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第33話:崩壊

 アルトの絶叫が、夜の森に吸い込まれていった。

 そのあとに残ったのは——静寂だった。


 ユートの体から、力が抜けていた。

 ディアルの左腕に貫かれたまま、両腕がだらりと垂れ下がっている。指先が微かに痙攣しているだけで、もう自分の体を支えることすらできない。足は地についているのに、立っているのではない——ディアルの腕に串刺しにされたまま、ぶら下がっているだけだった。

 口の端から赤黒い血が伝い落ち、顎を滑って、地面に小さな染みを作った。ぽたり、ぽたりと。その音だけが、静寂の中で異様に大きく響いた。


 ユートの目は——まだ開いていた。

 だが、もう何も映していなかった。光を失った瞳が、虚空を見つめている。呼吸すら聞こえない。胸の中央を貫かれた人間が、まだ生きているのか死んでいるのか——それすらわからなかった。


「ユート……ッ! ユートォ!!」


 ミラの声が裏返った。

 拳を握る手が震え、歯の根が噛み合わない。立っているのがやっとだった。膝が折れそうになるのを、歯を食いしばって堪えている。

 ユートの背中が見える。あの広い背中が——今は小さく、脆く、壊れかけた人形のように見えた。赤い染みが広がっていく。見たくない。目を逸らしたい。でも目が離せない。あの人がこんな——こんなふうになるなんて。

 頭の中が真っ白だった。魔法を撃つことも、叫ぶことも、駆け寄ることもできない。ただ震えている。初めて会った日から追いかけてきた背中が、目の前で崩れようとしている。それを止める術が——何一つ、なかった。


 アルトはバルを抱きしめたまま、地面にへたり込んでいた。

 声が出ない。さっきの絶叫で喉が裂けてしまったように、何も言えなかった。涙だけが止まらない。視界が歪み、ユートの姿がぼやけて、それでも目を閉じることができなかった。

 ——嘘だ。こんなの嘘だ。ユートさんが死ぬわけがない。あんなに強くて、あんなに優しかった人が、こんなところで。


 だが——現実は、何も変わらなかった。


 その光景を見つめるディアルの表情だけが、この場の誰とも違っていた。


 苛立ちでも、侮蔑でもない。

 肩口から黒い血を流し、片腕を失った体でありながら——ディアルの顔には、恍惚とした笑みが浮かんでいた。

 左腕に伝わるユートの体温すら意識の外だった。目は、ただバルだけを見つめている。あの黄色い袋の中から溢れ出す、白い光の残滓。何百年と探し続けてきた「あれ」の気配。それが——こんなにも近くにある。


 ディアルの唇が、歓喜に歪んだ。


「……ようやく、見つけた」


 その声は、静かで、甘く、どこか陶酔していた。

 腕の中で死にかけている人間のことなど、もはや眼中にない。虫が一匹絡みついているのと同じだった。

 片腕を失った痛みすら、この歓喜の前では些事に過ぎない。


 ディアルが左腕を引き抜こうとした。

 バルを回収するために。


 だが——引き抜けなかった。


 ユートの両手が、自分の胸を貫いたディアルの左腕を掴んでいた。

 焼け焦げた左手と、手首から先を折られた右腕。もうまともに力が入るはずのない両腕が——それでも、ディアルの腕に食い込むようにしがみついている。

 ユートの掌の奥で、残り滓のような魔力がじわりと滲み出していた。身体強化にすら足りない微弱な魔力。だがそれが、ディアルの左腕にべったりと纏わりつき、焼け付くように張りついている。


「——離しなさい」


 ディアルの声が、低く凍てついた。

 腕を捻る。だが、ユートの指が食い込んだまま剥がれない。あの暴走に近い魔力が、接着剤のように腕と掌の間を繋いでいる。


「虫けら風情が……ッ!」


 ディアルの顔に、明確な苛立ちが浮かんだ。

 右腕を失い、左腕はこの瀕死の人間に掴まれている。ただの人間に。この、足元にも及ばないはずの虫けらに——行動を阻まれている。


 この腕が抜けたら、こいつはアルトのところへ行く。バルを奪う。仲間が死ぬ。

 だから——離さない。


(……アルト。ミラ。)


 ユートは最後の力を——全身に残るありったけの魔力を——体の中心から爆発させた。

 それは魔法でも剣技でもない。魔力の暴走。制御を捨てた、自爆に等しい行為。身体強化に使っていた魔力を一切の制御なく全方位に放出する。体が内側から焼ける。血管が破れる。それでも——止めない。


 ドオォォォォンッ!!!


