Brilliant Crown 10
10.
天の皇尊ハーラルが、ふたりの神に選ばせた運命の十年は確かにはったりであった。
あれから十年過ぎてもアーシュは死ななかったのだから。
代わりにハーラルがアーシュに与えた罰は、見かけ上、歳を取らせぬことだったらしい。
らしいというのは、しかけた本人は知らぬ存ぜぬで、真実など白状する気もないからだ。
それに成長した18歳の身体が歳を取ったからと、そうそう変わるものでもないのだから、周りのほとんどの者たちはアーシュが老けないことに気づかない。
イールなどは天の皇尊が約束を違えて、アーシュを不死にしてしまったのではないのかと疑い、ひとり昇殿し、ミグリを責めたりしてみたが、「冗談でも言いなさるな。天の御方が約束を違えるとでも?」と、相手にしない。
(天の皇尊だから疑っているんじゃないか…)と、イールは渋い顔をした。
十年しか生きられぬことも哀れだし、かと言って不死など言語道断である。と、責めてはみてもイールも、外見上、年を取らぬアーシュに内心安堵していた。
(ひとりだけ大人の男になってしまったら、おいてけぼりをくらったようで寂しいからな)
セックスをする時などは、特にそう感じる。
いつまでも薄荷草の匂いを残した少年と青年の狭間であるアーシュの身体が、イールには格別にたまらないなのだから。
喘ぐ声や頬を赤らめながら求める仕草などは、イールを興奮させる。
(さては、彼の御方のアーシュへの刑罰とは、私たちが死に、そしてその魂を御胸に抱く時、このままの姿で手に入れたいという己の願望だけだったのだな。しかし、そこまでいくと偏執愛などでは済まされない気もするが…今更、死んだ後の始末をどうこう思っても仕方ない話だな…)
「…イール、どしたの?何か考え事?」
イールの上に乗って、腰を動かしながら、潤んだ目を細め、少しだけ顔を傾けるアーシュは、何を置いてしても愛おしく、イールはつまらない考えなどを消し去り、アーシュを喜ばせる事だけに没頭するのだった。
十年の寿命期限は免れたが、アーシュは32歳という若さで人間として命を終えた。
「死」は自分で選んだものだった。
大事な人を守る為に、アーシュは命を投した。
彼はまだ小さかった。
三歳の誕生日を迎えたばかりの子供だった。
ウィリアム・ナサナエル・セイヴァリはベルことクリストファー・セイヴァリの一人息子だった。
ベルは27の時、結婚した。相手は母、ナタリーの遠縁の娘でクリスティーナと言う。
彼女もまたアルネマール伯爵の血を受け継いだ娘であった。
当初ベルは結婚など頭になかった。
スタンリー家とセイヴァリカンパニーを継ぐことには異存はなかったが、こと結婚になると、アーシュ以外を本気で愛する術を知らずに生きてきたベルは、父親のように家系を絶やさぬための、形だけの婚姻には否定的であった。
ベルの本質は一本気だ。こうと決めたらテコでも動かない。
男にも女にもモテるし、付き合いも下手ではないが、所詮は遊びでしかない。ベルの想いは常にアーシュに注がれていた。
アーシュはそれを理解していたし、彼の愛も大いに受け入れたが、同時にしつこいほどに結婚を薦めた。
ベルは勿論、憤慨した。
「でもさ、ベル。俺はベルの家系が途絶えるのはもったいないと思うよ。そりゃ、養子をとってもいいんだろうけど、おまえ、せっかくの美貌と由緒正しき血統なんだから結婚しろよ」
「おまえは俺のおまえへの愛の誓いを破らせるつもりなのか?…俺はおまえが誰を愛そうと責めはしない。だが、俺の真実の愛まで、おまえが否定するなっ!」
酷い剣幕でベルが怒る。間のルゥさえ尻ごみするほどである。
