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第34話:孤独な夜明け

 最初に感じたのは、冷たさだった。


 全身が濡れている。頬に砂利の感触。遠くで、水の流れる音がする。

 水に浸かっているわけではない。どうやら岸辺に打ち上げられたらしい。


 アルトは、目を開けた。


 知らない場所だった。

 ゴツゴツした岩が転がる河原。見上げれば、切り立った崖の上に枯れた木々が並んでいる。空は灰色の雲に覆われ、太陽の位置も分からない。


 体のあちこちが痛い。右腕は何とか動くが、左肩に鈍い痛みがある。脚も——立てはするかもしれないが、全身の魔力を失った体は鉛のように重い。

 どれだけの時間が経ったのかすら分からなかった。時間の感覚が壊れていた。数時間かもしれないし、丸一日が過ぎたのかもしれない。


「……ユートさん」


 声に出した。返事はない。

 周囲を見渡す。河原には、自分以外の人影はなかった。流木や、流されてきた木の葉が石の間に引っかかっているだけ。


「ミラさん」


 呼んだ。誰もいない。


 ——そうだ。


 最後に見た光景が、脳裏に蘇った。

 ユートの顔。朦朧とした目で、それでも笑って——口だけが動いていた。

 「生きろ」と。

 そこから先は——覚えていない。崖を越えて落ちていく中で、意識が途切れた。


 ミラは——反対方向の森に飛ばされたはずだ。あの爆風の中で、小さな体が木々の闇に消えていくのが、一瞬だけ見えた気がする。


 みんな——バラバラだ。


 アルトはよろめきながら体を起こした。

 岩だらけの河原を見渡す。流れ着いた木の枝や葉に混じって、何か黄色いものが——。


 目が止まった。

 自分の右手が、何かを握りしめていた。

 指が白くなるほど強く。関節が軋むほど強く。

 ずぶ濡れの黄色いバッグの紐を——握っていた。


 意識がなかったはずなのに。激流に揉まれていたはずなのに。

 体が覚えていた。この手だけは、離さなかった。


 アルトはバルを引き寄せた。

 腕の中に抱え上げた瞬間、息が詰まった。


 ——穴が、ない。


 ディアルの剣に貫かれた傷口が——あったはずの場所が、塞がっていた。あれだけの深い穴が、もう跡形もない。

 焦げ跡も消えていた。黒く焼け焦げていたはずの表面が、元の黄色い布地に戻っている。

 あの白い光。バルの中から溢れ出たあの不思議な光が、内側から傷を修復したとしか思えなかった。


「バル……! 傷が……治ってる……!」


 声が震えた。それは安堵だった。あの致命的な傷が塞がっている。バルは壊れていない。無事だ。生きている——。


「バル! おい、バル! 起きろよ! 傷、治ってるぞ! 大丈夫だったんだ……!」


 アルトはバルの体を揺すった。

 何度も。何度も。

 ——返事がなかった。


「……バル?」


 温かくない。

 いつもの悪態が聞こえない。「ノロマ」も、「メシをよこせ」も、何も。

 傷は確かに塞がっている。体も元に戻っている。なのに——声が、しない。


「バル。ねぇ、バル。……寝てるの? ねぇ……起きてよ……」


 返事はない。


「バル……! 聞こえてるでしょ……! 起きてよ……。お腹空いたでしょ……。魔石、探してくるから……。だから……」


 何度呼んでも、黄色いバッグはただそこにあるだけだった。

 ずぶ濡れて、冷たくて、静かに。


 傷が治っているのに。体は元に戻っているのに。

 ——バルが、いない。


 アルトの顔から、血の気が引いた。

 ユートさんは連れ去られた。ミラさんは消えた。そして——バルは、目の前にいるのに、いない。


「嘘……。嘘だよ……。なんでだよ……ッ!」


 涙が溢れた。止まらなかった。

 何度も何度も名前を呼んだ。声が枯れるまで呼んだ。河原に響くのは、少年の掠れた声と、川の流れる音だけだった。


 泣くな。泣いてどうする。

 ユートさんがここにいたら「泣いてる場合じゃないだろ」って言うはずだ。ミラさんだって「しっかりしなさい」って怒るはずだ。バルだって「うるせぇノロマ」って悪態をつくはずだ。


