそんなもんさ」


 タオが笑って応じる。


「うちの二人なんか、田舎に置いてきてるから今頃どんだけ大きくなってるか。もう走り回ってるだろうさね」

「会いに行かないの」

「金が貯まったらね。まだまだ先さ」


 タオが麺をすすりながら、帰ることのできない故郷を思うような、遠い目をした。リエンが続けた。


「フオンのとこの子は? 夜泣きまだひどい?」


 フオンは少し間を置いてから、静かに答えた。


「ロローリャがいるから、なんとかなってる」


 テーブルの視線がロローリャに集まった。ロローリャは「別に」と肩をすくめたが、悪い気はしなかった。

 しばらく沈黙が続いた後、タオがふとロローリャに目を向けた。


「そういやあんた、どこから来たのさ。親は?」

「生まれたところは分からない。親はいないけど、お姉ちゃんがいたよ。でも洪水で、住んでたところが全部流された。そのとき離れ離れになって、いろいろあって、ここに来ることになったの」

「……よく、生きてたもんさね」

「お姉ちゃんだって、きっと生きてるはず。いつか探しに行くんだ」


 タオとリエンは一瞬だけ顔を見合わせたが、誰もが消したい過去を抱えるこの街の暗黙のルールに従い、それ以上の深追いはしなかった。ただフオンだけが、その濁った瞳でロローリャの顔をじっと見つめ続けていた。



 ◇ ◇ ◇



 商売女たちのアパートには、血のつながりはなくても家族に近い何かがあった。口は悪いが熱を出した夜には黙って薬を買ってきてくれるジウ、冗談交じりに「うちの子」と呼んでくれるタオ、そして頼んでもいないのにスカートのほつれを直してくれるリエン。彼女たちはロローリャのことを「妹分」と呼んだ。最初にそう呼んだのが誰だったか、もう覚えていないが、気がついたらそういうことになっていた。ロローリャも悪い気はせず、むしろその呼ばれ方がどこかくすぐったくて好きだった。


 朝、洗濯物を片腕でたぐり寄せて干し、米を研いで鍋を火にかける。子どもに朝飯を食わせて、女たちが眠り込んでいる間に杖をつきながら掃除を済ませ、昼間は通りに出て宝くじを売った。夕方に戻れば夕飯の支度をして、廊下で女たちの話に混ざった。客の愚痴、港の噂、男の品定め、金の話──子どもには聞かせられない大人の世界が廊下に漂っていた。ロローリャにはまだ縁のない話ばかりだったが、その剥き出しの生々しさが面白かった。時折鋭いことを言って女たちを笑わせると、それがまた嬉しかった。


「最近、本当に中国人客の景気がいいね。あいつら、チップを出すときだけは手が滑ったのかってくらい気前がいいよ」


 リエンが真っ赤なマニキュアを塗りながら、下品に笑った。


「店でもさ、『お兄さん、かっこいい』って一言でチップが倍だよ。私も真面目に勉強しようかね。ニーハオ以外の、もっとこう……財布の紐が緩む魔法の言葉をさ」


 ジウが腰をくねらせて見せると、タオが煙草の灰を床に落とした。


「言葉だけじゃないさ。街を見てみな。看板も店も、いつの間にかあっちの文字ばかりさ。金があるところには看板も女も寄ってくるってことさね」


 リエンが爪に息を吹きかける。


「お隣のラオスの国境町なんか、もう実質あっちの領土らしいよ。カジノもホテルも中国企業が丸ごと押さえて、地元の警察すらお伺いを立てなきゃ入れない特別区になってるって話だね」

「へえ。町ごと買えるの」


 ロローリャが目を丸くすると、ジウが笑った。


「買うんじゃなくて、借りるんだよ。九十九年とか、そんな長いあいだね。借りたまま返さない借り方ってやつ」

「それだけじゃないさ。中国企業のロゴがついた車なら、あっちじゃ国境もほぼ顔パスらしいさ。荷台に何を積んでようが、中に誰が乗ってようが、役人は中も見ずにゲートを開ける。あっちの看板は、ラオスじゃどんな身分証より効く魔法の通行証なんだってさ」