 凄まじい爆風が、周囲のあらゆるものを吹き飛ばした。

 枯れた木々がへし折れ、地面が抉れ、崩壊した施設の残骸が紙くずのように舞い上がる。そしてその爆風は、崖の縁にうずくまっていたアルトとミラの体を、容赦なく宙へ弾き飛ばした。


(——頼む。生きてくれ。)


---


 爆風に呑まれ、アルトの体が宙を舞った。

 バルを抱きしめる腕に、必死で力を込める。これだけは。この相棒だけは、絶対に離さない。


 視界がぐるぐると回転する。空と地面と崖の壁が入り混じる。

 その回転の中で——一瞬だけ、爆煙の向こうにユートの姿が見えた。


 ディアルの腕を掴んだまま。

 ボロボロの体で。


 ——笑っていた。


 口元がわずかに動いた。声は聞こえなかった。

 だが、アルトには分かった。


 ——生きろ。


(ユートさん——ッ!!)


 叫びたかった。手を伸ばしたかった。でもバルを離せない。伸ばしても届かない。何もできない。また——何もできなかった。


 涙が風に引きちぎられていく。ユートの姿が爆煙に呑まれ、見えなくなった。

 そして——足元から、激流の轟音が迫ってきた。


 暗い水面が、ものすごい速さで近づいてくる。

 バルを抱く腕だけに、ありったけの力を込めた。


 それが——アルトの最後の意識だった。


---


「ユートぉぉぉぉっ!!!」


 ミラの体は、アルトとは反対側——施設の残骸と深い森が広がる方角へ飛ばされていた。

 すぐ隣にいたはずのアルトとは、爆風の角度がわずかに違った。たったそれだけの差が、二人を全く別の方角へ引き裂いた。


 枝に叩きつけられ、地面を転がり、木の幹に背中を打ちつけて、ようやく止まった。

 元いた場所から、もうずいぶん遠い。


 体中が痛い。口の中に血の味が広がっている。

 視界が明滅している。意識が遠のこうとしている。


 ——ユート。


 あの男は。あの馬鹿は。あんなボロボロの体で。胸を貫かれて。それでも、ディアルの腕を掴んで離さなかった。

 自分たちを逃がすために。


 左手の指輪が——ユートが見立ててくれた指輪が、月明かりに微かに光っていた。


「……ユート……」


 涙が頬を伝って、冷たい地面に落ちた。


 もう指一本動かせない。このまま目を閉じたら、もう二度と——。


 最後に浮かんだのは、アルトの顔だった。

 あの臆病で、優しくて、それでも一生懸命に前を向こうとしていた少年の顔。


「……アルト……あんたは……生きなさいよ……」


 それだけを呟いて——ミラの意識は、深い闇に沈んだ。


---


「——やってくれましたね」


 ディアルは、もう意識のないユートの胸から左腕を引き抜いた。

 ユートの体が地面に崩れ落ちる。


 右腕を失い、左腕もあの暴走魔力のせいで、少しばかり機能が鈍っている。


 あの黄色い袋の中に、ずっと探していたものがあった。あの光は、間違いない。

 だが、袋は崖下の激流に落ちた。


「……まあいいでしょう」


 ディアルは冷たく微笑んだ。


「居場所は分かった。あの少年が生きていれば、必ずまたあの袋を担いで現れる。……それに、まだ準備が必要ですしね」


 足元に転がるユートを見下ろした。


「この男の体は、もう少し使い道がありそうだ」


 漆黒の空間の裂け目が開いた。

 ディアルがユートの体を無造作に掴み、裂け目の中へ消えていく。


 空間の裂け目が閉じた。

 嵐の後の静寂が、荒廃した大地に降りた。

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