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虹色の彼岸、あなたへ〜四色の花嫁〜  作者: 有寄之蟻
第五部 「それぞれの決意」
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第十五章 チョウチョウの決断

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## 第十五章 チョウチョウの決断


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 王城に来て、五ヶ月が経った頃のことだった。


 チョウチョウが、璃生に申し出た。


「少し、商会に戻りたい」


 朝の廊下だった。


 いつもなら図書館へ向かう時間だった。


 璃生はチョウチョウを見た。


「戻る、というのは」


「一時的にだ。一週間か、二週間か。用事がある」


「何かあったんですか」


 チョウチョウは少し間を置いた。


「……妹のことだ」


「ヤコさんのことですか」


「ヤコに関係することだ。ただ、ヤコ本人の問題じゃなくて、おれの問題だ」


 璃生はチョウチョウを見た。


 普段のチョウチョウより、少し表情が固かった。


 固いというより、決意のある顔だった。


「分かりました。行ってきてください」


「……ニジトセ様一人で大丈夫か。王子のところへも、図書館へも」


「バクシンさんがいます。ヤコさんがいます。コールさんもいます」


「コールは側にいるタイプじゃないだろう」


「図書館にはいますから」


「……王子のところへは一人で行くのか」


「最初から一人で行っていましたよ」


 チョウチョウは少し黙った。


「……気をつけろ」


「はい」


「何かあったら、バクシンに言え」


「はい」


「コールには、本を無理に高い棚から取ろうとするな、と伝えておけ」


「伝えます」


 チョウチョウは少し間を置いた。


「……行ってくる」


「行ってらっしゃいませ」


「……うるさいな」


「気をつけて」


 チョウチョウが廊下を歩き始めた。


 璃生はその背中を見た。


 決意のある背中だった。


---


 チョウチョウがいない間、璃生の日常は変わらなかった。


 午前は図書館。午後は王子のもとへ。


 ただ、廊下を一人で歩くことが増えた。


 一人で歩くのは、久しぶりだった。


 寂しい、という感覚が少しあった。


 寂しい、という感覚が分かることが、璃生には少し不思議だった。


 以前は、寂しいという感覚自体が、引き出しの中に入っていた。


 今は、ちゃんと感じた。


 チョウチョウがいないと、少し寂しい。


 それが分かった。


---


 図書館では、コールとの交換日記が続いていた。


 毎日一冊のノートを交換した。


 コールの日記は、最初は短かった。


 でも日を重ねるにつれて、少しずつ長くなっていた。


 今日は何を読んだ。


 夜明け前に起きた。


 神官長が茶葉を持ってきた。


 窓から鳥が見えた。


 その鳥の種類を調べた。


 短い文章が、毎日続いた。


 璃生はそれを読むのが、楽しみになっていた。


---


 ある日の日記に、コールがこう書いていた。


---


 今日、ファーブ族がいなかった。


 入口の棚が、静かだった。


 別に、気にしていない。


 ただ、静かだと思った。


 本棚の配置を少し変えようと思っていたが、やめた。


 明日また来るかもしれないから、変えると混乱するかもしれない。


 合理的な判断だ。


 コール


---


 璃生はそれを読んで、少し口元が動いた。


 気にしていないと書いたが、気にしている。


 本棚の配置を変えるのをやめた理由が、チョウチョウが戻ったとき混乱するから、というのが、コールらしかった。


 璃生は返事の日記に書いた。


---


 コールさんへ


 チョウチョウさんは用事で商会に戻っています。


 一週間か二週間ほどで戻ると思います。


 本棚の配置、変えないでいてくれてありがとうございます。


 チョウチョウさんが戻ったとき、喜ぶと思います。


 ニジトセ


---


 翌日、コールの日記にはこう書いてあった。


---


 喜ぶとは思っていない。


 ただ、合理的な判断だ。


 コール


---


 璃生はまた口元が動いた。


---


 王子のもとへも、毎日一人で通った。


 チョウチョウがいなくても、狼は待っていてくれた。


 扉が最初から開いていた。


 璃生が廊下を歩いてくると、鼻先がのぞいていた。


「チョウチョウさんは、しばらく来られないです」


 狼に言った。


 狼は、特に動じなかった。


 ただ、璃生が座ると、いつもより少し近くに来て伏せた。