「俺もベルを愛してるよ。ベルが大好き、ずっと一緒にいて欲しいって思ってる。でも、おまえだって守るべき者が身近にいた方が、なんつうか、気が休まるつうか、ほんわかするつうか…俺もそういうの味わってみたいなあ~」
「アーシュ、言葉に気をつけろよ。ベルを本気で怒らせたら…僕が困る…」
相変わらず思ったことをずけずけ言う性格は変わらない。そのくせいやみがないから困る。もっと困るのはベルをとりなす役はルシファーしかいないってことだ。
「ほら、セキレイだって困ってるだろ?セキレイはサマシティとクナーアンを行き来しているんだから、ベルの常任セラピストではいられないんだぜ。代わりの可愛いおんにゃの娘と結婚して安らぐ家庭を持ってみるのも…ギャーッ!」
テーブルにあったワインボトルとグラスが同時に宙を舞った。
アーシュの両側を擦り抜け、酷い音を鳴らして壁にぶち当たった。
(だから言わんこっちゃない…)
「あ~、もったいねえなあ~。エドワードから貰った年代もののワインを…」
「うるさいっ!アーシュの馬鹿野郎っ!二度と俺に結婚の二文字を言うなっ!」」
怒りで顔を真っ赤に染めたベルはアーシュに拳固を見せ、どかどかと足を鳴らして部屋を出ていった。
残されたアーシュとルシファーは顔を見合わせた。
「なんでああ怒るのかね~。冷静に考えれば、一番良い選択だと思うけどね」
「ベルにとって君への愛は、神聖でありつづけるものなんだよ。だから、幸福な結婚であっても他のどんなより良い未来であっても比べるものではないんだ。特に君の口から聞きたくないのは当然だよ」
「…わかるけど…さ」
ルシファーはアーシュの気持ちも理解できる。
人間になったとはいえ、アーシュはクナーアンでもこのサマシティ、そしてこのアースという惑星にとっても、特異な存在であり、いわば選ばれた者なのだ。
およそ普通の人間が持ち得ないも能力も外見も、そして運命も、他の者から見れば、憧憬や畏敬の象徴として崇められるものであろう。だが、アーシュには家庭も、子孫も、ありきたりの生活さえも望めない者になってしまった。
だからこそ、身近な愛する者たちに、あたりまえの幸せな生活をと望んでいるのだ。
「ベルの結婚のことは、僕がエドワードとカルキさんに相談して、上手くいくように段取りをつけるから、アーシュはこの件に首を突っ込まないこと。何も言うんじゃないからね。わかった?」
「ちっ!つまんねえの」
無造作にカウチに身体を伸ばし、口唇を尖らせるアーシュは、子供の頃と少しも変わらない。
ルシファーだけが知るアーシュであり続ける幸福を、ルシファーは大切にした。
彼はアーシュが死ぬまで、アーシュの恋人だった。
幸いなことにベルが娶ったクリスティーナは、非常に賢くまたキュートな娘であった。
ベルよりも五才下の世間知らずのお嬢様育ちではあったが、持ち前の明るさと天真爛漫さがセイヴァリ家とスタンリー家を共に照らすともしびとなり、初めは渋っていたベルも素直な心でクリスティーナを愛そうとこころがけた。
のちに聖光革命と呼ばれた各地の戦争は、アルトの魔力を怖れたイルトの絶望感をあおった宗教指導者の政治支配をもくろむいわくつきの陰謀ではあったが、魔王アスタロトとして立ち上がったアーシュは、圧倒的な魔力でこれを鎮めることに成功した。
かかった期間はわずか半月である。
その後も、乱心した聖職者たちは、聖なる戦いを達成すべき堕落した悪魔とアーシュを罵り、魔力を持つアルトを籠絡させ、アーシュを抹殺しようと躍起となり暗躍したのだった。
幼子ウィリアムに掛けられた呪いは複雑であり、またアーシュを狙った呪術であるため、彼の命を助けるにはアーシュが身代わりとなるしか手立ては無かった。
アーシュは微塵も迷わなかった。
