未来を知る収集者は、助けた人から物を奪う
アデル・フォーンは、四十二人を助けて失職していた。
「三年前、西橋が落ちる八秒前に崩落を予見。荷車五台を停止させ、通行人四十二名を退避させた」
カイル隊長は王宮記録庫の薄い綴じ本を読む。感情が強くなるほど数字が増える人なので、たぶん機嫌はよくない。
「翌月までに予見を二百七十一件報告。うち事故回避百九件、被害軽減八十三件、確認不能七十九件」
「失職理由は」
「予見した事故に使われる品を、事前に回収し始めた。橋を壊す車軸。火事を広げる油壺。傷を負わせる金槌。本人の同意なしに百三十六点」
「事故を止めたなら、返せばいい」
ルシアが言う。隊長が一枚めくる。
「返却後に別の事故が見えた、と拒否した。軍は能力登録を停止。危険品回収補助の資格は戦争終結三日前に失効した」
今朝見せた札と一致する。資格が切れても、未来は切れなかったらしい。
記録の末尾は、アデルの字で短い。
『返した品で人が死んだ。次は返さない』
被害者の名も、品もない。言い訳にしては短すぎる。報告書にしては足りなさすぎる。
「現在地は西橋市場の旧税倉です」
ミナが聞き込み帳を広げた。
「顔を見た人が六人。名前を知ってた人が十四人。お礼を言った人が九人で、返してくれって怒ってた人が十一人です」
「数が合わない」
「お礼を言ってから怒った人が四人います」
それなら、よく合っている。
西橋市場へ着くと、屋台の布屋根が一斉に外されていた。雨は降っていない。風も弱い。店主たちは困った顔をしているが、縄を解く手は止めない。
「あと三十秒で、染料屋の看板が落ちます」
ミナが聞いた話を確かめるように空を見る。
通りの先から、アデルが歩いてきた。黒いガラス札を八枚、腰へ下げている。今朝の糸巻きは一番端へ結ばれていた。
「看板は落ちなかった」
過去形で言いながら、染料屋の前で足を止める。店主が看板を支える縄へ手を伸ばした。
「触るな」
ルシアより先に、アデルが言った。
八秒後。落ちたのは看板ではなかった。その上の雨樋が外れる。溜まっていた泥水が店先へ落ちた。布屋根があれば、重みで柱ごと倒れていた場所だ。屋根を外した店の間を、泥水だけが走った。
小さな男の子が笑って水を踏む。母親がアデルへ深く頭を下げた。
「昨日は、この子の靴もありがとうございました」
「靴は返さなかった」
アデルの腰で、糸巻きの隣に片方だけの子ども靴が下がっている。紐の先は摩耗し、かかとの内側だけが白く薄れている。昨日まで毎日履いていた跡だ。
男の子は泥水から出て、片足ずつ地面を踏んだ。笑ってはいるが、小石を避ける歩幅が不自然に狭い。
「もう片方は」
ミナが母親へ聞く。
「家にあります。この子、片方だと歩けないから、今日は裸足で」
「あのまま履いていたら、馬車の車輪へ紐を巻き込んでいたんでしょう?」
「巻き込んでいた」
母親はもう一度礼を言った。困った顔のまま、それでもアデルをかばう。
「生きていれば、靴は作れますから」
正しい。だから、靴を奪う手順まで正しくなるわけではない。助けられた側が、奪われたことを感謝していた。
ルシアが低く言う。
「事故は避けた。でも明日の靴はない」
向かいの老人が、空の工具帯を叩いた。金槌のない腰が、不自然に軽い。
「返してくれ。仕事にならん」
手を止めた弟子が、削りかけの板の前で立ち尽くす。老人はアデルの腰の金槌を見て、それ以上近づかない。刃こぼれは少なく、柄だけが新しい。最近、握り直した痕だ。
「六日後、あなたは弟子を殴った」
「殴らん」
「昨日もそう言った」
