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虹色の彼岸、あなたへ〜四色の花嫁〜  作者: 有寄之蟻
第一部 「召喚、あるいは逃走」
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第一部 第一章 灰色の日常

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## 第一部 「召喚、あるいは逃走」


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## 第一章 灰色の日常


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 丹之宮璃生には、好きなものがほとんどなかった。


 正確に言えば、好きだったものが少しずつ分からなくなっていった。


 好きだった本の文字が頭に入らなくなったのが、いつだったか。好きだった音楽を聴いても何も感じなくなったのが、いつだったか。もうあまり覚えていない。気がついたらそうなっていた。気がついたら、好きなものを聞かれたとき、うまく答えられなくなっていた。


 二十三歳の春。


 璃生が住んでいるのは、駅から徒歩十二分の場所にある木造アパートの一室だった。築二十年。壁が薄い。隣室の生活音がかすかに聞こえる。それでも家賃が安かったし、なにより璃生は隣に人の気配があるほうが少しだけ楽だった。完全な一人はこわい。だからといって誰かと一緒もこわい。その矛盾した感覚をうまく処理できないまま、ここに住んでいた。


 朝の仕度は最低限だった。シャワー、洗顔、歯磨き。鏡を長く見ない。黒い髪をひとつに束ねて、顔に触れる時間を短くする。鏡の中の自分の顔を、あまり直視したくなかった。見ていると、どこか遠い場所にいる誰かを見ているような気分になった。


 コンビニで買ったおにぎりを一個、立ったまま食べた。梅干し。味はよく分からなかった。


 食欲は、だいぶ前から安定していない。食べたいという気持ちが湧かないのに、食べなければ仕事に支障が出る。だから食べる。それだけのことだった。


 璃生の仕事は、夜だった。


 いわゆるデリヘルと呼ばれる業種で働き始めて、一年半が経つ。


 始めたきっかけは、お金だった。


 バイトを三つ掛け持ちして、それでも生活費と仕送りが足りなかった。親は体を壊して収入が減っていた。奨学金の返済も始まっていた。誰かに相談する余裕も、相談できる相手もいなかった。


 探していたら、見つけた。


 「経験不問、自由出勤、高収入」という言葉に、そのとき迷わなかった自分が今となっては不思議だった。それとも、追い詰められていたから迷えなかったのか。よく分からない。考えても答えは出ないから、あまり考えないようにしていた。


 仕事をする前、璃生は男性が怖かった。


 正確に言うと、苦手、という程度だった。大声を出す人、距離の近い人、視線が値踏みするような人。そういう人たちが苦手だった。でも日常生活で避けることはできた。


 今は。


 ……今は、少し違う。


 苦手、という言葉では追いつかない。


 電車で隣に立った見知らぬ男性の体温が近いだけで、胃のあたりがぎゅっと固まる感じがする。職場への行き帰り、繁華街を歩くときは下を向く。声をかけられると、心臓が跳ねる。それが店の客引きであっても、道を聞かれただけであっても、反射的に体が強張る。


 仕事中は。


 仕事中は何も考えないようにしていた。


 頭のどこかにある引き出しに感情を全部しまって、鍵をかけて、別のことを考える。部屋の壁紙のシミの形とか、今夜の帰り道に寄るコンビニで何を買うかとか、子どもの頃に好きだった絵本の話とか。そういうことを考えていた。引き出しの外に出てきそうになる感情は、奥に押し込めた。


 体の感覚が、だいぶ前から鈍くなっていた。


 痛みも、温度も、触れられた感覚も。


 鈍くなったのが良かったのか悪かったのか、璃生には判断できなかった。ただそれによって仕事を続けられているという事実があって、だから多分、今の自分には必要な変化なのだろう、と思うことにしていた。


 あまり良くない考え方だとは分かっていた。


 でも、他の考え方ができなかった。


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 その日の仕事は、夜の十時から始まった。


 駅から少し離れたホテルの一室。


 璃生は廊下に立って、深呼吸した。一回、二回。頭の中の引き出しに鍵をかける。いつもの手順。


 扉をノックした。


 仕事の時間が始まった。


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 終わって外に出ると、夜中の一時を過ぎていた。


 五月の夜気が肌に触れた。温度は分かる。でも気持ちいいという感覚がよく分からない。


 コートのポケットに手を入れて、歩き始めた。


 繁華街の端を抜けると、人通りが減る。信号を渡って、細い路地に入る。ここまで来ると、少し呼吸が楽になった。人が少ないから。


 公園の横を通り過ぎるとき、ベンチに人が座っているのが見えた。


 酔っ払いかな、と思って、視線を逸らして足を速めた。


「丹之宮璃生さん」


 名前を呼ばれた。


 足が止まった。


 知らない声だった。女性の声。よく通る、落ち着いた声だった。


 振り返ってしまったのは、反射だった。


 ベンチに座っていたのは、三十代くらいに見える女性だった。スーツ姿だった。濃紺の、きっちりしたパンツスーツ。長い黒髪がきれいに結い上げられていて、眼鏡の奥の切れ長の目がこちらを見ていた。


