第24話:防塞都市の朝
防塞都市コルン、滞在二日目の朝。
空は快晴で、街の広場には朝市の喧騒が溢れていた。色とりどりの果物や野菜が並ぶ露店、焼きたてのパンの匂い、馬車の車輪が石畳を鳴らす音。戦いとは無縁の、穏やかな日常がそこにあった。
アルトは、宿のすぐ裏手にある小さな訓練広場に一人で立っていた。
早朝から人気のない広場の隅で、目を閉じて静かに呼吸を整えている。
——迷宮で芽生えた、あの感覚。
目を閉じると、世界が少しだけ違って見える。いや、「見える」のとも違う。感じ取れるのだ。地面の下を流れる細い水脈のような魔力の道筋。建物の壁に染み込んだ微弱な残留魔力。朝市に集まった人々の体から発せられる、生命そのものの温かい光。
だが、その全てはぼんやりとしか見えない。集中すれば一本の流れを辿れるが、すぐにぼやけて消えてしまう。
「……まだ、全然安定しないな」
目を開けると、広場の柱に立て掛けていたバルが——いつの間にか起きていた。
『お前、最近目つきが変わったな』
「え?」
『昔のお前は、ただ目ぇ凝らして見てるだけだった。今は……なんつうか、目の奥に別の何かが動いてるみてぇだ。いい目してやがるよ』
バルの口調は、いつもの毒舌とは少し違っていた。茶化すでもなく、ただ事実を述べるように。
「……ありがとう、バル」
『気色悪ぃ! 誰がお前に褒め言葉なんか言うかよ! さっさと朝飯食わせろ、俺様のほうが先だ!!』
アルトは小さく笑いながら、宿に戻った。
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一階の食堂では、既にミラがテーブルについてパンをかじっていた。
その左手の人差し指には、迷宮で手に入れた防壁の指輪が嵌まっている。
「おはよう、アルト。早起きね」
「おはようございます。ミラさん、指輪の調子はどうですか?」
「今朝試してみたわ。防壁の展開はできるんだけど……」
ミラが左手を軽く振ると、指輪が淡く光り、彼女の正面に半透明の光の壁が一瞬だけ展開された。だがすぐに霧散する。
「こんな感じ。展開自体は問題ないんだけど、魔力の消費が結構キツいのよ。長時間は維持できないわね。ここぞって時の切り札って感じかしら」
「でも、不意打ちを防げるだけでも大きいですよ」
「そうね。……あとは、あの試練で使った氷魔法ももっと練習しないと。あんなヘロヘロの氷壁じゃ、実戦では話にならないわ」
ミラが杖を握り直し、ふと目を伏せた。
「……師匠に会いたいわね。色々、話したいことができたから」
その呟きは小さく、アルトには聞こえなかったかもしれない。
ミラはすぐにいつもの調子を取り戻し、「さ、朝ごはん食べましょ!」とパンの籠をアルトに突き出した。
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ユートが食堂に姿を現したのは、アルトとミラが朝食を食べ終わる頃だった。
彼は既に鎧を身につけており、冒険者ギルドの方から戻ってきた様子だった。
「おはようございます、ユートさん。もう出かけてたんですか?」
「ああ。ギルドで周辺の情報を仕入れてきた。……少し、気になることがある」
ユートの声のトーンが、僅かに低くなった。
「この街の近くで、ここ数日の間に魔族の斥候らしき存在が何度か目撃されているそうだ。街の騎士団は警戒態勢を敷いているが、まだ具体的な脅威は確認できていないらしい」
「魔族の斥候……。ディアルの手下とか?」
ミラの表情が引き締まる。
「断定はできない。だが、妖精の里を襲撃していた連中と無関係とも思えない。……もう少し様子を見てから出発したほうがいいかもしれん」
アルトは窓の外を見た。朝の光に照らされた石壁の街は、とても平和に見える。
だがその穏やかな風景の下に、不穏な影が忍び寄っていることを——彼の新しい「目」は、まだ捉えることができなかった。
「とりあえず、今日は街で情報収集と装備の点検だな。ミラは指輪の扱いを練習しておけ。アルトは——」
「はい。僕は、もう少し迷宮で見えるようになったあの感覚を、練習してみます」
「ああ。あの力は、必ず武器になる。大事にしろ」
穏やかな朝だった。
迷宮で鍛え直されたパーティには、ディアル遭遇直後のような絶望の影はもうない。
あの男にはまだ遠い。だが、足元はもう震えていない。
防塞都市コルンの平和な日常は——このあと、たった一晩で終わりを告げることになる。
だがそれは、まだ少し先の話だ。




