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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第72話:山崎の戦い

第72話:山崎の戦い


 天正十年、六月中旬。備中高松城の足守川周辺から水が引き、毛利四万の全軍が安芸・備後への引き揚げを終えつつあった頃、山陽道を東から西へと昼夜兼行で駆け抜けてきた飛脚が、備後三原城の門前に滑り込んできた。

 飛脚の履いていた草鞋は擦り切れ、吐く息は荒く、その手には上方の動乱の決着を告げる濡れた書状が握られていた。


 書状がもたらしたのは、京都と大坂の境目において繰り広げられた、天下の帰趨を決定づける大決戦の報せであった。


 天正十年六月十三日。

 備中から神速の「中国大返し」を完遂し、摂津の津ノ国衆や織田信孝(信長の三男)らの軍勢を飲み込んで四万近くにまで膨れ上がった羽柴秀吉の軍勢が、山城国山崎(現在の京都府大山崎町)、天王山の麓において、明智光秀率いる一万六千の軍勢と激しく激突したのである。


 合戦は、わずか数時間の打撃戦であった。

 勝竜寺城の前に陣を敷いた明智軍に対し、秀吉軍は天王山の高台を先回りして確保し、川並のぬかるみに足を取られた明智軍の側面へ、圧倒的な物量と鉄砲隊をもって一攻めに襲いかかった。

 前線の崩壊を知るや、明智軍の雑兵たちは一斉に潰走し、明智光秀はわずかな近習とともに坂本城を目指して夜陰に紛れて脱出したのだった。


 されど、光秀の運命もまた呆気ないものであった。

 小栗栖の竹林を通りかかった折、落ち武者狩りの土民の手にかかり、竹槍で腰を突かれて深手を負った光秀は、自ら首を刺して果てたのである。

 本能寺の変からわずか十日余り。天下を奪ったつもりの明智光秀の天下は、「三日天下」の儚い幻影として潰え去ったのだった。


 三原城の書院でその報せを聞いた小早川隆景は、静かに目を閉じ、長く重い息を吐き出した。

「……真に、羽柴秀吉という男の神速さには恐れ入る。備中を去ってからわずか数日のうちに、明智光秀を叩き潰して信長公の仇討ちを完遂してみせるとはな」


 傍らに座していた吉川元春も、太い腕を組んだまま、不気味な静寂を保っていた。

かつて「騙された! 追撃せよ!」と激怒していた元春であったが、いまや秀吉の圧倒的な勝ちっぷりと速さを目の当たりにし、武者としての冷や汗を流していた。

もし備中の地で毛利軍が和睦を破棄して秀吉の背後を追っていれば、この神速の化物の返り討ちに遭い、明智光秀と同じく木の葉のごとく踏みつぶされていたことは疑いようがなかったからである。


隆景は感極まった面持ちで、末席に控える安国寺恵瓊へ視線を向けた。

「安国寺殿、其方と輝元様のおかげで、毛利の家は救われたぞ。我が軍が和睦の誓紙を守り、秀吉の退き口を静観したことが、いまや毛利にとって最大の利となったのだ。信長の仇を討ち果たした秀吉は、我が毛利に対し『背後を脅かさずに行軍させてくれた』という、生涯消えぬ巨大な借りを作ったのだからな」


恵瓊は静かに畳に手をつき、頭を垂れた。

「過分なお言葉にございます、小早川様。すべては当主・輝元様の『和睦を守る』という苦渋のご決断の賜物にございます」


恵瓊の声は平静を保っていたが、その胸の内では、前世の記憶に刻まれていた年表の通りに歴史が収束していくことへの、冷たい戦慄が走っていた。

信長の死、中国大返し、山崎の合戦での光秀の敗死――。

どれほど巨大な動乱であっても、歴史の大きな流れは、一寸の狂いもなく秀吉という新たな覇者の誕生へ向けて突き進んでいたのである。


山崎の合戦の勝利により、京、大坂、そして近江を中心とする上方の政治情勢は、目まぐるしい速さで塗り替えられ始めていた。


織田信長という絶対的な首領を失った織田家臣団――柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、さらには織田信雄、信孝といった子息たちは、主導権を巡って激しい動揺と牽制を繰り広げていた。

されど、信長の仇を直接討ち果たし、京の都を制圧した羽柴秀吉の威光は、他のどの重臣をも圧倒していた。

上方の商人や公家、諸大名たちは、こぞって秀吉のもとへ祝いの使者を送り、天下の主導権が秀吉の手へ渡りつつあることを肌で感じ取っていたのである。


安芸の吉田郡山城へ戻った恵瓊のもとには、上方での激変に伴う生々しい混乱の噂が相次いで届いていた。


合戦の直後というものは、勝者と敗者が入れ替わり、法と秩序が一時的に失われる最も危険な時期である。

勝利に乗じた羽柴軍の雑兵たちが京や山崎の周辺で乱取り(略奪)を働き、明智方に一時期でも協力したと疑われた商人や寺社が、片端から財産を没収され、捕縛されているというのだった。


