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第006話 『ぬくもりの結界』

 安っぽいスープの匂いが、六畳間にじんわりと満ちていた。

 お湯を入れて三分待つだけの、どこにでもあるインスタント。


 でも、銀髪の少女が箸を握って「はふ、はふ」やってる光景は、どう考えても非日常だ。


 顔を近づけ、慎重に啜ったかと思えば――


「熱っ……」


 って、わざわざ言葉に出してんのが妙に人間くさい。


 そろそろと麺を持ち上げて、ふーふー。

 首をすくめたり、口をすぼめたり。

 そのたびに銀髪が揺れる。


 やがて最後の一滴まで飲み干すと、割り箸をきちんと揃えてテーブルに置いた。

 そして、ふぅっと満足げに息を吐き、目を細める。


「ごちそうさま。美味しかった」

「おう。そりゃ何より」


 口元が緩みそうになるのを、なんとか誤魔化す。

 ティッシュで口元をぬぐう仕草は、ほんの少しだけ日常に馴染んで見えた。


 ……で、空気が緩んだついでに、口が勝手に動いた。


「なあ、シャワー浴びるか?」


 変な意味はない。

 ないけど――


「……しゃ、しゃわー……!?」


 肩がビクンと跳ねた。

 はい、誤解した。完全に。


「いやいや、違ぇよ! 今日だいぶ走ったろ。汗もホコリも……その、衛生的なアレ!」


 説明しながら、自分で自分が怪しいなって思ってるあたり終わってる。

 紗夜は固まったまま数秒、そして――


「……っ、わ、わかってる! こ、これは〈禊(みそぎ)の儀式〉……ってこと?」

「いや、ただの入浴な」


 一応ツッコんどく。

 てか天然か中二か、どっちだよこの反応。


 頬がほんのり赤いあたり、まったく無意識じゃない気もするし。

 こっちは「余計なこと言ったな……」って後悔してるし。


 まさに地雷原。


「パジャマ代わりに俺のジャージ貸すから。ちょっとデカいけど、ゆるっと着とけ」


 そう言って、押し入れからタオルとジャージ、それに古いTシャツを引っ張り出す。


 適当に畳んで差し出すと──

 紗夜はそれを両手で抱きしめ、目を伏せて神妙に。


「恩義、しかと受け取った……!」

「仰々しいわ」


 思わず呆れ声を出すと、くすっと笑った。

 勇者に選ばれたみたいな顔して、そのまま立ち上がる。


 裸足のまま、ペタペタとした足音を響かせ、浴室へと歩いていく。

 床板がきしみ、銀髪がふわりと揺れる。


 その背中を見送って、俺は小さく息をついた。


 ふぅ。とりあえず、ひと段落。

 と思ったのも束の間。


 カサ、リ。

 かすかな衣擦れの音が、耳をかすめた。

 続いて──ポスン。

 床に布が落ちる、乾いた気配。


 ちょ、やめろ。

 その連想ゲームは危険すぎる。


 しばらくして、ガチャリと浴室の扉が閉まる音。

 そしてシャァァァ、とシャワーの水音が響く。

 俺の良心は、なんとか救済された。


 ……さて、こっちも腹の調子を整えに行くか。


 そう思って廊下に足を踏み出した、その時――


「うわっ──!?」


 足裏に、ゴロンという異物感。

 視界がぐらりと傾く。


 スプレー缶……ッッ!


 床をドタバタ蹴って必死に耐えるが無理だった。

 完全にバランスを崩した俺の手が、咄嗟に伸びて――


 ガチャリと、浴室のドアノブが、無慈悲に開く。


「────えっ?」


 扉の隙間から湯気があふれる。

 一気に霧に包まれ、視界が真っ白に霞んだ。


 そして、その奥。


 濡れた銀髪。

 白磁のような背中。

 肩甲骨のラインを伝って落ちる水滴。


 そして、振り向いた金色の瞳。

 紗夜が大きく目を見開き、口を小さく震わせた。


 ──止まった。すべてが。


 視界に飛び込んだのは背中。

 だけど、ただの背中じゃない。

 その角度、その距離、その無防備さ。


 ほんのわずか、ほんの一瞬。

 絶対に見てはいけないものが、クリアに視えた。


 ……いやいやいや、俺、なにやってんだよ!


「おわっ!? ご、ごめっ!」


 反射的に背を向けた。

 ドアがバタンと閉まり、今度こそ視界が遮断される。


 ……が、遅い。

 見えたもんは見えた。しかも高画質で。


 慌てて動いた足元に、さっきのスプレー缶。


「──ぁっ、あぶ、って、ぐえっ!!」


 踏ん張る間もなく、ツルンと滑った。


 後頭部が壁にヒットし、反動でそのまま尻もち。

 鈍い音が響き、数秒の沈黙。


 浴室の向こうから、おずおずと声が届いた。


「こ、魂魄が抜けた音が……テ、テル、大丈夫……?」

「……だいじょばない」


 呻きながら答え、後頭部をさすりつつ、片手で顔の熱をあおぐ。


 あれは事故だ。完全に事故。

 だが事故にしては、網膜の残像が濃すぎる。


 白すぎる背中。滴る雫。柔らかな曲線。


 思い出すな俺。忘れろ俺。

 ……って無理だろコレ!