 タオがそう言うと、廊下に少しだけ湿った沈黙が落ちた。ロローリャはしばらく考え込み、それから真顔で天井を見上げた。


「じゃあ私たちも、この部屋を九十九年借りようよ。返す頃には大家のほうが先に忘れてるでしょ」


 一拍置いて、女たちがどっと吹き出した。


「この子、口が立つねえ」


 ジウが腹を抱えて笑うと、リエンが続けた。


「顔と口だけは一人前だよ」

「口だけじゃない。ちゃんと稼いでるし」


 ロローリャが言い返すと、また笑い声が廊下に広がった。


 ベトナムでは売春は法律で禁じられているが、港町ではそれが消えることはない。女たちは店に属しているようでいて、実際にはもっと曖昧な形で働いている。カラオケ店やバー、マッサージ店に顔を出し、そこで客を捕まえて外の安ホテルへ流れる者もいれば、顔なじみの客と直接やり取りをして呼び出される者もいる。値段は相手や場所によって変わるが、一晩で数十万ドンから、それなりの客なら百万ドンを超えることもある。だがその金がそのまま手元に残ることは少ない。店への取り分、仲介、借金、薬──様々な名目で削られ、結局は日々を繋ぐだけの額しか残らない。働いている女の多くは地方から流れてきた者で、家族に仕送りをしているか、あるいは何かから逃げてきた者たちだった。


 このアパートの女たちも、日が暮れるころになると、それぞれが水商売へ散っていく。子どもの夜の預け先などないから、ロローリャのような存在が必要になる。残された子どもたちを一つの部屋に集めて寝かしつけ、朝まで見ている。ロローリャに与えられた役目は、そういうものだった。


 このアパートの日常は、傍から見れば歪んだものであったが、それでもその歪んだ日常の片隅に、ロローリャの「居場所」はあった。子どもらの傍に寄り添い、夜中に泣けば抱き上げてあやす。腕が一本しかないから、やり方を工夫しなければならないことばかりだったが、文句は言わなかった。言っても仕方がないし、それより早く終わらせた方がいい。ロローリャはそういう子どもだった。


 深夜、仕事を終えたフオンが迎えに戻ってくる。眠ったミーを起こす前に、彼女はいつものように、どこからか拾ってきた小学校の教科書をロローリャの前に広げた。ページの端はぼろぼろに破れ、表紙も擦り切れている。ミーを預かるようになったころから続く、二人だけの密かな約束事だった。


「ここ、読んでみて」


 フオンが指し示す一行を、ロローリャは身を乗り出して懸命に追い、声に出して読み上げた。六つの声調を持つベトナム語は、最初は何度発音しても通行人に聞き返されるほど難解で、そのたびにロローリャは悔しさに布団の中で口だけを動かし、夜通し復習を繰り返した。文字が読めるようになるたびに世界は少しずつ形を変えていった。屋台の看板、港の掲示板、客が小脇に抱える新聞の見出し──意味が脳に染み込んでいく感覚に、ロローリャは密かな喜びを感じていた。


 フオンの手は時折薬の影響か小さく震えていたが、彼女はそれを隠すように文字を指で強く押さえ、一生懸命に言葉を授けてくれた。中学までしか出られなかった、だからこの仕事しかなかった──とフオンは教えながらよく言った。口癖のように、独り言のように。もっと学があれば選べた、あんたは頭がいい、言葉さえ身につければもっとましな道がある、あんたはまだ間に合う──ロローリャはそのたびに素直に頷いた。だからフオンが先生になってくれた夜、ロローリャは迷わず前に座った。


「私も大して得意じゃないけど、港で使えたらきっと稼ぎが変わるから」


 やがて学習は英語にまで及び、フオンに促されるまま港の外国人船員にたどたどしい英語で話しかけ、言葉が通じずとも笑顔を返された夜、ロローリャはその手応えをフオンに報告した。


「あんまり通じなかったけど、笑ってくれたよ」

「それで十分。また話しかけなさい」


 タオは分からない字を聞くと面倒くさそうにしながらも答えてくれたし、外国人客と多少やり取りができるリエンは英語の発音を直してくれることもあった。


「なんでそんなに一生懸命なの」

「楽しいから」


 それは本当のことだった。姉を探すためという理由もあったが、新しい言葉が自分のものになっていく感覚は、それだけでも十分に楽しかった。ある夜、教科書を閉じながらロローリャがフオンに言った。


「ありがとう、勉強を教えてくれて」


 フオンは少し面食らったような表情を浮かべたが、すぐにいつものぶっきらぼうな調子に戻り、古びた紙をめくった。


「次のページ、やるよ」


 薄暗い電球の下で肩を寄せ合い、二人はそうやって何度も夜を重ねていった。だからこそ、フオンが「出稼ぎの話がある」と切り出したあの夜の冷たさを、ロローリャは後になっても鮮明に思い返すことになる。

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