1.聞こえてくる声
乾燥した風がエミーリエの銀色の髪を撫でていく。
風に靡いて顔にかかる髪を手で払うと、視界が開け明るい陽の光が目に入ってきた。眩しさに手を上げて手の平で顔に影を作ると、腕飾りがリィンと澄んだ音を鳴らした。
ふと、視界の隅に白いものが見えてそちらを見やる。
「フェアリーリングだわ」
目的もなく邸宅の庭園を散策していたエミーリエだったが、思いがけないものを見つけたことに頬がゆるむ。
白いキノコが綺麗な円状に並ぶその様はフェアリーリングと呼ばれ、妖精たちが輪になって踊った跡なのだと引退した老メイドに聞いていた。
エミーリエは輪に近づき辺りをキョロキョロと見渡すと、茂みの葉をめくって裏を見たり、木の虚を覗き込んだりしてみる。
そんな令嬢らしからぬ行動は、父親や義母あるいは女家庭教師に見つかれば咎められることは間違いないだろう。
王都のはずれにある男爵家の邸宅には、領地の屋敷ほどはないが手入れの行き届いた庭園がある。王都は緑が少ないため妖精の姿はほどんど見ないが、庭園のそこかしこでは妖精の気配を感じることができた。
「妖精はいないみたいね」
今日はすぐに義母に告げ口をする、エミーリエ付きのメイドは休みをとっている。
年嵩のメイド頭から代わりの者を宛がわれそうになったエミーリエは、メイド頭が口を開く前に邸宅を飛び出してきたのだった。
一人の開放感に浸りながら庭園を見回していると、夏の匂いを含んだ風がエミーリエの側を通り抜けた。メイド不在で背中に下ろされたままのエミーリエの髪が、陽の光を受けてキラキラと風に舞っている。
本来ならエミーリエは髪は下ろしている方が好きだが、毎朝メイドがきつく結い上げるのだ。拒否をすればメイドからの報告を受けた義母に叱責されるため、エミーリエは仕方なく言いつけに諾々と従っていた。
「今日は自由な日ね」
久しぶりの解放感に心躍らせながらも、邸宅に帰ればどうせ勝手をしたことを責められるのだと分かっている。それでも、束の間の自由を楽しむのだった。
◇
エミーリエは子供の頃から変わっている子供だと言われていた。
何もない場所でひとりでしゃべったり、突然笑い出したりする。家族はおかしな行動をとる娘を厳しく叱り、使用人は気味悪がって近づきたがらなくなった。
唯一の理解者は、エミーリエが物心つく前に亡くなった母親付きのメイドだった。夫を亡くして路頭に迷いそうなところをエミーリエの母親に助けられたメイドは、エミーリエの母親に忠義を尽くしていた。
元平民のエミーリエの母親も、堅苦しい貴族の娘などより気が楽だったのだろう。自分の母親のような年齢のメイドを、近くに配して過ごしていた。
元平民だからというだけではなく、エミーリエの母親は浮世離れした人だったと、そのメイドが話して聞かせてくれた。
嵐が来ることを知っていたり、急な来客が来ることを事前に察して執事に伝え驚かれたりしていた。また、誰もいない窓際にミルクの入ったコップを置いたり、奇行ともいえる行動が多かった。
愛ゆえにエミーリエの母親の行動に目を瞑っていた父親だったが、娘であるエミーリエはそうはいかなかった。
厳しい家庭教師をつけ、貴族令嬢としての礼儀作法や行動、思考を身につけさせようと幼い頃から厳格な教育を強いていた。
父親にすら理解してもらえないエミーリエだったが、古びたベンチの陰に見た小さな存在や、古木の枝に座って歌を歌っている何かのことを老メイドだけは興味深げに聞いてくれた。
『これは秘密ですけどね。エミーリエ様のお母様も、同じものが見えていらっしゃいましたよ』
老メイドは妖精のような不可思議な存在を信じている田舎町の出身だったため、エミーリエの母親のいうことも当然のことのように受け入れていたのだった。
母親は妖精のように美しい人だったのだそうだ。
