第2話:空腹と鉄の味
「……な、なんなんだよ、これ……」
アルトの声は情けないほど震えていた。
つい先ほどまで自分を殺そうとしていた凶暴な魔物が、バッグの中に「消えた」。ゴキゴキという咀嚼音だけを残して。
『おい』
不意に足元から響いた野太い声に、アルトは短く悲鳴を上げて飛び退いた。
地面に転がった黄色のバッグが、まるで退屈そうに口をパクつかせる。
『いつまでへたり込んでやがる、このノロマ。さっさと背負え。腰が抜けたか?』
「しゃ、喋った……! バッグが、喋った……!?」
『バッグが喋って何が悪い。それより腹が減った。あんな犬っころの魔力じゃ全然足りねぇぞ。もっとだ、もっと寄越せ!』
威圧的なその声に、アルトは混乱の極致にいた。
胡散臭い店主は「物が消えるジョークアイテム」だと言っていた。だが、これはそんな生易しいものではない。生きている。意思がある。それも、とびきり凶暴で、傲慢な意思が。
(……ぼく、とんでもないものを買っちゃったんじゃ……)
逃げ出したい。今すぐこの場に捨てて走り去りたい。
だが、そのバッグを買うために全財産を使い果たしたことも事実だった。これを捨てれば、手元には森で拾った樫の枝しか残らない。
『……おい。無視すんじゃねぇ。おい!』
アルトは反射的に謝りながら、震える手でバッグを掴んだ。
一秒前まで自分よりもはるかに大きい狼を丸呑みにしたはずなのに、革の表面は滑らかで、血の一滴すら付いていない。バッグの厚みも重さも、まったく変わっていなかった。
(あんな巨大な魔物を食べたのに……どうなってるんだ、これ……)
アルトは這々の体でバッグを背負い直すと、夕闇が迫る森を逃げるように走り出した。
* * *
深夜。
王都の隅にある安宿の屋根裏部屋で、アルトは空腹による胃の痛みで目を覚ました。
月明かりの下、寝台の脇に置かれた黄色のバッグを、恐る恐る見つめる。
バッグはあれ以来一言も喋らず、ただの革袋に戻ったかのように静かだった。昨日のあの野太い声が、まるで悪い夢だったかのように。
(……明日、どうしよう)
皮袋は空っぽだ。宿代は今日までは払ってあるが、明日の食事代すらない。依頼は失敗して、全財産はこのわけのわからない「喋るバッグ」に消えた。
そんな後悔と不安に押し潰されそうになりながら、アルトは毛布を被って丸くなるほかなかった。
* * *
翌朝。
アルトは樫の枝を杖代わりに握りしめ、ふらつく足取りで再び「静寂の森」を訪れた。
行かなければ、今日のご飯がない。
昨日ホーンウルフに襲われた場所を避けるように、アルトは森のさらに浅い、茂みの少ない場所で薬草を探していた。
太陽草を摘む手は震えている。少しの風の音、鳥の羽ばたきにさえ、アルトは過剰に反応して肩を竦めた。背中のバッグは、相変わらず無言で重い。
(……大丈夫だ。ここはまだ入り口に近い。強い魔物は出ない……はずだ)
自分に言い聞かせるように呟いた、その時。
カサッ。
昨日のような獣の唸り声ではない。もっと湿った、粘り気のある「這いずる」音が聞こえてきた。
アルトが顔を上げると、そこには巨大なナメクジのような魔物――「フォレストスライム」が三体、ゆっくりと間を詰めてきているところだった。
「スライム……」
冒険者ギルドの教本によれば、もっとも弱い魔物の一つ。
だが、今のアルトにとっては、死神の軍勢にも等しい恐怖の対象だった。
逃げようとしたアルトの背中で、不意にバッグが「欲」に満ちた声を上げた。
『おい、メシだ! 昨日の犬っころに比べりゃ魔力が薄そうだが……背に腹は代えられねぇ』
「ま、また戦うの!? ぼくは薬草を――」
『ガタガタ抜かすな! あのぶよぶよ共をバッグに放り込め!』
「そんな、無茶だよ! 武器だってないのに……!」
『チッ……ノロマが。ほらよ、俺の中に手を突っ込め!』
ガバッ、と。
バッグの口がひとりでに開き、アルトの前に深淵のような暗闇を晒した。
「て、手を!?」
『早くしろ!』
怒声に押され、アルトは泣きそうな顔でバッグの闇の中へと右腕を突っ込んだ。
革袋の底に触れるかというその瞬間、アルトの掌に、硬くて冷たい「何か」の感触が触れた。
「……何、これ……?」
アルトがそのグリップのようなものを握り、力任せに引き抜く。
シャラッ。
バッグの中から現れたのは、一本の短剣だった。
「これ……武器?」
アルトが引き抜いたそれは、およそ「業物」とは程遠い代物だった。
刀身は赤錆に覆われ、刃の半分はガタガタにこぼれている。柄を巻く革もボロボロで、握るたびに嫌な粉が手に付いた。
『「錆びた短剣」だ。何百年ぶりかの飯だったから、まだ胃袋の調子が戻ってねぇ! うまく生成できなかったが、今はこれで我慢しろ! さあ、そいつで突撃だ!』
「こんなボロボロのナイフで、どうやって……!」
スライムが粘液を飛ばしながら迫ってくる。
アルトは泣きそうな顔で、その「錆びた短剣」を両手で握りしめた。
だが。
いざ戦闘が始まると、アルトの脳裏に昨日とは違う「冷徹な感覚」が走り抜けた。
(……待てよ。この短剣、あちこち刃こぼれしてるけど……)
アルトの目が、無意識に短剣の刀身を細部まで走査する。
刃の付け根、中央、先端。それぞれに不規則な凹凸がある。
そして、前方から迫るスライムの動き。
ただ這いずっているだけではない。体をわずかに収縮させ、弾けるように跳躍しようとする予備動作。
(真ん中のスライムが、左側に飛ぶ。……ここだ!)
