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『ノロマ、死ぬなよ』〜毒舌カバンと最弱少年の英雄譚〜  作者: 塩とわかめ
第二章:沈黙の相棒と、孤独な剣士の反撃
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第38話:辺境の村への到着

 山岳地帯を西に抜けると、眼下に緑の盆地が広がっていた。

 小さな川に沿って点在する素朴な家々。煙突からたなびく白い煙。家畜が鳴き、子供たちが走り回る声が風に乗って聞こえてくる。

 辺境の村「ハルノ」。人口百人にも満たない、地図にも載らないような集落だった。


 山を下りてくる間に、空気が変わった。乾いた岩場の風が湿り気を帯び、土と草の匂いが混じるようになる。道の両側には石垣で区切られた畑が並び、晩夏の陽光を浴びて小麦が金色に揺れていた。遠くには放牧された羊の群れが白い点になって、なだらかな丘の上を動いている。

 平和な光景だった。あまりにも平和で、この一年半砂を噛むような旅を続けてきたアルトには、少し眩しく感じるほどだった。


 ギルドの依頼書にはこう記されていた。


『村の北側の森から魔物が出没。家畜が襲われる被害が続いている。討伐を求む。報酬:銀貨十五枚』


 銀貨十五枚。日当にも満たない金額だが、アルトは気にしなかった。辺境の村にはそれ以上払う余裕がないのだ。それに報酬の多寡で依頼を選んだことは、この一年半で一度もない。

 それに、人の少ない場所ほど、思わぬ情報が転がっていることがある。


 村の入口に差し掛かると、一人の中年の男が駆け寄ってきた。日に焼けた顔に、額の汗を袖で拭いながら。


「あ、あんた! もしかしてギルドの冒険者さんかい!?」


 アルトが頷くと、男は安堵の表情を浮かべた。村長のハンスと名乗った男は、アルトの手を両手で握りしめた。大きくて、ごつごつした農夫の手だった。


「助かるよ……ここ数週間、毎晩のように魔物が来るんだ。家畜小屋が二回もやられた。うちの村には戦える者がいなくてな……冒険者に依頼を出したのも初めてで、正直、来てもらえるか不安だったんだ」


「状況を教えてください。魔物の種類と、出没する方角、時間帯」


 アルトの冷静で的確な質問に、ハンスは少し面食らったようだった。腕っぷしの強い冒険者が来ることを期待していたのだろうが、目の前にいるのは小柄で若い青年だ。背中に不似合いに大きな黄色いバッグを背負っていて、それが余計に頼りなく見えたのかもしれない。


 しかし、アルトの静かな目を見て、ハンスは何かを感じ取ったらしい。居住まいを正し、丁寧に情報を話し始めた。


「出るのは北の森からだ。日が暮れてからやってくる。種類は……獣型の魔物だと思うんだが、見た者によると二本足で立つやつもいたとか。大きさは犬よりでかくて、牛くらいはあるって話だ」


(獣型で二足歩行……ゴブウルフの群れか、あるいは変異種か。牛くらいの大きさなら、成体の可能性が高い)


 アルトは観察ノートを取り出し、聞いた情報を手早く書き留めた。ハンスが「何を書いてるんだい?」と覗き込む。


「魔物の行動パターンを整理しています。夜が来る前に、森を偵察させてもらっていいですか?」


「も、もちろんだ! ……しかし、一人で大丈夫なのかい? せめて村の若い衆を何人か——」


「慣れてますので。それよりも、今夜は村の皆さんに、できるだけ家の中にいるように伝えてもらえますか。北側の柵より向こうには、絶対に出ないでください」


 冷静で淡々とした指示だった。慣れている、というより——毎回こうやって一人で処理してきた、という重さがあった。

 アルトは短く会釈し、村の北側に向かって歩き出した。


 * * *


 森の入口で足跡と爪痕を確認する。

 地面にしゃがみ込み、土を指先でなぞった。足跡は深く、鉤爪の跡がはっきり残っている。やはりゴブウルフ——ゴブリンと狼の特性を持つ中級魔物の群れだった。足跡の数からして、五、六匹はいる。

 木の幹に残された爪痕は地面から二メートル近い位置にあり、成体であることを裏付けていた。

 巣の方向もおおよそ見当がつく。足跡が集中する方角は北北西。水場が近いはずだ。


 通常のCランク依頼としては妥当な相手だが、夜間に群れで行動する分、村人にとっては十分な脅威だろう。

 アルトはノートに足跡のスケッチと推定巣の方角を書き込み、森を出た。


 偵察を済ませ、村に戻る頃には午後の日差しが傾き始めていた。

 西日が村全体を琥珀色に染めている。石壁の家々が温かい光に包まれ、煙突から立ち上る煙が風に流されて、のどかな匂いを運んでくる。


 村の中央を歩いていると、ふと——村外れの小さな畑に目が留まった。


 少女が一人、黙々と土を掘り返していた。

 アッシュブルーのショートボブが風になびく。年はアルトと同じくらいだろうか。華奢な体つきに似合わず、手つきは力強く、土にまみれることを厭わない芯の強さが感じられた。

 鍬を振る動作に無駄がない。農作業に慣れた人間の動きだ。


 村で見かけた他の住人とは、どこか雰囲気が違う。

 アルトの観察眼が無意識にそう告げていた。何が違うのか、具体的には分からない。ただ——その少女の周囲の空気が、ほんの少しだけ「澄んでいる」ような気がした。他の場所にはない、清涼感のようなもの。森に入った瞬間に感じる空気の変化に、少し似ている。


