【第二百一話】好き嫌い
「リーバくん」
夕食を馬車の外で取ったあと就寝した僕は、自分の名前を呼ばれる声で目覚めた。
視界がぼやけて、周りがよく見えないので、僕は一度瞬きをして、視界を鮮明にさせた。
──アディメさんが、僕の顔を覗き込んでいる。
「……どうしました?」
僕は起き上がって、アディメさんにそう言った。
まだ夜も遅いのに、一体どうしたというのだろうか。
「眠れなくて……外に出て話しませんか?」
アディメさんがそう言った。
眠れないのならば、まあ仕方がないだろう。
それに、彼女の表情を見るに、多分相談事だ。相談に乗ってあげることも僕の役目だろう。
なに、別に襲われて死ぬ訳でもない。心配しなくても大丈夫か。
僕はそう思って、アディメさんの提案に乗ってあげることにした。
「いいですよ」
そういえば、昨日からずっとアディメさんと会話するときは敬語だな。
彼女の前で気を抜くとすぐに敬語になってしまうのは、僕の悪い癖だろうか。ちゃんと直さねば。
「ありがとうございます」
アディメさんがそう言って、馬車後方のカーテンをくぐり、外へと出ていった。
僕も彼女についていくように、カーテンをくぐる。
夜空には星が浮いていて、やはり綺麗だった。月明かりが明るい。
ここは地球ではないので、正確には月ではないのだろうが、僕は月と呼ぶことにしている。そっちのほうが情緒的になれるからだ。
現代日本ではあまり見ることが出来ない光景を見ることが出来るのは、異世界の唯一の利点だろうか。
もっとも、現代日本でも街灯が届かないような場所であれば、このような星空を見ることもできるだろうが。
……さっき飲んだ酒の酔いが今更になって回ってきたのだろうか。少しテンションがおかしいな。
「それで、話って何かな?」
僕は先程の反省として、敬語を抜かしてアディメさんにそう話しかけた。
彼女は空に浮かんでいる星を眺めていて、僕は彼女のその表情を拝むことが出来ない。
「好き」
うぉっ……いきなり告白とは……。
いくら僕でも心臓が止まりかけたぞ……。
だが、次に飛んできた彼女の言葉はその言葉とは真反対の暗い言葉だった。
「嫌い」
アディメさんはそう言って、僕の方を振り返った。
彼女はどこか悲しげに笑っていて、目元には水滴が滲んでいる。
今日は晴れで、雨は降っていなかった。
「ねぇリーバくん」
「な、なんですか?」
僕は彼女の発する言葉に不安感ができてしまって、動揺しながらにそう言った。
僕の頭の中で警笛が鳴り響いている。
「どうすれば、私の物になってくれるの?」
周りで鳴いている虫の声でさえ、彼女のその言葉を遮ることはできなかった。
その言葉だけ、周りの音から独立して僕の聴覚を刺激してきたのだ。
「私の物って……?」
「文字通り、私の物」
文字通りの意味がわからない。
いや、わかることはできるのだろうが、理解はしたくないと感じている。
彼女の儚げな表情はどこか妖艶で、畏敬の念すら覚える。だが、それと同時に危うさと恐怖を感じた。
「僕は物じゃないですから……」
気づけば、僕の右腕には魔力が篭められていた。
自分から助け出した彼女に向かって、僕の体は魔法を撃とうとしているのだ。
今すぐ右腕への魔力の集中をやめようとするが、何故か出来ない。体がその命令を拒絶している。
彼女はニコッと笑い、僕の方へとにじり寄ってくる。
あとずさる。
近づく。
あとずさる。
近づく。
それの繰り返しを続ける。
だが、背後には森の真っ暗闇が迫っていて、いつかは終わりが来てしまう。
「私を拒絶するの?」
言葉とは裏腹に、彼女はニコリとした表情を崩さない。
いつの間にか、僕の背後には大きな木があった。これ以上後ろへと下がれない。
そうしている間にもアディメさんは僕に近づいてきていた。
「きょ、拒絶なんか……」
「なら、なってくれるよね? 私の物に」
止まった。
僕の目の前で。
彼女は僕の顔を見上げていて、僕は彼女の顔を見下げている。
身長差があるはずなのに、迫力に押しつぶされそうだ。
まるで僕はねずみのような小動物で、彼女がそれを狩る猛禽類のように感じる。
「僕がアディメさ──」
「アディ」
「……僕が、アディの物になったら、アディは僕に何をするの……?」
僕がそう言った瞬間、彼女は僕の体に抱きついてきた。
彼女の体から花の匂いが薄っすらと香ってきた。香水だろうか。
でもいつ、どうやって……香水を手に入れたのだろう。
「ギューって抱きしめて、好きって言って、それで……」
僕の唇に柔らかい感触が走り、目の前に濃い緑色の瞳孔が現れた。
直後に、僕の唇がアディメさんの唇と触れ合ったのだと気がついた。
彼女は背伸びをして、僕の後頭部を優しく掴んで、必死に僕と同じ目の高さにしている。
5秒ほどの短い時間だったが、僕にはそれが30秒程に感じた。
「こうするよ」
アディメさんは怯えた表情をしているであろう僕を見ながら、そう言った。
二度目のキスだった。
一度目よりも短くて、淡々としたものであったはずなのに、なぜこうも……心にモヤが残るのだろう。
「ぼ、僕は……」
アディメさんは先程まで触れ合っていた僕の唇に人差し指を置いて、僕のそれ以上の発言を許可しなかった。
そしてすぐに、彼女は馬車の方を振り返り、逃げるようにして走っていった。
彼女の背中が馬車の中に消えるまで、僕は彼女のその姿を見る。
僕は木を背もたれに、腰が抜けたようにへたり込んだ。
心臓の鼓動が一向に落ち着く気配がない。
先程までの眠気が嘘のように消えてしまっている。
どこで、僕は選択を間違っていたのだろう。
最初から間違っていたのか。それとも、選択肢に最初から正解なんてものはなかったのか。
どちらにせよ、アディメさんの僕に対する歪な形の想いが治まるのは難しいだろう。
「……戻ろう」
僕は誰がいるわけでもないのに、そう呟いて馬車へと向かう。
今日は、他のリミラスの近衛騎士団の人達がいる馬車に寝かせてもらおう。
事情を話せばわかってくれる人達ばかりだ。最悪、迷惑を承知で上がり込むのもいいか。
馬車に戻っている短い道中、アディメさんの足跡を辿っていると、土にシミがあった。
月明かりが地面の小さなシミを照らしていて、それが、アディメさんの向かった馬車にまで続いている。
今日は晴れで、雨は降っていなかった。
その地面の土のシミは、つい先程にできたものだということがわかる。
彼女は、なぜ、涙を流してまで僕にあんなことをしたのだろうか。
僕はこれ以上馬車に戻る気が出ず、その場で睡眠を取ることにした。
うるさいほどにまで鳴いている虫の声が、頭の中をぐるぐると回っている感覚がした。
今日は眠れるだろうか。




