第17話:絶対的な上位者
月明かりの下、焼け焦げた妖精の隠れ里の跡地を、恐ろしいほどの静寂が支配していた。
つい先ほどまで繰り広げられていた死闘の熱気も、血の匂いも、魔法による焦げ臭さも。そのすべてが、たった一人の——『空間を歪めて現れ、そして去っていっただけの男』の残した、異次元のプレッシャーによって凍りついていた。
「……はぁ……っ、はぁ……っ」
静寂を破ったのは、アルトの荒い呼吸音だった。
彼は気づけば、両膝を地面についてへたり込んでいた。恐怖で奥歯がカチカチと鳴り、全身の筋肉が硬直して思うように動かせない。
魔力切れで座り込んでいたミラは、あまりの恐怖に顔面を蒼白にさせ、ガタガタと震えながら自分の両腕をきつく抱きしめている。
「……あいつ……、あの男、魔族……よね……?」
ミラの声は、消え入りそうに細かった。
先ほど彼らが死闘の末に倒した角の魔族も、人間からすれば十分すぎるほど天災に近い存在だった。
だが、たった今現れたあの男は、そんな「強い」とか「恐ろしい」といった言葉で括れるような次元の存在ではなかった。
まるで、人間が歩いている途中で足元のアリの行列に気づかず、たまたま踏み潰さずに通り過ぎたような。その程度の『彼我の実力差』と『圧倒的な無関心』。
もし一瞥でもされ、指先一つ向けられていたら——この四人は、誰一人として今ここに生きていなかったということを、全員が本能で理解させられていた。
「アルト、ミラ……無事か」
ユートが、剣を杖代わりにしながら立ち上がった。
彼の声も低く掠れてはいたが、その瞳だけは、絶望に黒く染まることなく、静かに——だが激しく闘志の炎を燃やし続けていた。
「……ユートさん。僕たち、もし相手にされてたら……」
「確実に全滅していた。俺の剣も、ミラの魔法も、君の機転も、バルの能力も、そのすべてを束ねても、あの男の足元にも及ばなかっただろうな」
ユートの冷静すぎる言葉が、かえって痛烈に事実を突きつける。
あの時、彼らは『完璧なパーティ』になったと確信していた。漆黒猿を倒し、角の魔族を倒し、自分たちならどんな困難も乗り越えられると。
だが、その自信は、ディアルと名乗る上位魔族の『無関心な背中』によって、根っこからへし折られてしまったのだ。
『……クソがッ……! あのヘドロみてぇに濁った魔力の塊野郎がッ……!!』
背中のバルが、いつになくギリギリと歯ぎしりを鳴らしていた。
今までどんな強敵相手でも「美味そうな魔力だ」と馬鹿にしたような態度を崩さなかったバルが、純粋に畏怖し、そして怒っている。
彼にとっても、あれは圧倒的な規格外のバケモノだったのだ。
「……どうするの、ユート」
ミラが力なく顔を上げた。
「あんなのが……あんなバケモノが、もしこのまま人間の街や世界に向かってきたら。私たちじゃ、時間稼ぎすらできないわよ……」
「……ああ。だが、俺の探しているものの先に奴らがいるなら、避けては通れない」
「ユートさんの探している……あの『大切な人』ですか?」
ユートは小さく頷き、血振りして直剣を鞘に収めると、アルトとミラを見下ろした。
「妖精の里を襲った奴ら。あいつらが探している『何か』。……断言はできないが、俺の追っている人と、無関係だとは思えない。それを追えば、いずれ必ずあの絶望と再び対峙することになるだろう。俺はそれでも行く。……君たちはどうする。一緒に来てくれるか? それとも、ここで解散——」
「僕も……一緒に行きます……」
アルトが、震える足でなんとか立ち上がろうとして、やっぱり力がこもらずに膝をついたまま答えた。
指先はまだ氷のように冷たく、あの無関心な目を思い出すだけで心臓が痛いほど警鐘を鳴らす。
だが、ここで一人になってしまったら、その恐怖に完全に呑み込まれて狂ってしまいそうだった。
「……怖いです。あんなバケモノとは、二度と会いたくない。……でも、ユートさんたちと……みんなと一緒にいない方が、きっともっと怖いです」
アルトが血の気の引いた顔でかろうじてそう告げると、ユートは少しだけ目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……すまない。巻き込むことになって」
「……当たり前、でしょ」
ミラも、杖を支えにしてようやく腰を上げたが、いつも背筋を伸ばしている彼女の姿勢は崩れていた。
震える声には、いつもの強気な響きは微塵もない。
「こんなとこで……一人で置いていかれたら、たまらないわよ。……でも、一つだけお願い」
「なんだ」
「……早く、ここを出ましょう。あの男の気配が……まだ空気にこびりついてて、息が詰まりそう……」
そのミラの悲痛な訴えに、全員が同意した。
四日前の夜、アルトが焚き火の前で「僕たちはユートさんのパーティですから」と言った言葉。
それは今、この圧倒的な絶望の中で、彼らをばらばらにさせないための細く頼りない「命綱」となっていた。
もし四人がそれぞれ単独でディアルと遭遇していれば、間違いなく心が完全に折れていたはずだ。今は互いがいるから、辛うじて正気を保てている。
だが——「一緒にいる」と決めたからといって、身体に刻み込まれた恐怖が消え去るわけではなかった。
四人は、焼け焦げた隠れ里の跡に一秒でも長く留まることに耐えきれず、半ば逃げるようにして夜の森へと引き返した。
数キロほど離れた木陰まで無言で歩き続け、ようやくへたり込む。
火を熾す気力すら誰にもなく、ただ冷たい夜風の中で身を寄せ合い、震えを堪えながら夜が明けるのを待つしかなかった。
ミラが先に泥のように眠りに落ち、アルトもバルを抱きかかえるようにして目を閉じた。
一人残ったユートは、暗い森の奥を見つめていた。
——かつて共に旅をした、あのお人好しの英雄の顔が脳裏を過ぎる。
あの人なら、こんな時どうしただろうか。
「……力が、足りない」
誰にも聞こえないほどの小さな呟きが、焼け野原に溶けて消えた。




