第25話:防塞都市の戦い Ⅰ — 地下水道の影
その夜は、奇妙なほど静かだった。
防塞都市コルンに到着して三日目。昼間の喧騒が嘘のように、石壁に囲まれた街は深い眠りに沈んでいた。
街灯の魔石が淡い光を灯す路地裏。見回りの騎士の足音だけが、規則正しく石畳を叩いている。
宿の二階にある部屋で、アルトはベッドの上に起き上がっていた。
眠れない——というより、眠ろうとした瞬間に、背筋をなぞるような嫌な感覚に襲われたのだ。
目を閉じて、意識を集中する。
迷宮で芽生えた、あの力。魔力の流れを感じ取る感覚。
街には無数の魔力が渦巻いている。人々の生命力、建物に染み込んだ残留魔力、街灯の魔石が発する温かい光——それらが折り重なって、ぼんやりとした濁流のように感じられる。普段ならその雑多さの中で、何か特定のものを見分けるのは難しい。
だが、今夜は違った。
——地面の下から、何かが這い上がってきている。
最初は気のせいかと思った。街の地下には水路が張り巡らされているから、水流の振動かもしれない。
しかし、意識を凝らすほどに、その「何か」は輪郭を帯びていった。細く、冷たく、ぬめるような魔力の糸。一本ではない。何十本も、何百本もの糸が、地下の暗闇から街の中心部に向かって、じわじわと伸びてきている。
「……っ!」
アルトは弾かれたようにベッドから飛び降り、隣室のドアを叩いた。
「ユートさん! ユートさん!!」
二度目のノックで扉が開いた。ユートは既に鎧を半分身につけた状態で立っていた。眠っていなかったのか、それとも気配を察して起きていたのか。
「分かっている。俺も嫌な予感がしていた。——何が見える?」
「地下からです。水路の中を、何かが大量に這い上がってきています。魔力の流れが……生き物みたいに動いています」
廊下の奥から、ミラが寝乱れた髪のまま飛び出してきた。
「何なのよ、夜中に騒がしい! って……この魔力、何?」
彼女もまた、魔法使いとしての鋭い感覚で異変を察知していた。空気中に漂い始めた、微かだが明らかに不自然な魔力の震え。
『おい、ノロマ。クソ不味い飯がたくさん近づいてきやがるぞ。……魔族のガキどもだ。数が多い』
バルが不機嫌に吐き捨てた。
三人の顔つきが変わった。
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宿を飛び出した四人が街の中央広場に出ると、そこには既に騎士団の一部が集結していた。
だが、様子がおかしい。全員が正門の方角を向いている。
「正門の外に魔物の群れが出現した! 第一小隊は城壁上に展開、第二小隊は門前に配置!」
騎士団長が声を張り上げ、兵士たちが慌ただしく動き回っている。
アルトは眉をひそめた。正門の外——確かにそちらにも魔力の気配はある。だが、それよりもはるかに濃い不気味な魔力の流れは、足元から来ている。
「ユートさん、おかしいです。正門の外の魔物は……数が少なすぎます。本命は地下です。地下水道の中を、もっとたくさんの何かが移動しています」
「陽動か」
ユートの目が鋭くなった。正門の魔物で騎士団の戦力を引きつけておいて、手薄になった地下から街の内部へ侵入する——。
「騎士団長! 地下水道から敵が侵入しています! 正門は陽動です!」
ユートが駆け寄って告げたが、騎士団長は困惑した表情を浮かべた。
「地下水道? あそこには鉄格子が嵌められている。入り口も全て施錠されているはずだが——」
「鉄格子を溶かしたか、あるいは別のルートを掘ったか。いずれにせよ、本命はそちらだ」
「しかし、我々の主力を正門から外すわけには……」
騎士団長の判断は正しい。正門の外にも確かに敵はいる。万が一城壁を突破されれば、街は壊滅する。二つの脅威を同時に対処しなければならない状況で、戦力を割く余裕はない。
