↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
85/100

第85話:毛利家中の熱病

第85話:毛利家中の熱病


 天正十四年、春。新緑の山々が若葉の鮮やかな緑に包まれる安芸国吉田郡山城の下には、一見すると穏やかな春の陽光が注ぎ込んでいた。

 羽柴秀吉が関白となり、豊臣の姓を賜って天下の政務を完全に握りしめてより、上方から西国に至る街道は、かつてない平穏と流通の賑わいを見せていたのである。


 されど、その平穏な佇まいの裏側で、毛利家臣団の内側には、ふたたび不気味で凄惨な熱病が萌芽し、激しいどす黒い怨嗟となって家中を蝕み始めていた。


 原因は、豊臣政権から毛利家へ向けて打診されつつあった、次なる大規模な外征――九州の島津氏を討伐するための「九州平定」への大動員であった。

 当主・毛利輝元や小早川隆景ら首脳陣は、関白秀吉への完全なる恭順を誓い、西国の筆頭大名として自ら先陣を切って九州へ出兵する構えを整えていた。


 しかし、山陰を統べる吉川元春の傘下に属する過激な強硬派武士や、かつて備中や山陰の最前線で戦ってきた古参の国衆たちの胸中には、抑えきれぬ不満と怒りが激しく燃え盛っていたのである。


「成り上がりの秀吉の家臣のごとく顎で使われ、今度は九州の死地へ駆り出されるというのか!」

「備中高松城で清水宗治殿を見殺しにし、鳥取城で吉川経家殿を腹切りに追いやったあの屈辱を忘れたか! 秀吉にへつらい、毛利の誇りを捨てて従うなど、武門の恥辱なり!」


 彼らにとって、秀吉は未だに「かつての敵」であり、味方の忠臣たちを死に追いやった憎むべき相手であった。

 秀吉の圧倒的な威光の前に表立って謀反を起こす勇気はなくとも、城下や陣屋で夜な夜な集まっては酒を煽り、恭順を推し進める小早川隆景や輝元側近の穏健派家臣たちを「腰抜け」「豊臣の犬」と罵り、いつ刀を抜きかねない殺気を漂わせていたのである。


 一方、小早川方の重臣や実務を担う穏健派の武士たちも、そうした強硬派の態度に不快感を露わにしていた。

「秀吉様はいまや天下の関白であられるのだぞ! 昔日の恩怨に縛られて暴言を吐けば、毛利家全体が逆賊と見なされて取り潰されるのだ!」

「家を残すための輝元様のご苦心を理解できぬ者どもこそ、毛利を滅ぼす毒虫なり!」


 山陰の吉川派と山陽の小早川派――。

 さきの和睦の折に一度は静まったはずの両派の対立が、豊臣政権による軍役の重圧と、過去の惨劇の記憶によって、再び血で血を洗う内紛の寸前へと激化していたのである。


 この毛利家中の重苦しい亀裂の報せを聞き、安国寺恵瓊が安芸の本国へと戻ってきた。


 いまや恵瓊の身の上は、かつての山寺の一出家者ではなかった。

 四国征伐の功により関白秀吉から伊予国内に二万三千石の領地を与えられ、政権中枢の取次として諸国の大名たちからひれ伏される「天下の外交僧」として、その威名は輝いていた。


 さきに大坂の奉行陣屋において、三成の配下である冷徹な上方奉行に対し、関白の朱印状と自らの圧倒的な権威をもって一言「処分を止めよ」と言い放ち、小早川家の若い武者の命を一瞬にして救い出した成功体験。

 その甘く痺れるような「権力の味」が、恵瓊の胸の底に強い全能感を刻み込んでいたのである。


 (いまの私には、天下人・秀吉殿の威光と、毛利を救ってきた絶対の言葉がある。……毛利家中の揉め事など、私が一言説いて聞かせれば、容易く収まるはずだ)


 恵瓊の胸の中に芽生えていたのは、危険極まりない過信と傲慢であった。

 かつて泥にまみれ、人々の生身の苦悩に耳を傾けて言葉を選んでいた頃の慎み深さは薄れ、自らの持つ「権力と威厳」があれば、人間の複雑な恩怨すらもねじ伏せることができるという錯覚に囚われていたのである。


 天正十四年、四月半ば。恵瓊は吉田郡山城の近くにある安国寺の塔頭において、吉川派の強硬派の頭目格たる老将たちと、小早川派の穏健派の重臣たちをあえて一堂に集め、自ら調停の座を設けた。