その報せを聞いた恵瓊の脳裏に、かつて京都東福寺で学僧として過ごしていた頃に出会った、一人の老薬種商の顔が浮かび上がった。

京の室町筋で店を構え、安国寺へも上質の香や薬草を納めてくれていた、実直な商人・京屋惣兵衛であった。

聞けば、惣兵衛の店は明智光秀の軍勢に一時的に陣糧を供出したとの言いがかりをつけられ、秀吉方の奉行衆によって店を差し押さえられ、惣兵衛自身も連座の罪で処刑されそうになっているという。


「大名たちの天下取りの影で、またしても名もなき民が踏みにじられようとしている……」

恵瓊は胸を痛め、即座に行動を起こした。


恵瓊は、さきの備中高松城での和睦交渉の際、羽柴秀吉および黒田官兵衛から直接与えられていた「毛利外交僧・安国寺恵瓊」の直筆の手形と、自らの花押を捺した一通の緊急の添え状をしたためた。

そして、手慣れた毛利の忍びを密かに呼び寄せると、上方へ向けて疾風のごとく走らせたのである。


書状の宛て先は、秀吉の側近として京の市中取締りを任されていた黒田官兵衛であった。

恵瓊は書状の中で、外交僧としての威厳と、かつて備中で見せた知謀の影を匂わせながら、静かに訴えかけた。


『京の商人・京屋惣兵衛は、古くより毛利家および安国寺との間に深いゆかりのある者にて、決して明智に与した不義の者に非ず。新しき上方の覇者となられた羽柴秀吉殿が、天下の静謐を天下に示される折、無体な言いがかりにて実直な商人を殺し、財を奪うようなことがあれば、京の町衆の心は離れましょう。どうか惣兵衛の罪を許し、店と身財を保たせ給え。毛利と羽柴の和睦の誼に免じて、これをお願い申し上げる』


官兵衛は恵瓊からの書状を受け取ると、一読して静かに苦笑したという。

「毛利の安国寺め、相変わらず遠く京の市井にまで目を配っておるわ。秀吉様の天下の初めに、無用な評判を落とすのは得策ではないな」

官兵衛の差配により、京屋惣兵衛への言いがかりは即座に取り下げられ、店と財産、そして惣兵衛一家の命は無事に救い出されたのだった。


数日後、安芸の安国寺へ、惣兵衛からの血の滲むような感謝の手紙と、上質の薬草が届けられた。

『安国寺様の御加護により、我が一族の命と店が救われました。この御恩、末代まで忘れません』

恵瓊は届いた薬草を静かに撫で下ろし、胸の奥で温かな安堵をかみしめた。


大名同士の巨大な戦争を止めることはできなくとも、自らの持つ外交の権威と繋がりを使えば、こうして遠く離れた京の街で消えかかっていた一つの家族の命をすくい上げることができるのだ。

前世の知識に縋るのではない。いま己が立つ外交僧という立場と信頼を、人の命を救うために使うこと――それこそが、恵瓊の選んだ生身の抗いであった。


天正十年、六月下旬。

織田家の後継者と遺領の分配を決定するための「清洲会議」が尾張国清洲城で開かれ、羽柴秀吉が織田家中の主導権を完全に掌握したという報せが、安芸の吉田郡山城へ届いた。


信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立し、筆頭家老の柴田勝家を政治的に完全に抑え込んだ秀吉は、もはや一介の織田家臣ではなく、名実ともに天下の主導権を握る覇者へと登りつめたのである。


吉田郡山城の奥書院において、毛利輝元、小早川隆景、そして恵瓊の三人が集まり、今後の豊臣(羽柴)政権との向き合い方について密かな談合が行われていた。


輝元は窓の外に広がる安芸の夏山を見つめ、静かに口を開いた。

「……時代は、完全に羽柴秀吉を中心に動き始めたな」

隆景も深く頷いた。

「さようにございます。秀吉は織田家の実権を握り、遠からず関白あるいは天下人として君臨いたしましょう。我が毛利がこの激動の中で生き残るには、秀吉との間に築いた『盟友』としての絆をさらに深め、上方の政権の中枢へ深く踏み込んでいくより他に道はございませぬ」


隆景は眼差しを恵瓊へ向け、力強い声で言った。

「安国寺殿。これより毛利の外交は、上方と秀吉の懐へと直接乗り込むこととなる。秀吉の化け物めいた野望と、その陰に潜む冷徹な理を見極められるのは、其方のその『眼』をおいて他にないのだ。毛利の未来を、引き続き其方に託す」


恵瓊は深く両手を畳につき、平伏した。

「ははっ。毛利の家をお守りし、乱世の戦火から一つでも多くの命を救うため、この安国寺恵瓊、命を賭して上方の外交へ臨んでご覧に入れます」


城を出ると、夏の眩しい太陽が、安芸の山々を深い緑に照らし出していた。

風が吹き抜け、恵瓊の法衣の袖を強く揺らした。


備中高松城での地獄を越え、時代は「羽柴秀吉の天下」という未知の巨大な領域へと踏み出そうとしていた。

秀吉の持つ圧倒的な金と熱気、そしてその傍らにいたあの若い石田三成の冷徹な理――。

これから待ち受けるであろう、さらに苛烈で、権謀術数が渦巻く上方の舞台へ向けて、外交僧・安国寺恵瓊は、静かに己の胸の中に不退転の覚悟を燃え上がらせていくのだった。

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