 でも——誰も、いない。


 アルトは膝を抱えて、バルを胸の前に置いて、しばらくの間、ただ泣いた。

 声を上げて。子供みたいに。

 13歳の、ただの少年として。


---


 どれくらい泣いていたのか分からなかった。

 気がつけば空の灰色が濃さを増し、夕暮れの気配が河原を覆い始めていた。


 アルトは泣き腫らした目を袖で拭い、ふらつく足で立ち上がった。

 立ち上がれたのは、意志の力ではなかった。体が勝手に動いた。何度も繰り返してきた手順が、折れかけた心を引きずるように動かした。

 枯れ枝を集め、石を並べ、乾いた草を束ねる。火打ち石をカチカチと打ち鳴らす手は、ボロボロだったが止まらなかった。

 ユートさんが教えてくれた、野営の手順。迷宮以来、数えきれないほど繰り返した作業。体が覚えている。こういう時こそまずは火を起こせと——あの人が、そう教えてくれた。


 弱い炎が灯った頃には、すっかり日が落ちていた。

 パチパチと薪が爆ぜる小さな音。

 その灯りの中で、アルトはバルを膝の上に乗せて座っていた。


 焚き火の音だけが、夜の河原に響いている。

 虫の声も、風の音もない。ただ炎が薪を食む音と、遠くの激流の低い轟音だけ。


 静かだった。

 恐ろしいほど、静かだった。


 いつもなら——火の向かいにユートが座っていた。無言で火の番をしながら、時々アルトの方を見て、小さく頷いてくれた。

 いつもなら——隣でミラが文句を言っていた。「煙が目に染みる」とか「もっといい薪はないの」とか。

 いつもなら——膝の上でバルが悪態をつくはずだった。「クソマズい焚き火だ」「もっと魔力を込めろノロマ」って。


 ——何もない。


 全部、失った。


 迷宮で手に入れた自信。コルンで証明した連携。四日間のキャンプで笑い合った時間。「僕たちは大丈夫だ」と信じた確信。


 全部——あの男の前では、砂の城だった。


 ユートの胸にディアルの腕が突き刺さった光景が、目を閉じるたびに蘇る。

 爆風の向こうで笑っていたユートの顔が、何度も何度も脳裏を焼く。


 ミラは無事だろうか。あの爆風で森に飛ばされて——意識はあるだろうか。一人で、怪我をして、暗い森の中で——。

 考えるだけで胸が潰れそうだった。


 膝の上のバルに目を落とす。傷が治っている。それだけが唯一の救い。でも——喋らない。何を言っても、何をしても、反応がない。


 思えば、バルが黙っている夜なんて、一度もなかった。

 どんなに疲れた日も、どんなに絶望的な戦闘の後でも、バルは何かしら悪態をついていた。「飯」とか「クソマズい」とか「死にかけんな」とか。

 その声がない夜が、こんなにも静かで、こんなにも怖いなんて——知らなかった。


 アルトは焚き火の炎をじっと見つめた。


 ——何も考えられなかった。

 何をすればいいのかも、どこに行けばいいのかも、何一つ浮かんでこない。

 これまでの旅は、いつだって誰かがいた。バルが怒鳴り、ユートさんが道を示し、ミラさんが背中を押してくれた。一人で判断したことなんて、ほとんどなかった。


 ——僕は、一人じゃ何もできないのか。


 考えまいとした。でも、考えてしまう。


 焚き火が燃え続けている。薪を足す気力もない。炎が小さくなっていく。暗闇が、じわじわと近づいてくる。

 寒さが体に染みてきた。ずぶ濡れの服は乾ききっていない。体が震えている。それが寒さのせいなのか、恐怖のせいなのか、もう区別がつかなかった。


 バルを胸に抱きしめた。冷たい。温かくない。それでも——離せなかった。


 いつの間にか——意識が、沈んでいった。


---


『——おい』


 声が聞こえた。


『おい、ノロマ。いつまで寝てやがる』


 バルの声だった。

 あの乱暴で、横柄で、でもどこか温かい——あの声。


『起きろ。メシだ。腹減ったんだよ。さっさと魔石持ってこい』


 アルトは夢の中で笑った。ああ、バル。いつも通りだ。相変わらずだな、お前は——。


『……つっても、ありゃなかなか美味かったな。あのゴーレムの核。あんなもん、二度と食えねぇだろうが』


 迷宮で食べたゴーレムの核のことを言っている。あの時のバルの嬉しそうな声を、よく覚えていた。


『……おい。聞いてんのかノロマ。……おい、アル——』


 声が——途切れた。


---


 アルトは目を覚ました。


 心臓が跳ねていた。

 反射的に膝の上のバルを見た。


「バル……! バル! 今、喋った……!?」


 バルは——沈黙していた。

 冷たくて、静かで、何も言わない。


 夢だった。


 分かっていた。分かっていたのに——それでも、期待してしまった。バルの声が聞こえた気がして、目が覚めた瞬間、本当に起きたんだと思ってしまった。


「……夢、か」


 声が掠れた。

 焚き火はとっくに消えていた。灰すら冷たくなっている。真っ暗闇の中で、星だけが無数に瞬いている。


 涙が——また、こぼれた。


 もう泣かないと思ったのに。もう泣き尽くしたと思ったのに。

 バルの声が聞けると思った、その期待が裏切られた痛みは——さっきまでの絶望より、もっとずっと深かった。


「……バル」


 アルトはバルを抱きしめたまま、膝を抱えた。暗闇の中で、ただ震えていた。


 ——もう、立ち上がれない気がした。


---


 どれくらいそうしていたのか。

 夜の闇の中で、バルの体を抱えたまま——思い出が、勝手に流れ始めた。


 最初の記憶。ガラクタ市の晴れた午後。なけなしの銀貨で買った、薄汚い黄色いバッグ。

 持ち上げた時に聞こえた掠れた声。「……おい」って。最初は空耳だと思った。


 最初の依頼。薬草採取でスライムに囲まれた時。震えるアルトの背中で、バルの口ががばっと開いて——「いつまで震えてんだ、このノロマが!」。

 あの瞬間から、全部始まった。


 バルが出す武器はいつもハズレだった。錆びた短剣。刃こぼれした槍。「お前の魔力が不味いから」だって。何度も文句を言った。何度も怒鳴られた。でも——その「ハズレ」の武器で生き延びてきた。