アーシュはウィリアムを自分の子供のように可愛がり、そして家族として愛していた。
アーシュが決めた以上、引き留める者は誰もいなかった。ベル以外は。
ベルはアーシュが自分の子供の犠牲になることを拒んだ。
この世界にとってアーシュがどれだけ重要であり、先導者として絶対的な存在であるかは、言うまでもなかった。
だがアーシュはベルの手を取り、穏やかに微笑んだ。
「なあ、ベル。俺の命でウィルを救える幸福を感謝しろよ。類まれに生まれついた俺だから、美しい死を与えられるのは当然なんだって」
「…アーシュ。おまえを失うのは嫌だ…」
「おまえねえ、救世主が長生きしてたら語り草にならんだろ?その代わり、ウィルを良い子に育ててくれよ。…心から愛してやれ。約束だよ、ベル」
「…アーシュ」
「俺への愛はおまえが死ぬまで注いでくれたら嬉しい。ベルの愛は誰よりも美しい想いなのだと、知っているから」
アーシュはウィリアムの呪いを我が身に移し替えた。
彼の心臓に解くことのできない毒針が撃ち込まれたのだ。
残された時間は僅かである。
アーシュがイールの名を口にする前に、イールはアーシュの前に姿を現した。
「…イール」
「何も言うな、アーシュ」
イールはアーシュの身体を抱きあげ、アーシュの運命に落胆し悲痛に苛まされる人々に言った。
「悲しむではない。アーシュは人間として悔いなく生を全うしたのだ。アーシュの想いを心に刻むがよい。この時より、この惑星の未来はおまえたちが担うのだ。…よろしいか?」
イールの言葉はアーシュとの永遠の離別を意味した。その言葉に誰もが項垂れ、涙した。
イールは跪くルシファーに耳打ちした。「すぐにクナーアンに戻り、後はすべてヨキに従え」と。
そして両手にアーシュを抱いたまま、サマシティからクナーアンへと去っていった。
イールには、予見され、動揺することもなく受け入れた「死」であった。
ふたりの神が消滅した後のことは、神官たちに言い渡してある。
天の皇尊は約束を守り、新しい二神をクナーアンに与えて下さるだろう。
そしてクナーアンは新しき二神に導かれ、選択され、未来を歩き続けていくのだ。
その未来に輝きあれ、と祈る事しか、イールには残されてはいない。
息も絶え絶えなアーシュを抱き、イールはふたりが最後に迎える場所と決めた崖の上の草叢へと飛んだ。
ちょうど陽が沈む頃であった。
マナの木に寄り掛かり、アーシュを抱いて座るイールは、段々と鼓動が弱まっていくアーシュの額の脂汗をを拭いた。
「アーシュ、苦しいのか?」
アーシュの苦痛は如何ばかりか計りようがない。が、アーシュは痛みに震える声で言う。
「大したことはないけどさ…もっとイールに近寄らせてくれない?キスが欲しい…だ」
「ああ、もちろんだとも…」
イールはアーシュの身体を抱き寄せ、ぐったりとした頭を支え、深く口づけた。
「イール…これで…良かったの?」
「ああ、やっと私だけのアーシュをこの手に抱くことができるのだ。これ以上の幸福があろうものか…」
「俺も…最高に…しあわせ…」
薄荷草の匂いが立ち込めた丘が金と橙の鮮やかな色に染まり、辺りは季節外れの花が咲き乱れた。抱き合うふたりを囲むように、鳥や虫たちが集まり、美しい声を響かせた。
その響きに合わせるように唄うイールの子守唄が、死んでいくアーシュを安らかに見送った。
黄金の輝きに照らされたイールとアスタロトはひとつの塑像のように動かなくなった。
ほどなく、その身体は、さらさらと金の砂と崩れ、風に舞い、光となり、天へ導かれていくのだった。
天に消えていく二つの魂を、神官たちは見守り続けた。
ふたりの神の死は新しき神の誕生を迎える儀式とも言える。
新たな神の為にやるべき多くの奉り事の準備がある。
