第58話:足守川の変貌
第58話:足守川の変貌
天正十年、五月。備中国の空は、ねっとりとした生温かい湿気を含んだ鉛色の雲にすっぽりと覆い尽くされていた。
足守川の川面は、連日の浅い雨を受けてどんよりと濁り、両岸に生い茂る葦の葉を重々しく揺らしながら、低湿地帯をぬうように南の瀬戸内へと流れていた。
毛利四万の大軍と、羽柴秀吉率いる織田軍二万余が川を挟んで睨み合う緊張感の中で、突如として対岸の羽柴陣営から、異様極まりない大音響が鳴り響き始めたのである。
それは、合戦の陣太鼓や鉄砲の破裂音ではなかった。
数万の人々が放つ野太い掛け声と、大木を切り倒す巨木の打撃音、そして地を掘り起こす鍬や鋤の乾いた打擲音であった。
高台にある毛利本陣の陣幕から眼下を見下ろした恵瓊の目に飛び込んできたのは、戦国の常識を根底から覆す、途方もない規模の土木工事の光景であった。
秀吉は、備中高松城の南側、足守川の下流にあたる築貫から蛙ヶ鼻に至る広大な低湿地帯に向けて、無数の人足と兵たちを投入していた。
その長さ、実に三里(約三・四キロメートル)。高さ四丈(約七、八メートル)、底幅十二間にも及ぶ、巨大な堤防(築堤)を横一文字に築き上げようとしていたのである。
秀吉の動かし方は狂気じみていた。
莫大な財力を惜しみなく投入し、「土嚢一袋を運んだ者には米一升と銭百文を与える」と触れを出したため、近隣の農民や商人、果ては他国からの行き倒れ同然の民に至るまで数十万の人間が群がり、目を血走らせて土嚢を運び、くいを打ち込んでいた。
夜も休むことなく無数の篝火が焚かれ、黒煙と土塵が立ち上る中で、巨大な土の壁が目に見える速さで足守川の沿岸を塞ぎ始めていたのだった。
「何だ、あれは……。羽柴の小童め、一体何を企んでおるのだ」
毛利本陣の広間で開かれた緊急軍議において、吉川元春は眉をひそめ、不快感を露わにして眼下の工事を見下ろしていた。
元春の傍らでは、当主・毛利輝元が重々しい表情で沈黙を守り、小早川隆景が腕を組んで鋭い目を細めていた。
元春は床几を軽く蹴り飛ばすと、鼻で笑うように吐き捨てた。
「ハッタリだ。あのような土いじりで城が落ちるはずがない。敵は我らを挑発し、焦らせてこの高台から引きずり下ろし、沼地で叩こうとしておるのだ。乗せられて動く必要など微塵もない。高松城の宗治が持ちこたえている間に、我らはじっくりと備えを固めればよい」
武勇を誇る元春にとって、合戦とは槍を交え、馬を駆けさせて勝敗を決するものという揺るぎない信念があった。
川の流れを人間が遮り、土を盛って城を攻めるなどという芸当は、戦の作法を無視した子供の戯れ言に過ぎないと映っていたのである。
一方、小早川隆景の表情には、深い警戒の色が漂っていた。
「兄上、油断は禁物にございます。羽柴秀吉という男は、無駄な銭や労力を投じる男ではございませぬ。あの大規模な普請には、必ずや何らかの意図が隠されておりまする」
「されど隆景、川の流れを人為的に止め、この広大な平野を水没させるなどという真似が、誠に人間にできると思うか」
「……確かに、前代未聞の所業。にわかには信じがたいが」
智将と謳われた隆景であっても、自然の摂理そのものを力づくで捻じ曲げる秀吉の発想の異次元さには、即座に結論を出すことができずにいた。
将武たちの持つ「武士としての常識」が、秀吉の繰り出す未知の暴力の構造を正確に捉えることを拒んでいたのである。
そのやり取りを末席で聞いていた恵瓊の全身に、激しい寒気が走り抜けた。
かつて火鉢で焼き捨てたはずの前世の記憶の断片と、目の前にそびえ立つ土の壁が、完全に合致したからである。
「水攻め……! 秀吉は、足守川の水をわざと堰き止め、高松城を丸ごと水底に沈める算段なのだ……!」
恵瓊の胸の中で、焦燥と恐怖が狂ったように渦巻き始めた。
このまま毛利本国が「ハッタリだ」「様子を見よう」と傍観を続ければ、数日のうちに堤防は完成し、取り返しのつかない破滅が訪れてしまう。
あの高潔な清水宗治が、逃げ場のない泥水の中で孤立し、殺されてしまうのだ。
恵瓊は意を決し、座から踊り出ると、輝元や両川の前へ平伏した。
その身を震わせながら、命がけの大声を上げた。
「輝元様! 小早川様、吉川様! お聞きくだされ! あれは決してハッタリなどではございませぬ!」
広間の重臣たちの視線が、一斉に恵瓊へ注がれた。元春が怪訝そうに目を細める。
「安国寺、何をうろたえておるのだ」
「吉川様! 羽柴秀吉の狙いは明白にございます! あれは足守川の豊富な水量をわざと堰き止め、この足守の低湿地全体を人工の巨大な湖へと変貌させる『水攻め』の普請にございます!」
恵瓊は畳に両手をこすりつけ、血を吐くような勢いで言葉を畳み掛けた。