澄んだ湖畔の湖を思わせる水色の瞳。絹糸のように繊細できらきらと煌めく銀色の髪。透き通るように白い肌に、その頬を薄桃色に染めて微笑む姿は、この世のものではないようだったという。
母親は教会の下働きをしている平民だったが、教会を訪れた男爵家嫡男の父親が一目で恋に落ち、周りの反対を押し切って結婚したのだった。
妻に夢中なエミーリエの父親は、妻の不可思議な言動を咎めることはなく、ただ妻を盲目的に愛し続けた。
そんな母親だが、エミーリエが一歳を迎える頃に流行病であっけなく命を落とした。
父親の嘆きようはそれは見ていられないほどだったという。
やがて母親が死んだ翌年に、父親は親族の勧めで後妻を娶った。
後妻は名をパメラといい、かつて父親と婚約を結ぶ予定だった令嬢だ。
正式な婚約は結んではいなかったが、同じ男爵家の次女で家格も年齢も釣り合っており、広くはないが隣接する領地を持つ貴族として相応しい縁組みだった。
次の誕生日を迎えたら婚約を結ぼうというときに、エミーリエの父親の前に可憐な少女が現れ、パウラはその座を奪われた。
エミーリエの母親に心奪われた父親は、家を出る覚悟まで示して両親に強く訴え、必死に願いを通した。結果として捨てられたような状況に陥るパウラのことなど、微塵たりとも考えてはいなかったのだ。
めぼしい貴族令息にはすでに婚約者がいる。自分の将来は安泰だと高を括っていたパウラはここにきて悲嘆にくれることになった。
仲が良いと思っていた令嬢たちは慰めるどころか、あからさまな皮肉と嘲りをあけすけに放ち、社交界での立場も失ったパウラはエミーリエの母親を強く憎んだ。
最愛の妻が男児を設けることなくこの世を去ってしばらく経った頃から、父の周囲で再婚を後押しする声が目立ち始めた。
父親の子はエミーリエひとりしかいないが、男子しか家を継ぐことができないこの国では、エミーリエが家を継ぐことはできない。家の存続のためには、男子をもうけるしかないのだ。
最初の結婚で無理を通した後ろめたさのある父親は、親族たちが後妻を勧めることに反対をすることはなかった。
そうして名が上がったのは、適齢期も過ぎ嫁ぎ先に難航していたパウラだった。
結婚するのだと思っていた相手だ。パウラも憎からず想っていたこともあったが、かつて捨てられたことへの葛藤もある。しかし、他には嫁ぎ先はなく、結果としてパウラは後妻となることに頷くことしかできなかった。
エミーリエの母親を憎むパウラは娘であるエミーリエも忌み嫌い、エミーリエに便宜を図ることがないようにと、男爵家の女主人として使用人たちにきつく命じたのだった。
パウラが娘を出産した後から、エミーリエに対する態度は更にひどいものとなった。
それまでは男爵家の一人娘として多少は大目に見ていたのだろう。やがてパウラが男爵家の嫡子である長男を生んでからは、エミーリエは存在しない者のように扱われた。
父親はそれを見て見ぬ振りをして妻を窘めることはなかった。元より目にすら入っていなかったのかもしれない。
少なからず最愛の妻の死が、エミーリエの出産により無理がたたったせいだと思っていた節もある。妻が遺したたった一人の娘でありながら、妻を奪った者として愛情を与えることはなかった。
前妻にのみ心を残し、パウラにもアガーテにすら興味の欠片もない父親は、ぽっかりと空いた穴を気を紛らわせるかのように領地経営に心血を注いでいた。
そうして、夫に対する憤りを、パウラはエミーリエを虐げることで発散するのだった。
邸宅の中でエミーリエが孤立するようになった頃、それまでは遠巻きにエミーリエを見ていた妖精たちが、話しかけてくるようになった。
――オマエのネガイを、カナエテアゲヨウ。
声が聞こえるがエミーリエは聞こえないふりを貫いていた。
妖精の声に耳を傾けてはならないと老メイドが言っていたからだ。そして、それはエミーリエの母親が言っていたことなのだという。




