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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第95話:小田原への動員

第95話:小田原への動員


 天正十八年、春。上方の都から東国へと続く東海道の街道筋は、これまでの長い戦乱の歴史の中で誰も目にしたことのない、巨大な軍勢の地鳴りと無数の馬蹄の音に包まれていた。

 関白・豊臣秀吉が発した、天下統一の総仕上げとなる大動員令――「小田原征伐」の巨費と軍勢が、日本全土から怒濤の勢いをもって東へと向けて集結しつつあったのである。


 事の起こりは、関東において百年四代にわたり君臨してきた相模小田原城主・北条氏政、氏直親子が、秀吉の定めた「惣無事令(私戦禁止令)」を平然と無視し、信州の真田氏の領地であった上州名胡桃城を突如として武力で奪取したことにあった。

 秀吉はこの北条氏の挙動を「天下の御法に対する明白なる反逆」と断じ、自ら二十万を超える膨大な全軍を率いて関東へ下り、北条氏をことごとく叩き潰すことを天下に宣言したのだった。


 西国を代表する豊臣政権の最高幹部・毛利家に対しても、関白秀吉から莫大な軍役の動員令が下されていた。

 当主・毛利輝元、小早川隆景、ならびに吉川広家らが率いる毛利陸軍二万余に加え、瀬戸内を網羅する毛利水軍の全戦船が、東海道沿岸の海路を押さえるべく出撃を命じられたのである。


 毛利家の最高外交僧であり、豊臣政権の取次を務める安国寺恵瓊は、この前代未聞の東国遠征において、毛利軍の兵糧調達、軍船の手配、ならびに上方政庁との連絡差配のすべてを一身に背負って不眠不休で東奔西走していた。


 さきに関白秀吉から伊予国内に与えられた自領から大量の米を出し、毛利の治める西国諸港から数百艘の兵糧船をかき集め、東海道の要所要所に糧食の集積所を設置していく――。

 その差配は過酷を極め、恵瓊の手にする帳面は、毎日のように莫大な米と金の計算で埋め尽くされていたのだった。


 天正十八年三月、恵瓊は毛利水軍の警固船に乗り込み、瀬戸内から伊豆・駿河の海へと船を進めていた。

 駿河湾の波を蹴立てて進む船上から、恵瓊は富士の白雪を仰ぎ見つつ、東海道の沿岸沿いに目をやった。


 街道沿いには、西国や上方から無理やり駆り出された数万に及ぶ「陣夫(じんぷ・人夫)」や「水手(かこ・船乗り)」たちの長蛇の列が、どこまでも果てしなく続いていたのである。


 秀吉の行う「小田原征伐」は、単に武士たちが刀や槍を振るう合戦ではなかった。

 全国の大名領から何万人という単位で強制的にかき集められた名もなき農民や職人たちが、重い米俵や弾薬、大筒、さらには城攻めのための大量の建築資材を背負わされ、泥まみれとなって箱根の山坂へ向かって荷を担ぎ上げさせられていたのである。


 春雨の降りつけるぬかるんだ街道筋には、連日の長途の行軍と過酷な重労働、そして粗末な兵糧のために体力を奪われ、病や過労によって路傍に倒れ伏す人夫たちの生々しい悲鳴と呻き声が満ち溢れていたのだった。


 恵瓊が駿河国・三島宿の近くにある毛利軍の兵糧集積所に立ち寄った折、街道の脇の竹林において、激しい怒号と鞭の打擲音が響き渡っていたのだった。


「動け! 役立たずめが! 関白様の兵糧米を遅らせる気か!」

 豊臣方の小吏(税吏役人)が、血走った目で竹の鞭を振り下ろし、泥の中に倒れ込んでいる数名の若い人夫たちを容赦なく叩きつけていたのだった。


 倒れていたのは、安芸や備後の村々から無理やり陣夫として駆り出されてきた、農民の若者たちであった。

 若者たちの脚は血と泥で黒く腫れ上がり、過酷な長雨による熱病のために高熱を発し、もはや身体を起こすことすら叶わぬ状態に陥っていたのである。


「役人様……お許しくだされ……。もう三日も飯を食っておらず、足が動きませぬ……」

「黙れ! 荷を担げぬ者は、関白様の御事業の足引っ張りなり! 動けぬというなら、この場で切り捨てて足手まといを減らしてくれる!」


 役人が不快そうに太刀の柄へ手をかけ、刀を抜こうとしたまさにその瞬間であった。


「控えられよッ!」


 重々しい大喝とともに、恵瓊が足音を殺して竹林の中から進み出てきたのである。


 恵瓊は関白秀吉から賜った金紋の紫の袈裟を身に纏い、冷ややかな眼差しで役人を射抜いたのだった。


 小吏は突如現れた恵瓊の圧倒的な威厳と袈裟の金紋を目にし、慌てて太刀から手を離して平伏した。

「あ、安国寺様……! なぜこのような街道の端におられますか……!」


 恵瓊は役人の前に立ち、冷ややかに言い放ったのだった。

「役人殿。その鞭をおさめられよ。この者たちは我が毛利の領国から借り受けた大切な民にございます」


「さ、されど安国寺様! この者どもは高熱を発して動けなくなり、関白様の兵糧の輸送を遅らせている不忠者にございます! 奉行所のお取り決めでは、動けぬ人夫は捨て置き、あるいは処罰せよと――」