 酔っ払いではなかった。


 それよりも、何か別のものに見えた。


 なんだろう、とぼんやり思った。


 雰囲気が、違う。人間っぽいんだけど、どこかが違う。蜃気楼の端みたいな、輪郭がわずかにぼやけているような感じがする。


「……どちら様ですか」


 璃生は言った。声が少しかすれた。


 女性はにこりとした。営業スマイルでも愛想笑いでもなく、ただ、静かに微笑んだ。


「菊理媛尊、と申します。人間の言葉で呼びやすいように言うと、まあ、縁結びの女神、と言ったところですね」


 静かな公園に、どこかの店からだろうか、音楽が遠く流れていた。


 璃生は女性を見た。


 女神。


 縁結びの。


 ……うそくさい。


「スカウト、ですか」


 璃生は言った。よくある手口だ。宗教か、それに近い何かか。


「はい、スカウトです」


 女性は即答した。


「でも宗教でも怪しい商売でもありませんよ。わたしは本当に女神です。あなたに仕事をお願いしたくて参りました」


 女性は懐から何かを取り出した。名刺だった。


 スーツ姿の女神が名刺を出してくることへのシュールさに、璃生の中で何かがかすかに動いた。なんだろう。笑い、かもしれなかった。笑いの感覚も最近よく分からなくなっていたけれど、そういう種類の感情かもしれなかった。


 名刺を受け取った。


 普通の白い名刺だった。でも、そこに書かれた文字を読もうとすると、なぜか脳の奥がぽかっと温かくなった。体温が上がった感覚。


 名刺には、ただ一言だけ書いてあった。


 読めない文字だった。でも、なぜか意味は分かった。


 ――縁を、結ぶもの。


「仕事の内容を聞いてもいいですか」


 璃生は言った。自分でも驚いた。普通、こんな状況なら怖くて逃げる。あるいは無視して立ち去る。


 なのに、足が動かなかった。


「別の世界に行っていただきます」


 女性は言った。


「その世界で、三人の方と縁を結んでいただきたい。そして、子どもを産んでいただきたい」


 静かな声だった。穏やかだった。


 でも言っている内容はかなりとんでもなかった。


「……三人と」


「はい」


「子どもを」


「はい」


「別の世界で」


「はい」


 璃生は名刺を見た。女性を見た。また名刺を見た。


 怖い、と思うべき場面だった。


 でも怖くなかった。


 なぜかと言うと、もうどうでもよかったからだ、と璃生は後から気づく。


 もうどうでもいい、という感覚が、最近ずっとそこにあった。今日も明日も明後日も同じ日々が続く、という疲弊感。引き出しの鍵がいつか壊れそうな感覚。それでも続けなければという義務感。その全部が混ざった場所に「もうどうでもいい」があった。


 怪しいと思う。


 でもどうでもいい。


 なんなら何か変わるなら、それでもいい、くらいの気持ちだった。


「詳しい説明を受けられますか」


 女性は言った。


「あちらに」


 公園のベンチを示した。


 璃生はしばらく考えた。


 考えた、というより、体を動かすかどうか迷っていた。


「……はい」


 璃生は言った。


 ベンチへ向かいながら、自分でも不思議だった。


 どうしてこんなに素直に動いているのだろう。


 答えは、やっぱりどうでもいいから、だった。


 どうせ騙されるなら、面白いほうがいい。


 怪しい女神のスカウトにひっかかって別の世界に行く。それが事実でも嘘でも、何か起きるなら起きてほしかった。


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 ベンチに隣り合って座った。


 女性は、丁寧に話してくれた。


 別の世界があること。そこは多種族が共存する国で、女神信仰が根付いていること。璃生のような幸運を運ぶ存在が必要とされていること。三人の男性がいて、彼らとの縁結びが成し遂げられれば、世界に奇跡が起きること。


 話は長くなかった。三十分ほどだったと思う。


 璃生は聞きながら、ところどころ質問した。


「仕事は辞めなくていいですか」


「こちらの時間は止まっていますので、戻られたときに困ることはないと思います」


「帰れますか」


「縁結びが完了したのちは、帰るか留まるかを選んでいただけます」


「怖い目には遭いますか」


 女性は少し黙った。


「安全は約束できますが、不安になることはあるかもしれません」


 嘘をつかない人だ、と璃生は思った。


 根拠はなかった。でもそう感じた。


 最後に、女性はスマートフォンを取り出した。画面を差し出した。


 シンプルな選択肢が表示されていた。


 「承諾する」「断る」


 二択だった。


 璃生は画面を見た。


 怖いか、と自分に聞いた。


 ……怖くはなかった。


 面白いか、と自分に聞いた。


 ……少しだけ、面白いかもしれなかった。


 何かが変わるなら、と自分に聞いた。


 ……変わってほしかった。


 死なないなら、と自分に聞いた。


 死ぬよりはいい、という答えが返ってきた。


 死ぬよりはいい、は今の璃生の判断基準だった。それで大抵の判断ができた。


「……まじかよ」


 璃生はつぶやいた。


 自分でもそう思った。


 でも指が動いた。


 「承諾する」を、ぽちっと押した。


---


 ほんの一瞬、視界が白くなった。


 体が軽くなった、と思った。


 次に目が覚めたとき、璃生は見知らぬ場所にいた。


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 風が、頬を撫でた。


 温かかった。


 今度は、ちゃんと気持ちいいと分かった。


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*(第二章へ続く)*


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