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第002話 『空から落ちてきた少女』

 夏の夜ってやつは、やけに静かで、やたらとうるさい。

 セミは早く寝ろ。風はもっと仕事しろ。


 ってオイオイ、道端の雑草ども。

 今日の昼間、四十度だったぞ?

 元気良すぎだろ。植物界のフィジカルエリートじゃねえか。


「こちとら残り体力ゲージ、ギリなんだけどな……」


 バイト帰り。

 手には、最低賃金で手に入れた唐揚げ弁当。スーパーのレジ袋入り。

 もちろん冷えてる。


 でも、この時間帯で半額になってたら、反射的に手が伸びるんだよなぁ。


 今日はまあまあ運がいい。

 唐揚げ弁当、最後の一つが奇跡的に残ってた。


 ライバルのおっさんと目が合った瞬間、無言の心理戦が開幕。


 先に取ったのは俺。

 でも勝ったって感じじゃない。

 あの目は「若いんだから、食えよ」って言ってた。


「いやぁ、半額って正義だな。他にプリンぐらい買えちまうし」


 そんな独り言を漏らしつつ、大通りを避けて寮団地に抜ける裏道を歩く。

 街灯はところどころにしかなく、明るいところと暗いところが、交互にやってくる。


 俺の影が、伸びて、縮んで、消えていく。


 誰もいないし、何も起きない。

 マイペースで、ゆっくり帰れる。

 俺のお気に入りの帰り道だ。


「っつーか、裏がありそうって、何だよ」


 今日、クラスメイトにシャーペン貸しただけで「え、優しい……なんか企んでる?」って言われた。

 俺、そんなに怪しいか?


 しかも隣のやつが、女子と話してた僻みから「なぁんか企んでないと貸さねえよなぁ?」とか余計なひと言。

 極めつけに、後ろの席のイケメンが「返すとき条件つけるパターンだろ」って追い打ち。


 お前ら俺をなんだと思ってんだ!

 困ってる人がいれば手ぇぐらい貸すわ!


「顔か? 顔が悪いのか?」


 近くのビルのガラス戸をチラ見。

 目つきが多少キリッとしてるせいかもしれない。


 整ってると思うんだがなあ。

 うーん、たぶん『疑惑のイケメン枠』ってやつか。


 そういや前にもあったな。

 同じメンツで中等部の後輩とゲーセン行って、景品とったから渡したら、「な、なんのつもりですか?」って、えらく警戒されたっけ。


 ………なんかもう、俺が何かすると全部裏がある行動扱いされるの、どうにかならんのか?


 脳内でぼやきラジオを流していたら──

 ふいに、足が止まった。


 ガクッと電源落ちたみたいに、さっきまでの雑念がスッと引く。


「…………んぁ?」


 鼻に抜ける空気が、いつもと違う。


 ふだんは、湿気と埃と排気ガスがごちゃ混ぜの、東京の夜。

 でも今、そこにうっすらと焦げた匂いが混じっていた。


 身体が一瞬、何かを探すように周囲を見渡す。


「はあぁぁぁ、今日は平和に終わって───」


 独り言が口をついて出た、そのタイミングだった。


 サイレン。

 しかも一台じゃない。音階がズレてる。

 二台、いや三台?


 消防車かと思ったけど、違うな。

 この音、パトカーだ。


 そこへ、低く唸るようなエンジン音も混ざってきた。

 普通のバイクよりも重くて硬質な響き──あれは、ギルドの機動車っぽい。


 あいつらが動いてるってことは……これ、マジの事件か?


 ビル群の向こうに、うっすらと煙が立ち上っていた。

 夜の光を浴びて、灰色の線がゆらりと揺れる。


 あれは、火事か、それとも──。


「………なんかあったのか?」


 自分の声が静けさを割った。

 それがかえって心細さを倍増させる。


 今日は平和に終わる予定だった。


 バイトも何事もなく終わり、半額の唐揚げ弁当もゲット。

 あとは帰ってシャワーを浴び、エアコンの効いた部屋で、スマホを眺めながら限界までだらけるだけ。


 そんでベッドと一体化する計画のはずだった。


 ………………はずだったんだよな。


 街灯の下で、自分の影がぴったりと足に張りつく。

 レジ袋がカサッと鳴った。風なんてないのに。


 首筋を、冷たい何かがすっと撫でた気がして、思わず辺りを見回す。


 ………………静かすぎる。


 ついさっきまで鳴いていたセミの声が、途切れたことに気づく。

 まるで世界が一瞬だけ息をひそめたみたいに、音がない。


「……おーい、誰かー、いないよなー」


 冗談まじりに声を張ってみる。

 返事があるわけもない。わかってる。

 でも、それが逆にざわつく。


 少し先の交差点。

 警備ドローンが一機、宙に浮かんでいた。


 白い探照灯をぐるりと回しながら、地面を舐めるようにスキャンしている。

 その動きが、妙に慎重で、無機質すぎて不気味だった。


 ────やけに丁寧だな。誰か探してんのか?


