エピローグ 「夢のつづき」
---
## エピローグ 「夢のつづき」
---
夕日が、庭を橙色に染めていた。
どこの国の、どんな時代の庭かも分からない、と思っていたあの夢の庭。
今は、よく知っている。
ハルノ王国の、城の庭だった。
庭石の隙間から、名も知らない草花が顔を出していた。
遠くで、子どもの笑い声がしていた。
---
璃生は、庭の縁側に座っていた。
夕日を見ていた。
橙色の空が、遠くの木々を染めていた。
きれいだ、と思った。
ちゃんと、そう思えた。
いつも、ちゃんとそう思えた。
---
子どもの笑い声が、近づいてきた。
「かあさまっ」
真っ黒な耳が、視界の端を駆け抜けた。
尻尾が二本、ふわふわと揺れていた。
転びそうになりながら、石畳を走っていく。
黒い髪の、元気な男の子だった。
金色の瞳が輝いていた。
父親の目と同じ色の目をした、でも体の小さな、腕白な男の子だった。
「待ってよ、もう」
後ろから追いかける声がした。
銀色の髪の女の子だった。
コールの娘だった。
ふわふわとした、天然な雰囲気の女の子で、いつも少し不思議そうな顔をしていた。
銀色の髪には、小さな水仙が一輪差してあった。
お気に入りの花だった。
コールが毎朝差してやっていた。
「待ちなさいよ、もう、そんなに走ったら転ぶわよ」
「転ばないもん」
「転ぶわよ」
銀色の髪の女の子が、黒耳の男の子を追いかけた。
---
その後ろを、もう一人が歩いていた。
小さな女の子だった。
黄金色のふわふわした髪を、二つに結っていた。
チョウチョウの娘だった。
無口で、大人しかったが、よく気がついた。
今も、転びそうになった黒耳の男の子を、すっと支えていた。
「ありがとう」
黒耳の男の子が言った。
黄金色の女の子は、こくんと頷いた。
それだけだったが、その目が、優しかった。
---
もう一人の男の子が、庭の端に立っていた。
さっきの黒耳の男の子の兄だった。
兄弟だから同じ顔をしていたが、雰囲気が全然違った。
兄のほうは、少し腹黒い笑みを浮かべていた。
父親より父親らしいとバクシンに言われていた。
でも、銀色の髪の女の子が困っていると、さっと助けに行った。
それだけで、根は優しいのが分かった。
---
四人の子どもたちが、銀色の髪の女の子を中心に、庭に集まった。
お姉ちゃんと慕っていた。
コールの娘が、三人に囲まれて、少し照れた顔をしていた。
「みんな、またお姉ちゃんのとこに来た」
「だって、お姉ちゃんと遊びたいんだもん」
黒耳の弟が言った。
「そうよ、お姉ちゃんが一番楽しいんだもの」
腹黒い兄が、少し素直に言った。
黄金色の女の子が、銀色の姉の袖をそっと掴んだ。
行こう、という意味だった。
銀色の娘が、みんなを見回して、少し笑った。
「……しょうがないわね」
四人が、夕日の中へ走っていった。
---
璃生は、その光景を見ていた。
見ながら、思った。
夢で見た光景だ。
王城に来る前の夜に見た夢の光景だ。
あのとき、夢の中で見ていた。
子どもたちの笑い声。
橙色の空。
庭石の隙間の草花。
全部、夢で見ていた。
今は、夢ではなかった。
---
「かあさまが、また遠い目をしている」
声がした。
腹黒い兄が、戻ってきていた。
「遠い目じゃないですよ」
「してる。夕日を見るとき、いつもそういう顔をする」
「知っていたんですか」
「知ってた。父上たちも知ってる」
璃生は少し口元が動いた。
「そうですか」
「なんで、そういう顔をするの」
「昔のことを思い出していました」
「昔のこと」
「ここに来る前のことです」
男の子は、少し考えた。
「父上から聞いた。かあさまは、遠いところから来たって」
「はい」
「その遠いところのことを、思い出していたの」
「少し」
「寂しい?」
璃生は少し考えた。
「寂しくないです」
「本当に」
「本当に」
「……じゃあ、なんで遠い目をするの」
「懐かしかっただけです。昔の自分が、ここにいる今の自分を見たら、びっくりするだろうなと思って」