「——僕たちが行きます」
アルトが一歩前に出た。自分でも驚くほど、声が震えていなかった。
「地下水道は僕たちに任せてください。騎士団は正門をお願いします」
「少年……だがあの地下水道は複雑で、明かりも乏しい。危険すぎる」
「大丈夫です。僕には、暗闇でも敵の位置が分かります」
アルトの目は、真っ直ぐ騎士団長を見つめていた。
迷宮を潜り抜けた少年の眼差しには、数日前にこの街に着いた時とは明らかに違う、静かな覚悟が宿っている。
「……分かった。地下水道の入り口は広場の東側にある。鍵は——」
「壊して入ります。修理代は払いますから」
ミラが杖をくるりと回しながら言い、アルトの横に並んだ。
「冗談。街を守ったら無料でしょ」
ユートが無言で頷き、四人は広場の東側へ駆け出した。
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地下水道の入り口は、広場のはずれにある石蓋で塞がれた小さな穴だった。
ミラが炎で錠前を焼き切り、ユートが重い石蓋を持ち上げる。中からは、湿った空気と共に饐えた魔力の臭いが噴き出してきた。
「うっ……何この匂い。下水の匂いもキツいけど、魔力の方がもっと気持ち悪い」
ミラが顔をしかめながら、杖の先に小さな炎の球を灯す。
梯子を降りると、そこはアルトの身長の倍ほどの高さがある石造りの通路だった。足元には膝下まで濁った水が流れており、天井からは苔と謎の蔦がぶら下がっている。
「……広いな。だが見通しが悪い」
ユートが剣を抜き、先頭に立った。薄暗い通路の先は、数メートル先でT字路に分岐している。
「アルト、どっちだ」
アルトは目を閉じた。
街の上とは違う。地下には人々の生命力の雑音がない。代わりに、水路を流れる水のかすかな魔力と、石壁に染み込んだ数百年分の澱みだけが静かに揺れている。
その中を——冷たく、不快な魔力の糸がはっきりと走っていた。
「左です。左の通路の奥から、たくさんの気配が近づいてきています。……速い。こっちに向かっています」
「数は?」
「正確には分かりません。でも……少なくない。何十体かの群れが、三つくらいの固まりに分かれて動いています」
「ミラ、水路の分岐点を塞げるか」
「任せなさい。こういう狭いところは得意よ。——『氷壁』!」
ミラが杖を振り下ろすと、T字路の右側——敵が来ていない方の通路が、分厚い氷の壁で完全に封鎖された。これで敵が回り込むルートを一つ潰せる。
「よし。左の一本道に絞ったな。こっちも狭いが、その分正面からしか来られない」
ユートが剣を構え直す。
通路の奥から、ヒタ、ヒタ、ヒタ——と、水を踏む不気味に規則正しい足音が近づいてきた。
やがて、ミラの炎に照らされた薄闇の中から、最初の敵が姿を現した。
体長一メートルほどの、蜥蜴に似た四足歩行の魔物。ただし、その体表は鉄のように黒光りしており、背中には短い棘が並んでいる。赤い目が炎の光を反射して、不気味に輝いていた。
一体、二体、三体——次々と、水路の闇の中から同じ姿の魔物が這い出してくる。
「鉄鱗蜥蜴……。単体ならたいしたことないけど、これだけ群れると厄介よ」
「ああ。だが、通路の幅なら三体が横に並ぶのが限界だ。各個撃破できる」
ユートが一歩前に踏み込んだ。その背中を、アルトの声が追う。
「ユートさん、先頭の三体の真ん中のやつ——左の前脚だけ色が違います。そこだけ鱗が薄いです!」
「見えたぞ」
ユートの剣が閃いた。左前脚の付け根を正確に斬り上げ、鉄鱗の隙間を抉る。悲鳴を上げて崩れ落ちた一体目を踏み台にして跳躍し、二体目の頭部を上から叩き割る。三体目が棘を射出したが、ユートは剣の腹で弾きながら着地し、横薙ぎで一閃。わずか数秒で三体を沈めた。