 近かった。


 今まで一番近い距離だった。


 璃生の心臓が少し速くなったが、逃げなかった。


「……近いですね」


 狼は動かなかった。


「いいですよ」


 また言えた。


 尻尾が、ゆっくりと揺れた。


---


 その日の朗読の途中で、璃生は感じた。


 狼の毛が、璃生の手の甲にそっと触れた。


 狼が動いたわけではなかった。


 璃生も動いていなかった。


 ただ、距離が近いので、璃生が本のページをめくるとき、手が毛に触れた。


 温かかった。


 璃生は読むのを止めなかった。


 ただ、手がそのままになった。


 毛に、手の甲が触れたまま、読み続けた。


 狼も動かなかった。


 毛に手が触れたまま、本の朗読が続いた。


---


 バクシンが、廊下の遠いところから見ていた。


 見ながら、また泣きそうになっていた。


 今日こそ本当に泣きそうだった。


 廊下の壁に、しずかに額を当てた。


---


 一週間が経った。


 チョウチョウから、ヤコ経由で連絡が来た。


「もう少しかかりそうだ、とのことです」


「そうですか。何かあったんですか」


「詳しくは教えてもらえませんでしたが、商会の大切な用事だと」


「分かりました」


 璃生はヤコを見た。


「ヤコさん、何か知っていますか」


 ヤコは少し間を置いた。


「……少し」


「教えてもらえますか」


「チョウチョウが、ヤコに言うなと言っていますので、詳しくは」


「そうですか」


「ただ、ヤコのために動いている、とだけ」


 璃生は頷いた。


「分かりました」


「心配していただいているなら、大丈夫だと思います。兄がああ見えて、本当に大事なことには一番真剣なので」


「知っています」


「……知っているんですか」


「うっすら」


 ヤコは少し目を細めた。


「……ニジトセ様は、よく見ていらっしゃるんですね」


「見ていないと分からないので」


「そうですか」


 ヤコはまた少し間を置いた。


「チョウチョウのことを、ありがとうございます」


「何がですか」


「侍従として受け入れてくれたことです。正直に話すことを、求めてくれたことです。兄は、あれから少し変わりました」


「そうですか」


「前より、本当のことを言うようになりました。ヤコにも」


「良かったです」


「……良かったです」


 ヤコも繰り返した。


 静かな声だった。


---


 さらに一週間が経った。


 チョウチョウが戻ってきた。


 朝、廊下に来たとき、璃生は少し驚いた。


「戻りましたか」


「戻った」


 チョウチョウの顔が、少し違った。


 疲れているようだったが、すっきりした顔でもあった。


 何かが、終わった顔だった。


「用事は済みましたか」


「……済んだ」


「良かったです」


「色々あった」


「そうですか」


「……一つ、話していいか」


「はい」


 チョウチョウは廊下の窓のほうを向いた。


 外を少し見て、また璃生を向いた。


「シオリン、という人間を知っているか」


「シオリン、というのは」


「シーニャ族のリン氏族だ。商人だ。ヤコの、好きな人だ」


 璃生はヤコの顔を思い出した。


 真面目で、几帳面で、静かなヤコ。


 好きな人がいたのか、と思った。


「ヤコさんの片思いですか」


「……だった。今は、多分、両思いだ」


「どうして両思いになったんですか」


 チョウチョウは少し間を置いた。


「おれが、シオリンと直接交渉した」


「交渉」


「ヤコとシオリンの婚姻を、申し込んだ」


 璃生は少し目を開いた。


「チョウチョウさんが、直接」


「シオリンは極度な女嫌いで、男友達としては仲良くしているが、女性への恋愛感情は持てないと思っていた人間だ。だから、ヤコも片思いのまま何もできずにいた」


「はい」


「でも、シオリンがヤコのことを見ている目が、ただの友達を見る目じゃなかった。商売の勘で分かった。だから直接行った」


「勇気がいりましたね」


「……そうでもなかった。ヤコのためだと思ったら、するべきことをするだけだった」


 璃生はチョウチョウを見た。


 ヤコのためだと思ったら、するべきことをするだけだった。


 それが、チョウチョウのことを分かっている言葉だと思った。


「お見合いの日はどうでしたか」


「お見合いの場で、正体を明かした」


「正体」


「ヤコが男装していること。入れ替わりで侍女をしていたこと。その全部を話した。ヤコも一緒に頭を下げた」


「シオリンさんはどうでしたか」


 チョウチョウの口元が、少し動いた。


「気づいてた、と言われた」


「気づいていたんですか」


「ずっと前から気づいていたらしい。なんなら気づいてから好きになったと言われた」


「それは、」