老人の指が、空の帯の金具を一度強く掴んで離す。昨日はまだ殴っていない、と喉まで出かけて、出てこない。会話だけなら老人が正しい。順序だけならアデルも正しい。六日後を八秒先でどう見たのか。俺はそこを受領せず、保留にした。
「今朝の七品は、誰の物です」
アデルは俺を見た。
「あなたは青い玉から聞いた」
「まだ聞いていません」
「聞いた」
「では、質問を変えます。あなたが箱へ入れましたか」
「入れなかった」
嘘を言っているようには見えない。
「糸巻きだけは自分の物だった」
「だった」
「誰かに預けましたか」
「答えなかった」
未来を話しているのか、質問を拒んでいるのか、時制だけでは棚を分けられない。
アデルは旧税倉へ歩く。扉の前には、持ち主の名前を書いた木箱が並んでいた。油壺、金槌、馬具、包丁、子どもの靴。危険そうな物だけではない。薬箱や毛布まである。
「北門臨時救護班の緑の薬箱」
カイル隊長が三列目を指した。箱の角にはリタが描いた四つの不格好な丸。中身は熱冷ましと咳止めだ。昨夜までの運搬紐の擦れが、取っ手に残っている。
「昨夜、運搬兵から回収したな」
「回収した」
「百三人の宿舎で使う」
「使わなかった。六日後、別の場所で三人を救った」
「六日間、北門の子どもはどうする」
「代わりが届いた」
「どこから」
「あなたが探した」
俺はまだ探していない。箱の受取先は、今も北門の百三人だ。六日後の三人は、今夜の熱を下げない。腹が立つほど、敬語がきれいになる。
「承知しました。では、あなたの予言で発生した欠品を、こちらの無償労働で埋める手順について、責任者のお名前から伺います」
「あなたは怒った」
「今です」
アデルの目が、ほんの少し細くなる。ルシアが一歩だけ前へ出た。
「返す。薬箱は今いる百三人に必要」
「あなたは二歩で右を取った」
ルシアは二歩目を左へ変えた。
「左へ変えた」
アデルは先に半歩下がる。緑の薬箱へ手を伸ばしかけて、一度、箱の蓋を指で押さえたまま止める。カイル隊長が出口を塞ごうとする。
「隊長は剣を抜かなかった。中に油壺が二十三個あったから」
隊長の右手が柄の手前で止まった。
俺は腰の鍵束を外し、床へ落とす。音で視線を一度切るつもりだった。
「鍵を落とした」
落ちる前に言われた。
アデルは緑の薬箱を左手へ持ち、右手で黒い札を一枚触る。
「八秒で終わった」
扉が閉まる。追えば油壺の間で戦う。戻れば薬箱を失う。俺たちは、助けた人から物を奪う収集者に、何一つ返させられなかった。
旧税倉を出たところで、ルシアが俺の添え木を見る。
「使わなくて正解」
「慰めですか」
「確認。今使っても、薬箱はアデルの手に届く」
彼女が盗んだ品なら元の持ち主へ返る。だが能力を使うより前に、八秒先を見て箱を手放すか、別の品を盾にされる。
「薬箱を取らなかったのは、腕のため?」
「油壺二十三個のためです」
「半分」
「残り半分は、腕です」
ルシアはうなずいた。以前なら俺の答えを待たずに連れ出した。今は危険を数字へ直し、俺が自分の分を認めるまで待っている。
「見えなかったものが一つあります」
俺は今朝の受領記録を開く。二番のくぼみへ三番目の品。三番のくぼみへ二番目の品。
「箱の中身」
ルシアが言った。
「もっと正確には、箱の向こうで決まった到着順です」
この世界で鍵を落とすことも、二歩目を変えることも、アデルは先に言えた。世界の外から来た一秒だけ、手を出す場所を間違えた。
「明日の朝箱を使う?」
「使われる、かもしれません」
誰かが荷物を選んでいる。俺たちの攻略法も知っている可能性がある。未来が見えない荷物は、味方から届くとは限らない。