 ユートさんに出会った日。魔物に追い詰められて、バルが魔力切れで黙り込んだ。もう駄目だと思った瞬間に、ユートさんが現れた。あの剣の一閃は、今でも目に焼きついている。

 あの日から、旅が変わった。一人と一匹じゃなくなった。


 ミラさんが強引にパーティに入ってきた日。「私の魔法を見なさい」って、自信満々に。バルが「うるせぇトマト女」って吐き捨てて、ミラさんが「誰がトマトよ!」って怒鳴って。ユートさんが困ったように笑っていた。


 迷宮の夜営。四人で焚き火を囲んだあの時間。ユートさんが珍しく昔の話をしかけて、やめた夜。ミラさんがいつもより少しだけ優しい声でお茶を淹れた。バルがそれを「クソマズ」と言いながら、魔力だけはしっかり吸い取っていた。


 ——全部、宝物だった。生まれてからずっと独りだった自分に、初めてできた居場所だった。


 コルンの街での戦い。葬送の指揮者との激闘。四人の連携が初めて完璧に噛み合った瞬間。ユートさんが「よくやった」と言ってくれて、ミラさんが「まあまあね」と言いながら笑っていて、バルが「当然だ」と偉そうにふんぞり返っていた。


 あの時——僕たちは、無敵だと思った。


 でも、そうじゃなかった。


 ディアルが現れた。何もかもが壊された。積み上げたものが、嘘みたいに崩れた。ユートさんが目の前で倒れた。みんなバラバラになった。


 ——全部、終わったのか。


 アルトは暗闇の中で、首を振った。


 終わった。もう何もない。立ち上がる理由もない。


 ——本当に?


 ……本当に、何もないのか。


 さっきの夢を思い出した。バルの声。「おい、ノロマ」。あの声。


 あの日の店先。アルトを呼んだのは——バルだった。

 あの掠れた「おい」がなければ、何も始まらなかった。


 バルはいつもそうだった。

 何があろうと「メシをよこせ」と怒鳴り、「ノロマ」と罵倒し、でも——いつだってアルトの背中にいた。逃げようとしたことなんか一度もなかった。

 ディアルの剣がアルトに向かった時——バルは、自分の体で庇った。


「……お前、いつも僕を守ってくれてたんだな」


 声に出した。暗闇に消えていく言葉。


「メシ食わせろって怒鳴りながら。ノロマって馬鹿にしながら。……ずっと」


 バルの体を、強く抱きしめた。冷たい。でも——壊れていない。傷は治っている。ここにいる。


 ユートさんも——どうなったか分からない。でも、あの人は簡単には死なない。あの爆風の直前、笑っていた。「生きろ」って言ってくれた。あの人が死ぬわけない。


 ミラさんだって——僕なんかよりずっと強い人だ。杖が砕けても、最後まで戦い続けた人だ。きっと、どこかで生きてる。


「……まだだ」


 声が震えた。でも——出た。


「まだ——終わってない」


 膝の上のバルを見下ろした。冷たい。喋らない。でも——ここにいる。


 アルトは歯を食いしばって、立ち上がった。

 膝が笑っていた。全身が軋んでいた。魔力は空っぽだ。武器もない。仲間もいない。


 空の端が——白み始めていた。

 真っ暗だった東の空に、淡い群青色が滲んでいる。星がひとつ、ふたつと消えていく。


「——強くなる」


 それは誓いだった。


 誰に向けたものでもない。ユートに聞こえるわけでも、ミラに届くわけでもない。沈黙したバルが応えてくれるわけでもない。

 ただ、自分自身に突き刺す言葉だった。


 もう二度と、大切な人を目の前で失わない。

 もう二度と、動けないまま見ているだけの自分にはならない。

 そのために——何があっても、強くなる。


 アルトはバルをそっと背負い直した。

 いつものように、肩に紐をかけて。いつものように、背中にその重みを感じて。

 温かくはない。返事もない。だが——確かに、そこにいる。


「必ず、みんなを取り戻す」


 灰色の雲の切れ間から、朝日の最初の一筋が射し込んできた。

 冷えた河原を、黄金色の光が静かに照らしていく。


 ボロボロの少年が、勇者でも英雄でもない、ただの13歳の少年が——沈黙した相棒を背負い、たった一人で歩き始めた。


 左も右も分からない。どこに向かえばいいかも分からない。

 それでも、足を動かした。止まったら、きっと二度と動けなくなる気がしたから。


 朝日が照らす河原に、小さな足跡が一つ。

 それは、ここから始まる長い長い戦いの——最初の一歩だった。

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