「ヤコが泣いた。人前で泣くヤコを、初めて見た」


 チョウチョウの声が、少し低くなった。


「良かったな、と思った。本当に」


「そうですね」


「……シオリンがヤコにフルネームを教えた」


「フルネーム」


「シーニャ族のリン氏族は、フルネームを恋人か生涯の伴侶にしか明かさない」


 璃生は少し間を置いた。


「それは、」


「ヤコだけが意味を分かって、シオリンはただ挨拶のように言ったんだ。自然に、無意識に。シオリンにとって、ヤコはもうそういう存在だったから」


「ヤコさんは、どうしましたか」


「泣きながら固まっていた。おれはその場でシオリンに説明した。今、あんたはヤコに愛の告白をしたのと同じだ、と」


 璃生は少し笑いそうになった。


「それで」


「シオリンも固まった。しばらく三人で固まっていた。それから大円団だ」


 チョウチョウが、少し笑った。


 本当に笑った。


「……良かったです」


 璃生は言った。


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


「妹さんのために動いてくれた人に、ありがとうを言います」


「……やめろ」


「ヤコさんが幸せになって、良かったです」


「……ああ」


 チョウチョウの声が、穏やかだった。


「本当に、良かった」


---


 少し間があって、璃生は言った。


「ヤコさんは、これからどうなりますか」


「侍女を辞める。商会の当主を正式に引き継ぐ。シオリンが婿入りして、共同経営になる」


「ヤコさんが当主を」


「おれが動いていた間、ヤコのほうがずっと商会を上手く回していた。本当は最初からそうだった。おれがいなくてもヤコなら大丈夫だと、今回分かった」


「チョウチョウさんは、商会をどうするんですか」


「おれはここに戻る。侍従として」


 璃生は少し驚いた。


「戻ってきてくれるんですか」


「……まだ、用事が終わっていないから」


「用事」


「縁結びだ」


 チョウチョウは璃生を真正面から見た。


 琥珀色の目が、まっすぐだった。


「おれの縁結びが、まだ終わっていない。だから戻ってくる」


 璃生は、チョウチョウを見た。


 まっすぐな目だった。


 隠していない目だった。


「……チョウチョウさん」


「なんだ」


「戻ってきてくれて、ありがとうございます」


「礼を言うな」


「言います」


「……本当に、勝手にしてくれ」


 チョウチョウが先に歩き始めた。


「行くぞ、図書館に遅れる」


「はい」


 璃生はチョウチョウの後ろを歩いた。


 背中が、前より少し軽くなっていた。


 何かを決めた人の背中だった。


---


 図書館に入った。


 チョウチョウが入口の棚へ向かった。


 コールが、いつもより少し早く璃生のところへ来た。


「……ファーブ族が戻った」


「はい」


「……そうか」


「心配していましたか」


「……していない」


「そうですか」


「本棚の配置を変えなくて良かった」


「コールさん」


「何だ」


「チョウチョウさんが、喜んでいましたか」


「……確認していない」


「本棚の配置を変えなかったことを、チョウチョウさんに言いましたか」


「……言うことではないだろう」


「そうですね」


「……なぜ笑っているのだ」


「笑っていないです」


「笑っている」


「気のせいです」


 コールが、少し璃生を見た。


「……お茶を用意する」


「ありがとうございます」


「礼は要らない」


「言います」


「……勝手にしろ」


---


 その日の午後。


 王子のもとへ行くとき、チョウチョウが一緒に来た。


 立入禁止の廊下の手前で止まった。


「……コール、思ったより怖くなかったな」


「そうですか」


「あの人間、本の話になると普通に話すんだな」


「はい」


「……鉱石の本、もう一冊借りた」


「良かったです」


「うるさいことは言うな」


「言っていないです」


「顔が言っている」


 璃生は口を閉じた。


「今日の朗読、何を読む」


「昨日の続きです。登場人物が旅を始めたところです」


「面白いのか」


「面白いですよ。一緒に聞きますか」


「おれは廊下で待つ」


「では、後で内容を話します」


「……話さなくていい」


「聞きたいですよね」


「……聞きたいとは言っていない」


「聞きたそうな顔をしていました」


「していない」


「では話しません」


「……話してもいい」


「どちらですか」


「聞きたいわけじゃないが、話したいなら話せばいい」


 璃生は少し笑いそうになった。


「分かりました。後で話します」


「……勝手にしてくれ」


---


 璃生が廊下を歩き始めた。


 チョウチョウが後ろから言った。


「ニジトセ様」