男の子は少し考えた。
「なんで」
「昔のわたしは、こんなに幸せになれるとは思っていなかったから」
男の子が、璃生を見た。
「今は幸せ?」
「今は幸せです」
「本当に」
「本当に」
男の子は少し間を置いた。
「……よかった」
それだけ言って、また庭に走っていった。
子どもらしくない、でも温かい一言だった。
父親に似ていた。
---
夕日が、さらに傾いた。
空が深い橙色になった。
璃生は空を見た。
四つの星が、もう見えていた。
夕方の空に、早い星が輝いていた。
四つ。
いつも、四つ同時に見える星があった。
偶然かもしれなかった。
でも、璃生には、四つに見えた。
---
気配がした。
振り向いた。
チョウチョウが来ていた。
璃生の横に、腰を下ろした。
「子どもたちは」
「庭にいます」
「また全員でお姉ちゃんのとこに集まってるのか」
「そうみたいです」
「……うちの娘、放っておいてほしいんだけどな」
「いつも自分から行っていますよ」
「……そうか」
チョウチョウは空を見た。
「夕日、きれいだな」
「はい」
「……遠い目をしていたか」
「してませんでした」
「子どもに聞いた。してたって」
「あの子、報告が早いですね」
「誰に似たんだろうな」
「チョウチョウさんに似たんだと思います」
「……うるさい」
でも、少し笑った。
チョウチョウが、璃生の手を取った。
温かかった。
いつもと同じ温かさだった。
「……幸せか」
「はい」
「本当に」
「本当に。チョウチョウさんは」
「……幸せだ」
「良かったです」
「礼を言うな」
「言います」
チョウチョウが、小さく笑った。
---
もう一つの気配がした。
王子が来ていた。
璃生の反対側に来て、立った。
「外に出てきたんですね」
「……子どもたちが呼びに来た」
「誰が」
「……弟が」
「かわいいですね」
「……うるさい」
でも、金色の目が、庭の子どもたちを見ていた。
目が、柔らかかった。
王子は、璃生の横に座った。
三人で、夕日を見た。
「……きれいだ」
「はい」
「……毎日見ているのに、きれいだと思う」
「そうですね」
「……おまえが、空を見るようになったから、おれも見るようになった」
「そうですか」
「……ああ」
「良かったです」
「……良かったのか」
「はい」
王子は少し間を置いた。
「……おまえが来てくれて、良かった」
「わたしも、来て良かったです」
王子が、璃生の肩に少し体を預けた。
重かった。
でも、温かかった。
---
また気配がした。
コールが来ていた。
庭に出てきたコールが、璃生たちのそばに来た。
立ったまま、空を見た。
「……夕日だ」
「はい」
「……夕日は、夜明けより短い」
「そうですね」
「……でも、きれいだ」
「コールさんは、夕日も好きですか」
「……好きではなかった。でも、最近、きれいだと思う」
「どうしてですか」
コールは少し間を置いた。
「……あなたが、夕日もきれいと言っていたから」
「わたしが言っていたからですか」
「……日記に書いてあった。夕日がきれいだったと」
「読んでいてくれていましたね」
「……読んでいた。あなたが書くことは、全部読んでいた」
コールは璃生の横に、腰を下ろした。
四人が、並んで座った。
夕日を、四人で見た。
---
子どもたちが、戻ってきた。
四人が、夕日の中から走ってきた。
銀色の娘が、璃生のそばに来た。
「かあさま、夕日がきれいよ」
「そうですね」
「空が橙色なの」
「はい」
「お父さまの本に、夕日の詩が載っていたわ。明日、読んでみます」
「楽しみにしています」
コールが、娘を見た。
「……どの本だ」
「えっとね、書棚の一番上の棚の、端にある本」
「……あれを開けたのか」
「ちょっと読んでみたの。ごめんなさい」
「……謝らなくていい。あれはおまえのためにも置いてある」
娘が、少し目を開いた。
「わたしのために?」
「……いつか読むだろうと思って、置いておいた」