 集まった武士たちの顔は一様に硬く、双方とも腰の太刀の柄に手をかけたまま、互いを射殺すような鋭い視線で睨み合っていた。

 室内に漂うのは、いまにも火を噴きそうな、重苦しい不快な殺気であった。


 恵瓊は上座に座し、関白秀吉から賜った紫の豪華な袈裟を正すと、朗々とした声音で口を開いた。


「皆々様。本日、私がこの座を設けましたのは、毛利の家臣団がひとつとなり、近く行われる九州征伐へ向けて一丸となってお仕えするためでございます。昔日の恩怨や私情に囚われ、身内で刀を抜くごとき不毛な対立は、直ちに止められよ」


 恵瓊は、自らの言葉が二人に即座に響くものと信じて疑わなかった。

されど、強硬派の老将・神吉十郎兵衛(さきに三木城で散った神吉藤太夫の同族にあたる武者)が、血走った目で恵瓊を睨みつけ、太刀の鞘当てを鳴らして叫んだ。


「安国寺殿! 貴殿は上方で関白様に重用され、大名並みの領地をもらって上機嫌かもしれんが、我ら現場の武士の血を吐くような悔しさが分かるか! 清水宗治殿の首を差し出し、高松城の屈辱を忍んだのは、毛利の家を守るためであったはず! なのに、なぜいま秀吉の奴隷のごとく九州の死地へ駆り出されねばならんのだ! 答えてみよ!」


十郎兵衛の叫びに、強硬派の若武者たちが一斉に拳を握りしめて同調した。

彼らの胸の中にあったのは、単なる理屈ではなく、親兄弟や仲間を失ってきた凄惨な合戦の記憶と、武士としての崩れゆく自尊心の悲鳴であった。


恵瓊は言葉を重ね、理路整然と説得を試みた。

「神吉殿、お気持ちは分かりまする。されど、秀吉殿はいまや天下の関白にあらせられる。関白様の命に従って九州を平定すれば、毛利は天下の筆頭大名として揺るぎない立場を確立できるのです。過去の死に囚われ、未来を棒に振るは、愚気の極みにございますぞ」


「なにが愚気だ!」

十郎兵衛は畳を叩いて躍り上がった。

「理屈など聞きたくもない! 我らは毛利の武士だ! 関白の金や官位で買い叩かれて平然としておれるか!」


説得はまったく通じなかった。

恵瓊がいくら「大局の理」や「政権の構造」を説こうとも、彼らの胸の奥深くにある「血の記憶」と「武士の誇り」は、言葉の表面を滑り落ちていくばかりであった。


長年にわたる合戦の傷痕、死んでいった仲間への情念、そして秀吉に対する不信感――。

生身の人間が抱える複雑な恩怨の重みは、恵瓊の想像を遥かに超えて根深く、冷酷であった。


何度も言葉を弾き返される中で、恵瓊の胸の中に、激しい焦りと苛立ちが込み上げてきた。


(なぜ分からぬのだ……! 私がこれほど毛利の生き残りのための正論を説いているというのに、なぜこの武骨者どもは理解しようとせぬ……!)


己の言葉で人が動かないという現実に直面した恵瓊は、ついにやってはならぬ暴挙へと踏み出してしまったのである。

言葉による説得を諦めた恵瓊は、自らの持つ「権力と威圧」をもって、彼らを力ずくで叩き潰そうとしたのだった。


恵瓊は上座から立ち上がり、冷ややかな眼差しで強硬派の武者たちを見下ろすと、腹の底から響くような高圧的な大声で言い放った。


「静まり召されよッ!」


広間に、凍りつくような大喝が響き渡った。

恵瓊は懐から関白秀吉の朱印状を取り出し、武者たちの目の前へ力ずくで突きつけた。


「不不服を口にする者は、この安国寺恵瓊が容赦いたさぬ! よいか、我が申す言葉は、関白秀吉様の御意向と同等と心得よ! もしこれ以上、九州出兵に難色を示し、家中を乱すような不穏な振る舞いを見せる者がおれば、私が直ちに大坂城へ上り、関白様へ直接申し伝えるぞ! 『吉川方の武者が関白様に反旗を翻そうとしている』とな! さすれば、お主たちの家は即座に取り潰され、一族郎党ことごとく処刑されることになろう! それでもよいのか!」