「言いがかりを吐くのではない!」

 恵瓊は声を潜めながらも、腹の底から響くような重みをもって役人を叱責したのだった。


「長途の行軍により病を発したのは、天候と過労のゆえ。この者たちをここで惨殺し、行き倒れとして捨て置けば、腐乱した屍から陣中に激しい赤腹や熱病が広がり、かえって小田原へ向かう全軍の兵力を損なうことになろう! それこそが、関白様の御事業を妨げる最大のお手落ちではないか!」


 恵瓊は懐から大量の永楽銭が入った革袋を取り出し、役人の手の中に力ずくで握らせたのだった。


「この者たちの身柄と養生は、我が安国寺が引き取る。近くの寺の薬師堂へ運び、手当てを行わせて回復させるゆえ、お主は別の健壮な人夫を手配して荷を運ばせよ。……これで文句はあるまい」


 関白側近たる恵瓊の圧倒的な威光と、目の前に差し出された金銭の前に、役人は「は、ははっ! 安国寺様がお引き取りくださるならば異存はございませぬ!」と平伏し、逃げるように立ち去っていったのだった。


 恵瓊は泥の中に膝をつき、倒れていた若者たちをそっと抱き起こしたのだった。

 若い修行僧の智念が急ぎ駆けつけ、用意していた温かい白湯と湯当の薬草を若者たちの口に含ませた。


 助け出された若者たちは、泣きじゃくりながら恵瓊の法衣の袖を泥だらけの手で強く握りしめたのだった。

「あ、安国寺様……! ありがとうございます……! わしらはもう、ここで殺されて死ぬものと思っておりました……!」


 恵瓊は若者の手を包み込み、優しく頭を撫でたのだった。

「安心せよ。お主たちは命を捨てるためにここへ来たのではない。手当てを受け、傷が癒えたのちは、安芸の本国へ送り返してやるゆえ、生きて故郷の土を踏むのだぞ」


 恵瓊は自らの持つ所領の財と手形を使い、倒れた人夫たち数十名を近くの寺へ匿い、命を救い出す手はずを完全に整えたのである。


 さきに大坂の街で権力の持つ甘さと怖さを知った恵瓊であったが、いまや己の持つ権威と立場を、何のため、誰のために使うべきか、その迷いは完全に消え去っていた。

 権力とは、自らの傲慢を満たすためのものではなく、このように足元で消えかかっている生身の民の命をすくい取るための盾として使ってこそ、真の価値を持つのだ。


 命を救われた人夫たちの泣き顔を見送りながら、恵瓊は静かに胸を撫でおろしたのだった。


 天正十八年、四月。

 豊臣秀吉率いる二十万を超える空前の大軍は、箱根の険しい峠道を越え、ついに相模国・小田原城の周囲へと雪崩れ込んだのである。


 小田原城は、周囲に何里にもわたる巨大な「総構え(大土塁)」を張り巡らせ、北条氏政・氏直親子のもとで数万の兵が籠城する、日本屈指の不落の超巨城であった。


 されど、その小田原城を取り囲んだ豊臣軍の陣立は、まさに人智を超えた圧倒的な物量と威容であった。


 東海道の陸路からは、関白秀吉の本軍をはじめ、徳川家康、前田利家、上杉景勝、宇喜多秀家、そして毛利輝元らの陣幕が、小田原城を取り囲む山々をびっしりと埋め尽くしていたのだった。

 さらに、相模湾の海面上には、毛利水軍や九鬼嘉隆らの率いる数千艘の戦船が浮き、小田原城を海と陸の双方向から完璧に密閉していたのである。


 秀吉は、この小田原城 に対しても、力攻めで自軍の兵を減らすような真似は一切しなかった。

 全国から莫大な兵糧米と物資を海路で運び込ませ、城の目前に一夜にして巨大な「石垣山一夜城」を築き上げ、連日のように能や茶の湯の会を催して、北条方の戦意を内側から完全に粉砕する「圧倒的な見せつけの包囲戦」を開始したのだった。


 石垣山の一夜城の櫓に立ち、眼下に広がる小田原城と、それを埋め尽くす二十万の豊臣軍の陣旗を見下ろしていた恵瓊の胸中には、言葉にならぬ恐ろしさが満ち満ちていた。


 この小田原の陣によって、日本国中から秀吉に平伏せぬ大名は完全にいなくなる。

 応仁の乱以来、百数十年間にわたって繰り広げられてきた惨絶なる戦国乱世が、いま、この小田原の地において完全に終わりを告げようとしているのだ。


 泰平の世が来る――。

 されど、その天下統一という巨大な栄華の陰で、どれほどの無数の民や人夫たちが、泥にまみれて命を落とし、血と汗を流してきたことか。

 秀吉の創り出す新しき天下は、誠に眩しく、巨大であった。

 されど、その光が強ければ強いほど、足元に追いやられた者たちの悲鳴もまた、深く、暗く広がっているのだ。


「……さあ、参ろうか」


 恵瓊は静かに呟くと、網代笠の端を軽く持ち上げ、自らの足元を見つめた。


 手にした帳面には、さきに救い出した人夫たちの名と、明日運ぶべき兵糧の数が、墨黒々と記されている。

 天下統一という巨大な光の足元で、泥にまみれて生きる人々の息遣いを、この手でひとつずつ繋ぎ止めていく――。


 小田原の海から吹き上げる初夏の風を受けながら、外交僧・安国寺恵瓊は、眼下に広がる二十万の陣立の中へと、静かに、しかし確かな足取りで坂を下りていくのであった。

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