神官たちは方々の政務する神官たちに、クナーアンの神の崩御を伝え、クナーアンのすべての民が一年間、喪に服することを言い伝えた。
そして喪が明けた時、新しき神が誕生することも…
一年後、正式に神官として奉仕していたルシファーと神官長のヨキの夢枕に、昇殿するようにとの天からのお告げがあった。
翌朝、ふたりは潔斎し、十二の階段を畏れつつ登り、人間の手では開けたことのない天への扉を開いた。
光の渦に囲まれた場所では、踏みしめた足場さえ、心許なかった。
ヨキとルシファーはそっと跪き、ただ緊張に震えながら、神託を待った。
声がした。美しい天の声だ。
低頭するふたりの目線に飾り気のないサンダルを履いた、男の足が見える。
「ハーラルすべてを統治される天の皇尊は、クナーアンに新しき神を、創らせもうた。この上なき聖なる神なれば、心して慈しみ育て参らせ候ぞ」
「謹んで…崇め奉ります」
ふたりの前にそれぞれに純白の絹の御包みに包まれた赤子が差し出された。ヨキとルシファーは畏れつつ、取りこぼさないようにその御包みを両腕でしっかりと受け取った。
「こちらはイール。そしてこちらはアスタロト…と、天の皇尊は名付けられた」
「…」
「さあ、行きなさい。新しき未来を讃える光は、この二神が担うであろう…」
ヨキとルシファーは畏まりながら後ずさり、天上を後にした。
ふたりは神殿のふたつの玉座にそれぞれの新しき神の赤子を大事に寝かした。
「イールさま、イールさま」と、泣きながらヨキは銀色の巻き毛の赤子の名を呼んだ。
ルシファーは、褐色の柔毛をした赤子を覗き見た。
(かわいらしい…)
ルシファーは赤子のアーシュを知らない。けれどきっとこの新しき神と同じような面差しで眠っていたのだろう、と、思った。
想いは記憶に繋がる。アーシュと生きた日々がルシファーの感情を揺るがせた。
(こんなにも愛おしい人だったのか。僕のアーシュは…アーシュ、アーシュ…生まれ変わっても君はアーシュだよね)
ルシファーは込み上がる想いをどうすることもできず、玉座に眠る赤子をしっかりと抱きしめた。
そして「僕だよ、アーシュ。君のセキレイだ」と、囁いた。
赤子はゆっくりと目を開けた。
瞳に映る那由多の星々の煌きが、ルシファーを見つめた。
「アーシュ…」と、ルシファーはもう一度その名を呼んだ。
クナーアンの新しき神は、応えるかのように笑った。
アーシュがクナーアンの神として生きた年は14年と短い。
そしてクナーアンに居た時間はその半分にも満たなかった。しかし、彼はクナーアンの神としてその努めを十分に果たし、大地と民の為に尽くした。
種を蒔き、豊穣を祝福する神と呼ばれたアーシュは、春を呼ぶ神と賛美された。
収穫の秋には神殿に拝殿すれば、ふたりの姿を拝することが出来る。
ふたりは民と共に謳い、踊り、楽しんだ。イールの鳴らすシータに合わせ、アーシュが見事に踊る風景など、後の語り部たちは夢見がちに何度も繰り返し思い出しては、美しい詩を作り続けたのだった。
春は、クナーアンに住むすべての民が歓喜に沸く。
豊穣の芽吹きは春にやってくるからだ。
…その日の朝は、不思議と朝焼けと共に必ず七色の虹が薄青色の空にかかるのだ。
天の啓示のように、虹のかかった日にイールとアスタロトはその土地に姿を現し、祝福を与えた。
ふたりの神は集まった人となごやかに接し、絶えず彼らに喜びと安らぎと勇気を与え続けた。
凍りついた冬を乗り越え、春を迎える季節が近づくと、
人々は、陽が昇る前に目を覚まし、
陽が昇りきるまで西の空を仰ぐ。
イールとアスタロトの到来を知らせる、
ブリリアントクラウンを讃える為に。
終
「senso」第一部は終了です。
ありがとうございました。