娘が、コールに抱きついた。
コールが、少し固まった。
でも、娘の頭をそっと撫でた。
---
黒耳の弟が、王子のそばに来た。
「父上、一緒に座って」
「……座っている」
「もっとそばに」
王子が、弟を膝に乗せた。
弟が、王子の金色の目と同じ目で、夕日を見た。
「きれいね」
「……ああ」
「父上も、きれいと思うの」
「……思う」
「かあさまに教えてもらったの?」
「……うるさい」
「そうなんだ」
弟が、にっこりした。
---
腹黒い兄が、少し離れたところに立っていた。
夕日を見ていた。
璃生と目が合った。
「……きれいだな」
「はい」
「こういう時間が好きだ」
「そうですか」
「みんながいる時間が、好きだ」
それだけ言って、また空を見た。
父親に似ていると言われていたが、今日の顔は、少し違った顔だった。
素直な顔だった。
---
黄金色の娘が、璃生のそばに来た。
無口な娘だった。
でも、璃生の隣に座って、手を握った。
「……あったかい」
小さな声で言った。
「あなたの手も、温かいですよ」
「父上の手と似てる」
「そうですね、チョウチョウさんに似ていますね」
娘が、少し笑った。
あまり笑わない娘が、少し笑った。
---
夕日が、沈んでいった。
空が、橙色から、紫色に変わっていった。
やがて、暗くなっていく。
でも、まだ明るかった。
四人と、四人の子どもが、庭に座っていた。
夕日の最後の光を、みんなで見ていた。
---
璃生は、その光景を見ながら、思った。
プロローグで見た夢が、今の日常だ。
三人の夫。四人の子どもたち。
夕日の庭。
子どもたちの笑い声。
全部、あの夢で見ていた。
あのとき、夢なのか予知なのか分からなかった。
今は分かる。
予知だった。
夢が、現実になった。
---
璃生は窓から、夕日の最後を見た。
空の端に、星が出始めていた。
四つ。
やっぱり、四つだった。
---
胸の文様に、そっと触れた。
四つの花が、温かかった。
朱色の彼岸花。
黄金色の金木犀。
夜空色の黒椿。
真珠色の水仙。
全部、温かかった。
全部、輝いていた。
---
璃生は、空を見た。
星が、一つずつ増えていった。
きれいだ、と思った。
ちゃんと、そう思えた。
毎日、ちゃんとそう思えた。
---
「かあさま」
黄金色の娘が、璃生を見た。
「はい」
「幸せ?」
娘が聞いた。
さっきの腹黒い兄と、同じことを聞いた。
でも、全然違う聞き方だった。
静かで、優しい聞き方だった。
璃生は娘を見た。
「幸せです」
「本当に?」
「本当に」
「良かった」
娘が、璃生の手をまた握った。
温かかった。
---
璃生は、もう一度空を見た。
夕日が完全に沈んで、夜が来ようとしていた。
でも、まだ空の端に光が残っていた。
夕焼けの残光が、空を染めていた。
その光の中で、璃生は思った。
---
ここにいていいんだ、と今日も思えた。
---
それだけで、十分だった。
それだけで、十分すぎるほどだった。
毎日、そう思えることが、奇跡だった。
でも、奇跡は続いていた。
これからも、続くだろう。
夕日が沈んでも、夜明けが来る。
夜明けが来たら、コールと一緒に見る。
朝になったら、本を読む。
昼になったら、庭に出る。
夕方になったら、こうして空を見る。
それが、璃生の日常だった。
引き出しに鍵をかけていた日々は、遠くなっていた。
引き出しは、今も開いていた。
でも、怖くなかった。
引き出しの中に、感情があってもよかった。
怖いも、悲しいも、嬉しいも、温かいも、全部あっていい。
全部、本物だから。
---
夜が来た。
星が、空に広がった。
きれいだった。
璃生はその星を見ながら、目を閉じた。
四つの花が、温かかった。
四人の気配が、そばにあった。
四人の子どもたちの笑い声が、庭に聞こえていた。
璃生は、静かに微笑んだ。
---
ここにいていいんだ。
今日も、そう思えた。
---
――おわり――
---