 ああ、なるほど。これはたぶん、ガチなやつか。

 不審者じゃなく、もっと上。テロ?

 いや、そんなの……


「空気が薄い気がする……」


 思わず、声が漏れた。

 いや、意識して出した。

 だけどその声は、空気に溶けて、ふっと消えた。


 心臓のあたりが、すうっと冷えていく。


 ────そして。


 頭の芯にビリッとくる、妙な圧。

 視界の端が、一瞬だけ歪んだ気がした。


「なんか今、鳥肌──」


 そう言いかけて、顔を上げた、その瞬間。


 視線の先。

 通りの向こう、遠くの高層ビルの屋上。

 月を背に、誰かが──黒い影が、柵を蹴った。


 いや飛ぶなよ!?と、思考よりも早く、耳に届く空気を裂く音。


 影は一直線にこっちへ。

 姿勢もスピードもブレない。

 街灯の光を断続的に反射しながら、まっすぐ俺に。


「っっ!??どいて!!!」

「……うおおおおッ!?」


 女の声だった。

 焦り、必死、今にも泣きそうで、切羽詰まってる感じ。


 でも、無理だ。

 避けられない。体が動かない。

 わかってるのに、もう、来てる。


 衝突と同時に、衝撃が街を吹き飛ばす。


 路肩の植え込みがちぎれ、葉っぱが空中で舞う。

 街灯の傘がガシャンと悲鳴を上げて揺れ、地面の粉塵が一斉に巻き上がった。


 ………………無事? 俺、生きてる?


 おそるおそる、目を開ける。


 駐輪場の自転車が何台もドミノ倒しになっていた。

 チェーンがガラガラと虚しく鳴っている。


 それでも、俺の体はかすり傷ひとつなかった。


 代わりに、なんだろう。

 胸の奥が、すうっと軽くなったような……何かを無効化したみたいに、妙な感覚だけが残ってた。


 視線を落とすと、腕の中に軽い感触。


 ───少女がいた。


 黒いフード付きの外套。

 小柄な体が、俺の胸元に収まっている。


 外套の裾は裂け、焦げ跡と土埃にまみれていた。


「……………………………………」

「お、おい。大丈夫……っ」


 声をかけた途端、彼女はビクッと反応し、跳ねるように後ろに飛び退いた。


「なっ、跳んだ……!?」


 そのまま足音ひとつ立てずに着地した。


 着地の拍子に、フードがはらりと落ちる。

 現れたのは、銀色の長い髪。


 夜気をほどくように髪が広がり、月明かりをひとすくいしたみたいに淡く揺れていた。


 不覚にも、その光景に目を奪われる。


 外套の隙間から見えるのは、黒のブラウスにチェックのプリーツスカート。

 そして足元を見て、思わず眉をひそめた。


 裸足だ。

 膝下には擦り傷、足の指には小石と砂。

 見てるだけで「痛そう」って声が出そうになる。


 そして最後に──顔。


 目が合った。

 月の光を閉じ込めたみたいな、金の瞳。


 じっと見つめてくるのに、不思議と刺すような鋭さはない。

 驚きと警戒が混じって揺れ、月明かりをかすかに返した。


 そして、彼女はぴくりとまばたきして、小さく姿勢を整えた。

 ふわっと口を開いて、首をかしげながらつぶやく。


「……ふぇ? え、あれ……? けが、してない……の? それに……あなた、色がない………」

「………………えっ?」


 色?

 は?色って何の?肌色?髪色?

 髪ならオレンジでがっつり色あるんだけど。


「色って……何の話だ?」


 俺が問い返すと、彼女は「んー……」と眉を寄せて、ちょこんと唇に指を添える。


 少しだけ考え込んでる……かと思ったら、いきなりじーっと俺を見つめてくる。


 服でも髪でもない。

 もっと奥、心の中をのぞき込むような、そんな視線。


 動かない。

 瞬きもしない。

 呼吸……してる?してない?わからん。


「ほんとうに、なにも、ない………」


 こぼれたのは、かすれた息みたいな声。


 遠くのサイレンが、一段と高く響いた。

 交差点で旋回していた警備ドローンが、こっちに向かって滑ってくる。


 胸の奥が、ざわりと揺れた。


 これ、偶然じゃない。

 この子……たぶんこの騒ぎのど真ん中から来たやつだ。


 緊張が走るなか、少女はまっすぐ俺を見つめたままだった。


 そして、すぅっと小さく息を吸い───


「この場所だけ、なにも視えなかった」

「…………は?」

「他の場所は、色であふれていたのに……ここだけは違った。だから──誰もいないと思って、降りてきたの」


 言葉の意味は、まったくわからない。


「いや、え、えぇ……?」


 俺は半額の唐揚げ弁当を持ったまま、月明かりの下で、ただ立ち尽くしていた。

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