(……気のせいか)


 少女がふと顔を上げた。鍬の手を止めて、額の汗を手の甲で拭う。そのまま視線がアルトに向く。

 黒に近いブラウンの、大きな瞳。少女は一瞬きょとんとした後、小さく会釈した。

 アルトも無言で軽く頭を下げ、視線を外して歩き去った。


 振り返りはしなかった。だが、不思議と——あの少女の瞳の色が、しばらく頭の片隅に残った。


 * * *


 日が暮れた。

 空は紫から藍色に変わり、星が一つずつ瞬き始めている。村の家々に明かりが灯り、窓の向こうで家族の声が聞こえる。夕食の支度の匂いが、夜風に乗って流れてきた。

 アルトは村の北端、森との境界に位置する柵の前で待ち伏せていた。木の柵に背中を預け、気配を殺して座る。手元の直剣は鞘から半分だけ抜いてある。すぐに抜刀できる状態だ。


 月明かりの下、森の奥から低い唸り声が近づいてくる。

 一匹、二匹——最終的に現れたのは七匹のゴブウルフ。予想より一匹多い。

 灰色の毛皮に覆われた二足歩行の獣型魔物。知能は低いが、群れで行動し、獲物を囲い込む狡猾さがある。先頭の一匹が鼻先を上げ、夜風の匂いを嗅いでいる。家畜の匂いに引かれて、柵に向かってゆっくりと歩を進めてきた。


 アルトは柵の影から静かに立ち上がった。


(先頭の一匹がリーダー。左耳に古い傷がある。体格が他より一回り大きく、群れの動きを制御している。そいつを倒せば残りは散る。散った後に一匹ずつ仕留める。所要時間——五分もかからない)


 観察眼が瞬時に群れの構造を読み取る。

 今回は魔法剣を使う必要はない。通常の剣技で十分だ。


 アルトの足が地面を蹴った。

 音もなく柵を飛び越え、一匹目の横をすり抜け、リーダーの喉元を一閃。鮮血が月明かりに黒く散った。倒れたリーダーを見て残りのゴブウルフが混乱し、散り散りに逃げ出す。

 逃がさない。アルトは冷静に一匹ずつ追い詰め、十分もかからずに全てを仕留めた。予想より五分多くかかったのは、最後の一匹が思いのほか足が速かったからだ。


 返り血を拭い、剣を鞘に収める。


「……終わり」


 呟くように言って、柵に背中を預けた。

 月が綺麗だった。こういう静かな夜は、かつての旅を思い出す。ユートが「いい月だな」と呟いて、ミラが「ユート、たまにはロマンチックなこと言うじゃない」とからかっていた夜を。バルが『月なんか食えねぇだろ。腹減った』と的外れなことを言って、皆で笑った夜を。

 もう、戻ってこない夜だ。


 アルトが宿に戻ろうと踵を返した時——村の方から、小さな足音が聞こえた。


 畑にいた、あの少女だった。

 毛布を一枚抱えて、暗い夜道をランタンも持たずに歩いてきている。月明かりだけを頼りに。暗闇を怖がっている様子はなかった。


「……えっと」


 少女は魔物の死骸と血痕を見て一瞬足を止めたが、すぐにアルトに視線を移した。驚いた様子はない。むしろ、来ることが分かっていたかのような落ち着きだった。


「冒険者さんでしょ。ハンスおじさんが、夜通し外にいるかもしれないから毛布を届けてくれって」


 少女が毛布を差し出す。


「……ありがとうございます」


 アルトが受け取ると、少女は魔物の死骸にちらりと目をやった。月明かりに照らされたゴブウルフの体は不気味だが、少女は表情を変えなかった。


「七匹もいたんだ。一人で全部?」


「ええ」


「すごいね」


 淡々とした感想。お世辞でも大袈裟な賞賛でもない。ただ見たままを素直に口にしただけ。

 アルトは少しだけ意外に思った。普通の村人なら、魔物の死骸を見て怯えるか、冒険者を過剰に持ち上げるかのどちらかだ。この少女は、そのどちらでもなかった。


「それにしても、怪我してない?」


「してません」


「ふーん。強いんだね」


 声に含みはなかった。ただ事実として受け取っている。それが、かえって妙に心に引っかかった。


「私、リアラ。この村で畑仕事してるの。……泊まるところ、あるの?」


「宿は取ってます」


「そう。なら明日、お昼ごはん持っていくね。お礼」


「いえ、依頼の報酬を頂ければ——」


「いいから。ハンスおじさんの銀貨より、うちの芋の方が美味しいんだから」


 リアラはそれだけを言い残して、暗い夜道を戻っていった。月明かりに照らされた後ろ姿が、小さくなっていく。

 アルトはその後ろ姿を少しだけ見送り、もう一度、月を見上げた。


(……変な子だ)


 別に、何かが変わったわけじゃない。明日にはこの村を出る。依頼はもう片づいた。報酬を受け取って、次の街に向かう。いつも通りだ。


 ——そのはずなのに。

 二年ぶりに——本当に久しぶりに、アルトの口元がかすかに緩んだ。

 自分でも気づいていない、小さな変化だった。


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