恐怖で震えていたはずのアルトの体が、自分の思考よりも一瞬早く動いた。
アルトは必死に短剣を振り抜き、露出した核をこれ以上ない正確さで叩き割り――。
パシィィンッ!
硬いガラスが割れるような音と共に、一体目のスライムが形を崩してどろどろの体液となって崩れ落ちた。
「や、やった……!」
『油断するな、あと二匹だ!』
バルの怒声にハッとして身構える。
残る二体は、仲間がやられたことにも頓着せず、ジリジリと距離を詰めてきている。
(……この短剣じゃ、普通に斬っても滑るだけだ。さっきみたいに、刃のガタガタを引っ掛けて……)
一度成功したことで、アルトの極限の集中がさらに研ぎ澄まされた。
二体目のスライムが粘液を飛ばしてくるのを、ギリギリで横に躱す。足元が滑りそうになったが、杖代わりにしていた樫の枝でなんとか踏みとどまった。
「そこだっ!」
枝でスライムの動きを牽制しつつ、開いた隙間めがけて短剣を突き立てる。
再び、意図的に刃こぼれの部分を体表に引っ掛け、強引に抉り開ける。丸見えになった核を、樫の枝の先端で思い切り突いた。
ピキッ……パリンッ!
二体目が沈む。
その直後、三体目がアルトの足首に巻きつこうと伸び上がってきた。
避けられない。
「くっ……!」
『俺を使え!』
背中からバルが叫ぶ。
アルトは咄嗟に体を捻り、背負っていた黄色のバッグを盾にするようにスライムの前に突き出した。
ズチュボォォォンッ!
スライムがバッグの表面に張り付いた瞬間、凄まじい吸引力でスライムの巨大な粘液の塊が暗闇の中へと一気に吸い込まれた。
見た目には絶対に入り切らない体積が、あっという間に真っ暗な奥底へと消えていく。
『チッ……! 水っぽくて不味い魔力だ。全然足りねぇぞ!』
バッグの奥深くからゴパァッ……という鈍い音が響き、スライムはあっけなく消化されたようだった。
静寂が戻ってきた森の中で、アルトはドサリとその場に座り込んだ。
握りしめていた「錆びた短剣」は、三番目のスライムが消滅したのと同時に、砂のように崩れて手からこぼれ落ちていた。
『おい、ノロマ。ほかの二匹も早く食わせろ! 鮮度が落ちるだろうが!』
「……ちょっと、待ってよ……。息が……」
アルトは荒い息を吐きながら、割れた二体のスライムの残骸を見る。立ち上がる気力もないまま背中のバルを胸の前に抱え直すと、バッグが大きな口を開けた。
ズボォォッ!
泥だらけの残骸が、目に見えない力に引かれて次々と深い闇の中へと吸い込まれていく。
(あの時も、今も。魔物をまるごと飲み込んでいるのに、バッグはちっとも膨らんでないし、重くもなってない……)
アルトの乏しい冒険者の知識に照らし合わせても、こんな異常な魔道具は聞いたことがなかった。
あの口の奥には、見た目からは想像もつかない『底なしの暗闇』が広がっているに違いない。
(そこに全部引きずり込んで……物理的なものは消滅させて、魔力だけを吸い取ってるんだ……)
アルトはこの奇妙で底の知れない相棒の性質を、肌感覚で少しだけ理解した。
『ったく、スライム三匹じゃあ小石を投げるよりマシって程度にしかならねぇな。おい、次はもっとデカいのを探せ!』
「無理、絶対無理……! ぼくは、薬草を摘むだけで精一杯だよ……」
アルトは怯えた声で言い返しながら、周囲に生えていた太陽草を震える手でむしり取った。
本来なら十本でいいところを、念のために見つけた分だけを掻き集め、皮袋に押し込む。
「帰ろう……ギルドに報告して、ご飯を……」
『メシなら俺がさっき食っただろうが』
「君じゃなくて、ぼくが! ぼくが食べるの!」
少しだけ口答えできるようになってきた自分に驚きながらも、アルトはボロボロの体を引きずるようにして、足早に森を後にした。
王都へ戻る道すがら。夕暮れの空の下で、アルトはふと背中の相棒に問いかけた。
「……ねえ。君って、名前はあるの?」
『名前? ああ……どうだったか。思い出せねぇな』
あれだけ偉そうなのに、自分の名前もわからないらしい。
「じゃあ……バル、はどうかな」
『バル? なんだその間抜けな響きは』
「昔、お母さんが読んでくれた絵本に出てくる、世界で一番腹ペコな犬のバケモノの名前だよ」
『ふざけんな! 俺様を下等な犬っころと一緒にすんじゃねぇ!』
「でも、いっぱいたべるでしょ?」
『……チッ』
背中で黄色いバッグが、不満げにブルッと身をよじった。
それでも、明確には拒絶してこない。なんだかんだで、自分専用の呼び名ができたこと自体は満更でもないようだった。
「よろしくね、バル」
返事はなかった。
背中で文句を言い続ける不思議な相棒の重みが、昨日よりも少しだけ「頼もしく」感じられたのは――きっと、空腹で頭がおかしくなっているせいだ。そう思いたかった。