恵瓊の繰り出したのは、完璧な「秀吉の権威を笠に着た恐喝」であった。

さきに奉行を屈服させた時と同じく、自らの持つ膨大な権力を誇示し、相手を「家取り潰し」の恐怖によって強引に黙らせようとしたのである。


されど――武士たちの反応は、恵瓊の予想とは真逆に跳ね返ってきた。


権力によって恐怖を突きつけられた強硬派の武者たちの顔は、恐れで青ざめるどころか、屈辱と激怒によって真っ赤に沸き立ったのだった。


「おのれ……破戒僧めがぁぁぁッ!」


神吉十郎兵衛が怒髪天を衝く気迫で太刀を半ば抜き放ち、恵瓊に向かって跳びかからんばかりに吠え狂った。


「言わせておけばどこまでも増長しおって! 貴様はいつから毛利の外交僧ではなく、関白秀吉の靴の裏を舐める忠犬となったのだ! 関白の権勢を傘に着て、先祖代々の毛利の家臣を脅しつけるとは、何という傲慢! 何という下劣! 貴様のような上方にかぶれた腐れ坊主の言うことなど、死んでも聞けるかッ!」


「そうだ! 恵瓊を斬れ!」

「秀吉の手先め! 毛利の面目を汚すな!」


強硬派の若い武者たちが一斉に抜刀し、広間は一瞬にして殺気立った修羅場と化した。

穏健派の家臣たちも太刀を抜き、両派が室内で刀を交えかねない、完全なる暴発の危機が弾けたのだった。


恵瓊は目の前に突きつけられた白刃の冷光を目にし、全身の血が凍りつくのを感じた。

己の振るった「権力」が、人を従わせるどころか、相手の激しい憎悪と反発を煽り立て、毛利家臣団を完全な内紛の血の海へと引きずり込もうとしていたのである。


「そこまでだッ! 太刀を収めよ!」


その絶対絶命の現場へ、奥の襖を破るようにして躍り込んできたのは、小早川隆景であった。

隆景は威厳に満ちた大喝をもって両派の間に割り込み、命がけで武者たちの太刀を抑え込んだ。


当主・毛利輝元も駆けつけ、当主としての厳命をもって強硬派の武士たちを下がらせたことで、間一髪のところで刃傷沙汰と内紛の暴発は免れたのだった。


されど――調停は完全なる失敗に終わったのである。


両派の溝は埋まるどころか、恵瓊の高圧的な態度によって激しい不信感が強硬派の中に決定的に刻み込まれ、毛利家中には冷ややかな断絶が残されたのだった。


夜更け、安国寺の自室に戻った恵瓊は、行灯の消え入りそうな光の下で、ひとり畳に突伏していた。


膝がガクガクと激しく震え、顔からは冷や汗がとめどなく溢れ落ちていた。

手には、さきほど武士たちに突きつけた関白の朱印状が握られていた。


「私は……私は、何をやっておったのだ……」


恵瓊の唇から、血を吐くような情けない自嘲が漏れ出た。


さきに乃美景継を救った時に味わった、あの「権力の味」。

一言で人が動き、世が動くという全能感に酔いしれ、自分はいつの間にか、黒田官兵衛や石田三成と同じように、権力と恐怖をもって人をコントロールできると思い上がっていたのだ。


されど、現実はどうであったか。

権力という毒を笠に着て振るった言葉は、泥の中に生きる生身の人間たちの誇りや感情を激しく傷つけ、ただの反発と憎悪しか生み出さなかったのである。


自分は、清水宗治の死から何を学んでいたのだ。

人間は、金や権力だけで動く機械ではない。

血の通った感情と、誇りを持った生身の存在なのだ。

秀吉の虎の威を借りて自らの同胞を脅しつけようとした己の姿は、いかに浅はかで、いかに醜いものであったか。


強烈な自己嫌悪と恥辱が、恵瓊の胸を激しく押し潰した。


「権力など……人の心を救う力などではなかったのだ……」


恵瓊は涙を流し、朱印状を床へ投げ捨てた。


権力の味という甘い毒に酔いしれ、己の過信によって大失敗を犯した一人の外交僧は、暗闇の部屋の中で、自らの持つ「力」の虚しさと限界を、血の出るような思いで骨身に刻み込んでいた。


窓の外では、安芸の冷たい夜風が、旅立つ春の終わりを告げるように、虚しく吹き荒れ続けていたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。