「次の波が来ます! 今度は五体、横二列で! 天井にも一体張り付いてます!」
「ユート、前をお願い! 天井のは私がやる!」
ミラが天井に向けて炎弾を撃ち上げる。張り付いていた蜥蜴が炎に包まれて落下し、ユートがそれを蹴り飛ばした。
アルトは後方で集中を続けていた。魔力感知で敵の位置を把握し、弱点を見つけ、的確にユートとミラに伝える。両手はバルの縁を握りしめ、いつでも武器を引き抜けるように構えている。
「バル、左壁の向こう側にも通り道がある。壁を壊して奇襲してくるかもしれない!」
『チッ、別の通路か! おい剣使い、少し下がれ! 壁ぶち抜いてくる前にこっちから先に封じる!』
アルトがバルから引き抜いたのは——先端が異様に太い、鉄塊のような鈍器だった。
それを左の壁に向けて全力で叩きつける。壁が大きく陥没し、向こう側の通路が半分潰れた。壁の裏で待ち構えていた蜥蜴が、崩れた瓦礫の下敷きになって動けなくなる。
「ナイスよ、アルト!」
ミラが叫ぶ。その直後、正面から第三波の群れが押し寄せてきた。今度は鱗の色が違う——より大型の個体が混じっている。
「ユートさん、大きい個体が二体います! 普通の鱗よりずっと硬いです! でも——」
アルトは目を凝らした。大型個体の体表を流れる魔力の動き。鱗の配列。そこに、わずかな法則がある。
「——腹の下、前脚と後脚の間に鱗がない部分があります! そこだけ柔らかいはずです!」
「なら、転がして腹を見せるわ! 『氷結』!」
ミラが足元の水路の水を一瞬で凍結させた。大型蜥蜴の四本の脚が氷に取られ、堪えきれずに横転する。露出した白い腹を、駆け込んだユートの剣が正確に貫いた。
もう一体も同様に処理し、後続の雑魚をミラの炎弾で薙ぎ払う。
水路が蒸気と血と焦げた鱗の臭いに満たされる中、四人は着実に通路の奥へと進んでいった。
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分岐を三つ越え、梯子を一つ下り、さらに奥へ。
群れの規模は徐々に大きくなっていったが、四人の連携に乱れはなかった。
アルトが感知し、指示を出す。ユートが切り拓く。ミラが退路を封鎖し、大型を処理する。バルが奇襲を潰す武器と、狭い通路に特化した変則的な得物を供給する。
迷宮で磨き上げた「四つの歯車」は、暗くて狭くて足場の悪い地下水道でも、狂いなく嚙み合い続けた。
「アルト、この先の気配はどうだ」
ユートが剣についた黒い血を振り落としながら尋ねた。
アルトは目を閉じ、通路の先に意識を伸ばす。
蜥蜴たちの魔力は——散り散りになっていた。ここまでに倒した数で、群れの大半は壊滅している。しかし。
「……奥に、別の気配があります」
「別の?」
「蜥蜴とは全然違います。もっと濃くて、冷たくて……何というか、すごく整った魔力です。蜥蜴があの魔力に引っ張られるように動いていた感じがしました」
「指揮官がいるってこと? 蜥蜴を操ってたのは、そいつってわけね」
ミラの声が引き締まった。
『フン。やっぱり雑魚の群れにはボスがいるってわけだ。……おい、アルト。そいつの魔力、さっきの蜥蜴どもとは段違いに不味いぞ。人間じゃねぇ。魔族だ』
バルの言葉に、三人の間に緊張が走った。
魔族。妖精の里を襲っていた連中と同じ、あの存在。
だが、アルトの足は止まらなかった。
止められなかった。
「行きましょう。あの魔族を倒さないと、蜥蜴はまた湧いてきます。……それに、あの魔族とも関係があるかもしれない」
ユートが頷いた。ミラも杖を握り直す。
四人は、地下水道の最も深くて暗い場所を目指して、再び歩き始めた。
先に待つのは、魔物の群れを操っていた存在——ディアルの部下との邂逅だった。