「はい」


「いてくれてありがとう」


 璃生は止まった。


 振り向いた。


 チョウチョウが、廊下に立っていた。


 琥珀色の目が、まっすぐだった。


「おれがいない間、一人で行ってくれていたんだろう。図書館にも、王子のところへも」


「はい」


「心配していた」


「そうですか」


「……まあ、大丈夫だったんだろうが」


「大丈夫でした」


「バクシンから報告を受けていた」


「バクシンさんから」


「王子が、廊下で毛に手が触れるのを許したと」


 璃生は少し間を置いた。


「……バクシンさんは、いろいろ報告してくれるんですね」


「頼んでいた。おれがいない間も気にしていたから」


「チョウチョウさん」


「なんだ」


「いてくれてありがとうございます」


「礼を言うな」


「お互い様です」


 チョウチョウは少し止まった。


「……お互い様、か」


「はい」


「……そうか」


 チョウチョウは壁に背を預けた。


「行け。朗読が遅れる」


「はい」


「後で内容を話せ」


「聞きたいんですね」


「……聞きたいとは言っていない」


「聞きたいですよね」


「……行け」


 璃生は廊下を歩き始めた。


 後ろで、チョウチョウが小さく息を吐く音がした。


 嫌そうではなかった。


---


 王子のもとへ着いた。


 扉が開いていた。


 鼻先が、のぞいていた。


「こんにちは」


 鼻先が、引っ込んだ。


 璃生が廊下を歩き、部屋へ入った。


 狼が、今日も近くに来て伏せた。


 昨日と同じ距離だった。


 近かった。


「チョウチョウさんが戻ってきました」


 狼が耳を動かした。


「廊下で待っています」


 尻尾が一度、床を叩いた。


「本を読みますね」


 耳がぴんと立った。


 璃生は本を開いた。


 旅の始まりの場面を、声に出して読み始めた。


---


 読みながら、璃生は思った。


 チョウチョウが戻ってきた。


 コールとの交換日記が続いている。


 王子との距離が、少しずつ縮まっている。


 ヤコさんが幸せになった。


 いろんなことが、少しずつ動いていた。


 女神が言った言葉を思い出した。


 状況は刻々と変わる。周りをよく見て、変化に対応する。


 変化していた。


 毎日、少しずつ。


 璃生は本を読み続けた。


 狼が、璃生のそばで静かに聞いていた。


 毛が、光に滲んで、深群青に輝いていた。


 尻尾が、ゆっくりと揺れていた。


---


 その夜。


 璃生は日記を書いた。


---


 今日、チョウチョウさんが戻ってきました。


 ヤコさんの幸せのために動いてくれていたそうです。


 チョウチョウさんは、大事なことには一番真剣な人だと思います。


 ヤコさんが幸せそうで、良かったです。


 今日の王子様は、近くに来てくれました。


 毛に手が触れました。


 温かかったです。


 三つの花の輪郭が、今日も温かいです。


 少しずつ、色の気配が増えている気がします。


 まだ白いですが、白の中に、何かがあります。


 それが、嬉しいです。


---


 書いて、ノートを閉じた。


 コールへ渡す日記も、書いた。


---


 コール様へ


 チョウチョウさんが戻ってきました。


 妹さんのことが、うまくいったそうです。


 チョウチョウさんの顔が、少し軽くなっていました。


 今日、本棚の配置が変わっていなかったと、チョウチョウさんに話しました。


 なぜそのままなのか聞いたら、しばらく考えていました。


 ニジトセ


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 これを読んで、コールがどんな顔をするか、少し気になった。


 明日、日記が届くだろう。


 読むのが楽しみだった。


---


 翌朝届いたコールの日記には、こう書いてあった。


---


 本棚の配置を変えなかった理由は、合理的な判断だ。


 それ以上でも以下でもない。


 なぜそのままなのかを聞いたファーブ族が、どんな顔をしたか、気になった。


 別に、気にしていない。


 ただ、気になった。


 コール


---


 璃生は日記を読んで、今日こそ笑った。


 一人で、声に出さずに笑った。


 コールさんは、気にしていないと言いながら、ちゃんと気にしている。


 それが分かることが、嬉しかった。


 璃生は日記を閉じた。


 今日も、図書館へ行こう。


 そう思いながら、支度を始めた。


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*(第十六章へ続く)*

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