「……っ、いや、ほんとごめん! 二度と近づかない!」


 叫ぶように謝ると、扉の向こうからか細い声。


「……わ、私も……扉を封印し忘れて……」

「施錠な!」


 即ツッコミが出るあたり、まだ理性は残ってるらしい。


 でもその声は、さっきまでの紗夜とは打って変わって、申し訳なさと恥ずかしさで震えていた。

 たぶん向こうも真っ赤だ。顔も耳も、ぜんぶ。


「……っつか、俺も何やってんだほんと……!」


 ひとり言のように吐き出し、膝を立てて頭を抱える。

 そのまま尻を床につけたまま――


 ひとり反省会、開幕。



 ***



 お互いシャワーを済ませて、ようやく一息。

 六畳間の空気は、まだどこかしっとりしている。


 押し入れから布団を引っ張り出しながら、何気なく口を開いた。


「なあ、明日ってどうすんだ?」


 バサッと布団を広げる音が、部屋の中に響く。

 その反響の向こう側、ベッドの端。


 紗夜はジャージ姿で小さく体育座りしていた。

 足をぎゅっと抱えて、顎を膝に乗せたまま動かない。


 肩にかかった銀髪を指先で気にしながら、ぼんやりと視線を落としていた。


 さっきまで『禊の儀式』とか厨二なことを口走ってたとは思えない。

 あのテンションは、今や湯気と一緒に霧散していた。


「……分からない。でも、戻るつもりはない」


 小さいのに、不思議と芯が通った声。

 俺は布団を敷く手を止め、ゆっくりと彼女を見やる。


「そりゃそうだよな。子どもに番号をつけて呼ぶ施設なんて、帰る場所じゃない」

「………でも、行ける場所も、ない」


 その言葉のあと、目を伏せて、唇をきゅっと噛んだ。

 まだ少し湿っている髪が頬に貼りつくのを気にせず、さらに小さく縮こまった。


 部屋の空気が、ひときわ重くなる。


 選択肢が、一つずつ潰れていく音が聞こえた気がした。

 警察に渡せば、また『どこか』に連れていかれる。

 手続きのルートに乗せられて、知らない天井の下で、また番号に戻るだけ。


 なにより、本人がそれを望んでない。


 ───だったら、俺がどうにかするしかないのか?


 内心そんなことを思いながら、乾いた喉を動かす。


「……とりあえず、明日になったら考えようぜ」


 肩をすくめて、軽い調子で笑ってみせる。

 本音を隠すには、軽口が一番だ。


「今考えても、眠くなるだけだ」

「……うん」


 返ってきた声は小さい。

 けど、さっきより少し明るい。


 唇の端がほんの少し上がっていて、その笑みを見た瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。


「でも……こうして、ご飯を食べて、シャワーを浴びて、布団があって……」


 紗夜はそっとベッドに手を伸ばす。

 指先でシーツをなぞる仕草は、壊れ物を触るみたいに慎重だ。


 ぎゅっと握っては離す。

 また握っては、離す。

 そうやって現実を確かめるように、感触を拾い続ける。


「こういうの、すごく不思議」


 伏せられた視線の奥で、口元だけが柔らかくほころんだ。


「そのうち、きっと当たり前になる」


 俺はそう言って、布団の位置を少し直す。

 紗夜と目が合いそうになって、慌てて視線を逸らした。


「……当たり前になっても、忘れたくない。今日のこと」


 胸を不意にえぐられる。


 不器用な言葉。

 でも真っすぐで、そのまま心に入ってくる。


 俺は照れ隠しのように、頬を掻いてで誤魔化した。


「じゃ、ベッド使え。俺は床で寝る」

「でも、それじゃテルが……」

「いいって。布団あるし、体力だけは自信あるから」


 紗夜はベッドを見つめたまま黙り込む。

 シーツの端を指でつまんで、折り目をつけては戻す。


 何かを言いかけては飲み込むように、唇が微かに動いた。


 ──そして。

 トスッ、と子どもみたいな勢いで、ベッドに体をあずけた。

 毛布に顔をうずめ、ふんわりと息を吐く。


「……あったかい」

「ん?」

「ベッドも、枕も、夜の音も……ぬくもりの結界みたい」


 その言葉に、何も返せなかった。

 代わりに部屋の照明を落とす。


 六畳間は、虫の声と冷蔵庫の低い駆動音だけを残して静まり返った。


「……とりあえず、今夜はここで寝ろ。明日のことは……明日考える」


 自分でも曖昧な言葉だと分かっている。

『今夜だけ』と口にしながら、その先の未来まで勝手に想像してしまっていた。


 布団に潜り込みながら、自分に釘を刺す。


 ―――― 一泊だけだ。


 天井を見つめたまましばらく眠れずにいた。

 隣のベッドからは、すぐに小さな寝息が聞こえてくる。


「むにゃ……ふふ、封印は……完了……」


 ………どんな夢見てんだよ。

 笑顔で寝返りを打つその姿は、どう見てもただの子ども。


 ったく、こっちはいろいろ考えて眠れないってのに、本人はもう夢の世界かよ。

 そんなことをぼやきながらも、いつのまにか瞼は落ちていった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


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