「高松城は周囲を深い泥沼に囲まれた低地に位置しておりまする! もしあの堤防が完成し、川の水が塞がれれば、溢れ出た水はすべて高松城へと流れ込み、城は文字通り水底へと沈みまする! 一粒の兵糧も、一さしの水すら届かぬ完全なる水上の孤島となり、清水殿以下数千の城兵は戦うことすらできずに全滅いたしまする!」
広間にどよめきが広がった。しかし、元春は即座に一蹴した。
「戯言を申すな、安国寺! 天から降る雨や川の流れを、人間が意のままに操れるわけがなかろう! たとえ土を盛ったとて、水は別の場所へ逃げるだけだ! 坊主の分せいで、知ったような妄言を吐いて兵を惑わすな!」
「妄言ではございませぬ!」
恵瓊は顔を上げ、元春の殺気立った目を真っ直ぐに見据え返した。
「秀吉という男は、人間の欲と銭をもって川の流れすら変えてしまう化物にございます! 鳥取城で米を買い占めて民を貪り喰らわせたあの男が、この足守川で何をしようとしているか、お分かりにならぬのですか! 今すぐ全軍をもって高台を下り、あの築かれつつある堤防を強行突破して粉砕破壊せねばなりませぬ! さもなくば、清水宗治殿の命も、毛利の未来も、すべて水底へ消え去りまする!」
恵瓊の言葉は、自らの命を賭けた極限の進言であった。
しかし、その切実すぎる訴えは、あまりにも常識を逸脱していたがゆえに、かえって武将たちの反発を買うこととなった。
隆景が静かに首を横へ振った。
「安国寺殿の危惧、理解できぬではない。されど……全軍を今すぐ低湿地へ突入させるはリスクが大きすぎる。敵は我が軍の出撃を待ち伏せ、築堤の陰に無数の鉄砲隊を配置しておるのだ。確証のない推測だけで四万の全軍を危険に晒すことは叶わぬ」
輝元も苦しい表情で目を伏せた。
「……安国寺。其方の忠義は買うが、いまは本陣を動かす時ではない。静観せよ」
重臣たちの判断は、軍事的な常識としては極めて正当なものであった。
確証のない「水没」という神話のような恐怖のために、強固な本陣を捨てて敵の誘導するぬかるみへ突撃するなど、軽挙妄動の極みと映ったのである。
恵瓊の必死の訴えは、冷酷な常識の壁にはじき返され、空しく潰え去った。
恵瓊は拳を固く握りしめ、床に伏したまま震えていた。
自分の言葉が届かない。
前世の知識を持ち、目の前で起きている真実を完璧に見抜いていながら、それを他人に信じさせ、巨大な組織を動かすことができない。
知識の存在と、それを実行に移す力との間の溝が、あまりにも深く、残酷であった。
そして――天は、秀吉の味方をした。
五月八日。備中の空を覆っていた鉛色の雲が決壊し、篠突くような激しい長雨が降り始めたのである。
例年よりも半月以上も早い、早すぎる梅雨の到来であった。
雨は一日として止むことなく、天から滝のごとく激しく降り注ぎ、備中の山々から大量の泥水を削り取って足守川へと押し流してきた。
足守川の水位は、日ごとに恐ろしい勢いで跳ね上がっていった。
そして、秀吉の手によって完成しつつあった三里におよぶ巨大な堤防が、逃げ場を失った濁流をガッチリと受け止めたのである。
水位の上がった足守川の水は、堤防に阻まれて逆流し、高松城の周囲に広がる水田や低湿地帯へと一気に流れ込んでいった。
五月中旬を迎える頃、恵瓊の予言した通りの恐ろしい光景が、毛利の将兵たちの目の前に現出した。
高松城の周囲数里にわたる平野部が、たった数日のうちに完全な「人工の湖」へと変貌したのである。
濁茶色の水面はどんどん水位を上げ、民家や田畑を飲み込み、高松城の本丸と二の丸だけが、広大な湖の中央にぽつりと浮かぶ孤島となって取り残されたのだった。
本陣の高台からその光景を見下ろした吉川元春も、小早川隆景も、言葉を失って立ち尽くした。
彼らの誇る四万の大軍は、泥の海の向こうに孤立した高松城に対して、船一艘すら出すことができず、ただ高台から城が水に沈んでいく様を高みの見物のように見つめることしかできなくなったのである。
雨の降りしきる本陣の端で、恵瓊は濡れそぼりながら膝をついていた。
法衣は雨水と泥で重く湿り、網代笠からは絶え間なく雫が落ちていた。
目の前に広がる、巨大な濁流の湖。
あの中に、自分を信じてくれた清水宗治がいるのだ。
城兵たちとともに、迫り来る水面を見つめながら、必死に持ちこたえているのだ。
「救えなかった……。知っていながら、またしても救えなかった……」
恵瓊は泥の中に両手を突き、血の涙を流して慟哭した。
秀吉の異次元の知謀と、天の長雨、そして人間の常識という壁。
それらが噛み合って作られた巨大な地獄の前に、自分の一介の言葉など、あまりにも無力であった。
雨はなおも激しく降り続き、高松城の石垣を浸し始めていた。
水底に沈みゆく孤城を見つめながら、安国寺恵瓊は、絶望の底で深く念仏を唱え続けるしかなかった。
時代を揺るがす最大の悲劇の幕が、いま完全に押し開かれたのである。




