第七十八話 オルケトラソロジー
「由美ちゃん。光野さんて、超優良物件だと思うよ」
真夏と志村は、金沢の白石邸でそろそろ眠りにつこうか、というところだ。
真夏は志村の布団に潜り込んで、先ほどから志村にしつこくこんな話を繰り返している。
あの激しい稽古の後、白石道場の師範である辰夫主宰の納会が執り行われ、その席で真夏は、光野が東京・目黒にある航空自衛隊幹部学校に入学すると聞いたのだ。
光野は航空自衛隊の指揮幕僚過程の学生に選抜されていた。
ここを優秀な成績で無事通過できれば、自衛官として高級幹部への将来が拓ける。
空将や空将補への道のりはその上にまだまだ大きな関門が存在するが、光野が選抜された指揮幕にさえ入学できない防衛大学校を卒業した幹部自衛官もまた存在するわけで、そういった意味では、光野は実に優秀な部類の航空自衛隊幹部自衛官であると言えるだろう。
日本の自衛隊の出世争いは非常に過酷である。
時折、テレビでコメントを出している元・将官クラスの人々は、ほとんどの一般人には想像もできないほどの苦労と勉強を重ね、その地位を自らのその努力と運で勝ち取ったサバイバルレースの勝利者であり、と同時に、わが日本国の総理大臣や防衛大臣が適任者と認め、天皇陛下による認証をも検討されている司令官の中の司令官だった人々なのである。
光野は、その地位に一歩を踏み出している。
「嫌よ。飛んだら命を懸ける、だなんて。そんなの鉄砲玉と変わらないじゃない」
ところが上記のように、志村の反応は薄かった。
「由美ちゃん。戦闘機に乗れる人間なんて、この世界にどれだけしかいないと思っているの? 国家は彼を信頼しているのよ? 鉄砲玉だなんて、ちょっとひどい言い方じゃないかな?」
「……認めるわ。確かにそれは言い過ぎたわ。それだと九州に行っちゃった修司さんも鉄砲玉になっちゃうし、ね。真夏」
「……光野さんね、たぶんなんだけど、そろそろF15に乗れなくなるんじゃないかと思うの、あたし」
「えっ? どういうこと?」
「由美ちゃん、気が付かなかった? あの人、お鍋をつつきながら目を細めていたのよ。何度も、何度も」
「……視力が落ちている、っていうことね?」
「うん。たぶん」
「矯正すれば大丈夫、なのじゃないの?」
「そうね、矯正すれば視力は維持できるわ」
「じゃあ、何が問題なのよ?」
「由美ちゃん。日村先生から教わった、光の屈折の話、覚えてるよね」
「うん」
「視力の低下ってね、そのほとんどが遺伝なの。遺伝レベルの問題を矯正するわけだから、必ず犠牲を払わなければいけなくてさ。メガネとかコンタクトで小さな文字は見えるようになるんだけど、その見え方が変わっちゃうのよ」
「……光の屈折で、物が小さく見えるようになる、ってことね?」
「そう。特にメガネだとそれが顕著になるのよ。裸眼でいる時とまったく距離感が違って見えちゃうの。戦闘機って音速を超える世界で生きるか死ぬかの判断をパイロットがする場でしょう? 彼ならそんなリスクを避けるはずだわ。だからさっきあたしが言った乗れなくなるは正確じゃないね。彼は乗らなくなるのよ。きっと、近いうちに」
「レーシックとかも駄目なの?」
「それはもう問題外ね。角膜にメスを入れたら、戦闘機乗りは一発でアウトよ。オルケトラソロジーですら危ないわ」
「オルケ……なんたらって何?」
「特殊なコンタクトレンズで角膜の歪み自体を矯正する方法よ。あまり日本では知られていないけどね」
「……ふーん。じゃあ彼は、それを見越して高級幹部への道を?」
「……はっきりとは聞けなかったけど。ファイターが学校に一年以上も通うって、そういうことなんじゃないかなあ……」
「……真夏って、本当に頭がいいのね」
「ふふ、どう? 少しはその気になった? 由美ちゃん」
「考えておくわ、真夏。……おやすみ」
「おやすみ、由美ちゃん」
真夏は志村の布団に入ったまま眠りについた。
(真夏が言うのなら、まず、間違いないのよね……)
志村は真夏の言葉を受け入れた。




