1:正義の味方は片想い中
これは僥倖なのではなかろうか。
穂坂 樹は、恋い焦がれる女性の尻に敷かれながら考えた。
なおこれは、比喩ではない。彼は今、物理的な下敷きとなっていた。
「地盤沈下どころか、地面が陥没するだなんて信じられません。こんな場所に高層ビルを建てようだなんて、杜撰にも程があります」
恋する女性が樹の上で淡々と、呪詛のように工事業者を罵っていた。そちらへ、首だけ持ち上げる。
とはいえ身につけている強化スーツとヘルメットが邪魔をして、その動きは少々鈍いが。
視界の隅に彼女を捉え、うんうんと樹は同意。
「うん。気持ちは分かるよ……分かるんやけどね。でも、そろそろ降りてもらえると、僕も有り難いんやけど」
尻の下からの声に、女性は一瞬、ぴくりと身を強張らせた。
次いで、下を覗き込む気配。
「あ……失礼しました。すみません」
平素戦いの場でも淡々としている彼女が、ごくわずかにだが、上ずった声を発して樹から飛び降りた。
そして折り目正しく、頭を下げる。
「下敷きにしているとは気付かず、すみませんでした。お怪我はありませんか?」
先程は動きづらかった強化スーツが幸いし、地面の崩落に巻き込まれても無傷であった。
胸元や腹部を撫でながら、樹は一つ頷く。
「いや、ピンピンしとるよ。敵相手にも律儀やなぁ、君」
「穴に落ちた危機的状況において、敵も味方も関係ありませんので」
数メートル上の地上を見つめ、彼女はきっぱりと言った。その姿を、樹はしばし眺める。
今でこそ泥だらけになっているものの、真っ黒なコルセット風のドレスに、同じく黒のドミノマスク。
もちろん彼女は伊達や酔狂で、ゴシックロリィタな出で立ちをしているわけではない。これは彼女の戦闘服なのだ──悪の組織の一員としての。
それに相対する樹は、無論正義の味方と呼ばれる組織に属している。
組織の名前は、ジュエルナイツ。その実働部隊に所属している彼の、コードネームはジュエルグリーン。
だがそれより重要なのは、彼が敵対組織の女幹部に片想い中であり、そんな暗中模索の恋路に今、一筋の光明が差し込んでいるということ。
実際の穴の中は、頼りない光がぼんやり届くばかりであったが。
「ところで、ちょっと訊きたいんやけど」
「はい」
「これ、君のやんな?」
光明こと名刺大のカードを、樹はひらひらと掲げた。
マスク越しに目を細め、薄暗い中でカードの文字を読み取ろうとした彼女であったが、すぐさま大きく、その瞳を見開いた。
「それは……私の学生証。返してください」
言葉と共に伸ばされた手を、樹はほぼ無意識にかわす。
彼女の追撃を避けつつ、学生証をじっくり眺めた。ヘルメットのバイザーのおかげで、暗所の読書にも困らないのだ。
「へー、蛍ちゃん言うんや。あ、通り名のベルフラワーも、ホタルブクロから来てるんや?」
「よくご存じですね。御名答です」
「やった」
ガッツポーズをする樹を、蛍は諦めずにねめつける。
「ですので、返して下さい。それがないと、大学図書館に入れなくなります」
「図書館で勉強すんの? 真面目やねぇ」
「学生の本分ですから」
「せやったら、真面目さを見込んでお願いがあるんやけど。叶えてくれたら、学生証もすぐ返すで」
しばし、動きを止めて睨み合う。
「……お金はありません。身体を売るのも拒否します」
重苦しい声に、樹は焦った。酷い誤解である。いや、そう仕向けたのは自分の態度か。
「僕、悪徳商人やと思われてんのっ? ちゃうって! カフェに同行して欲しいだけやねん!」
デートと言い切れない、正義の味方の意気地のなさよ。
当然、蛍は胡散臭そうに顔をしかめる。
「カフェを隠れ蓑にした、新興宗教の集まりですか?」
「ちゃいます! 純粋にケーキを楽しむお店です!」
やけっぱちに言って、樹は自身のヘルメットの側面をいじった。バイザーが内部に収納され、素顔がさらされる。
ぐ、と息を飲んで、蛍は固まった。
それもそうであろう。ジュエルナイツの正体も素顔についても、マスコミですら探らないのが暗黙の了解となっている。
就業規則を破ってまで樹が素顔を見せたのは、彼女への誠意と──「ここまでしたんだから、お願いします」という、しみったれた嘆願の現れであった。
「……この通りの、いかついオッチャンやから、ケーキ食べたいけど入り辛いねん」
「それで私の同行者を装いたい、と」
「せや」
「もしも嫌だと申し上げれば?」
「学生証は返さへん。記念に持って帰ったる」
一体何の記念なんだ、と自分でも内心頭を抱える。
やや捨て鉢になった彼を無表情に見据えた末、蛍は一つ息を吐いた。
駄々っ子を持て余している母親のような、苛立ちと疲れが混じった嘆息である。樹の良心が、ちくりと痛んだ。
「脅迫だなんて、ヒーローのすることですか?」
「……すんません」
「もういいです。カフェぐらいでしたら、同行いたしますから」
「ほんまにっ?」
現金にも、樹の声は弾んだ。
対する蛍は、あくまで淡々とした姿勢を崩さない。
「ただし費用は、そちらで負担していただきます」
「それはもちろん!」
「私の素性についても、内密に願います」
「当然やん!」
アホ面を晒して何度も頷く樹を、蛍は冷ややかに眺めている。
その時であった。頭上から、こちらへ呼びかける声がする。
「グリーン、大丈夫?」
「ベルフラワー殿、ご無事か?」
それぞれの仲間の呼びかけだ。樹はバイザーを戻すと同時に顔を上げ、軽く手を振った。
「生きてるでー」
蛍も平素より声を張り、仲間の呼びかけに応じた。
「無事です。上に戻りたいのですが、ロープか何かありますか?」
「梯子を探して参った」
彼女の仲間の声に、グリーンの同僚が続く。
「申し訳ないけど、今は呉越同舟ってことで。梯子下ろすから、仲良く上って来てね」
「おー」
「分かりました」
浮かれた樹の声と、硬質な蛍の声が返答する。樹はちろり、と彼女を見る。
分かっています、とばかりに、少し不機嫌な顔が小さく頷き返した。