第七十六話 互角稽古
十二月二十九日、真夏は志村と共に白石道場の稽古を見学した。
この日の稽古は一年の締めくくりとなる稽古修めの日で、その門人のほとんどが道場へと姿を現し、師範である辰夫と共に、激しい稽古に汗を流した。
その門人の中には、当然、美紀と佐紀も含まれている。二人は門人たちの末席に連なって、一心不乱に中学生用の竹刀を激しく振るっている。
真夏も志村も剣にはまったくの素人ではあったが、二人が十歳の小学五年生とはいえ、その姿が他の門人に引けを取らないことだけは見ていてはっきりと分かることができていた。
「真夏。昨日のこと、あの子たち、佐紀ちゃんは真夏の万年筆を手裏剣みたいに投げて、美紀ちゃんは刃物男をあっという間に素手で気絶させたのよね? 今ここで、あの子たちは素振りをしているけど、この稽古だけであんなことができるようになるものなの?」
「うーん……。あたしも不思議なのよ。ただ、これは普通の剣道の稽古だわ。しゅうくんや真司が習っているのと同じものよ。でも、白石のお爺様は、あのお方はこの普通の剣道だけではなくて、無外流っていう古式剣術も遣われるはずなの。美紀と佐紀は、おそらくあの技をそこで覚えたんじゃないかしら……」
(いずれにしても、普通の剣道でも、その無外流っていう古式剣術でも、美紀と佐紀に、真司ではまず歯が立たないわ。さすがにしゅうくんなら今は勝てるかもしれないけれど、それは現時点での話ね。美紀と佐紀がこのままここで修行を重ねたとしら……、きっと、あの子たちはもっともっと伸びて、しゅうくんですら、打ち倒せるようになったのかもしれない……。あたしたちの責任は重大だわ。……ウチに来たことを、あの子たちに、絶対に、後悔させてはいけない……)
稽古は素振りから乱取りに移行した。
白石道場の四天王と呼ばれる四人、屈指の高弟が横一列に整列した。
門人はそれぞれに、思い思いにその高弟の前に並ぶ。これからその高弟に、門人たちは一対一での互角稽古を挑むのだ。
辰夫はその様子を高座から見守る。普段は柔和な辰夫が仁王像のようだ。
志村は辰夫のその姿に震えあがった。昨晩、養子縁組届の書き方を、
「わしも老眼がのう……」
などと教わっていた時の辰夫とは似ても似つかない別人だった。
高弟の一人に、白石邸の門内で、真夏たち山元家一行を出迎えた光野忠彦三等空佐の姿があった。
光野三佐は、自分の列に並ぶ佐紀の姿を見て静かに闘志を漲らせる。佐紀は列の最後尾に並んでいる。
(今日で最後。おれの全てをお嬢様にぶつけて差し上げよう……)
佐紀もまた、竹刀を握るその左手に力を込めている。
(光野さん。今日こそは一本、あなたから奪って見せる……)
白石の屋敷に引き取られて以来、佐紀は、この道場で七年の間に渡って修練を重ねたが、この光野から、佐紀は未だに一本を取れたことがない。いや、そもそも、まともに打ち込むことさえできていないのだ。
一方、美紀は、光野同様に門内で山元家を出迎えた水樹七海の列に並んでいる。美紀もまた、列の最後尾に付けていた。
水樹は一番後ろに佇む美紀を見つめながら、束ねていた髪をもう一度、きつくきつく結び直した。
(美紀ちゃん……。私を選んでくれたのね……。貴女の期待に、全力で応えてあげるわ)
普段は素っ気ない美紀であったが、この道場内にいる時だけは、人が変わったようによく声を出す。
太鼓が大きく鳴らされて、稽古修めの乱取りが始まった。
真夏と志村は、痺れていた足の痛みも忘れ、その様子に目を奪われた。
高台に座る仁王像が大音声で檄を飛ばし、高弟四人と、その高弟に一対一で立ち向かう門人がその激に応えて気合声を張り上げる。防具と竹刀が激しくぶつかり合い、白石道場は今、まさに戦場と化している。
この光景を、かの『秋山小兵衛』が見たらなんと言うであろうか。
門人の一人がもんどりうって真夏と志村の座る場所近くに転がってきた。
「立て! まだまだ!」
道場の羽目板に叩きつけられた門人が竹刀を杖に立ち上がる。
「うおおおおおおおおおお!!!」
真夏と志村は呆然としてその門人を目で追った。
その門人必殺の一撃が高弟の面を強かに打ち付けると、高弟は、
「お見事です。室井さん」
床で大の字になっている室井という名の門人の上達を一言で褒め称えた。
高弟との一対一、その順番は美紀の方に早く回ってきた。
水樹と美紀が睨み合う。水樹にとって美紀は実の妹のような存在であり、美紀にとっても水樹は実の姉のような存在だ。
水樹がこの白石道場に入門した頃、時を同じくしてこの美紀が佐紀と共に白石家へ引き取られてきた。共に新参者となった水樹とこの姉妹は、その後、姉妹弟子、となって激しい辰夫の稽古に耐え、稽古の終わりには美紀の部屋でお互いの身体に湿布を貼り合い、時にはこの姉妹と共に涙を流したこともある。
そして、今日このとき、二人は真剣勝負の機会を得た。
太鼓が鳴った。
真夏は思わず、声を上げて美紀を応援した。志村が真夏の声に驚いている。
水樹と美紀の勝負は一瞬で終わった。水樹の激しい突きを受けて、美紀もまた、羽目板まで叩きつけられた。
真夏が美紀を助け起こそうとすると、
「邪魔しないで! 真夏さん!」
水樹の厳しい声が真夏に飛んだ。真夏は一瞬だけ水樹に目を剥いたが、その立場をわきまえ、
「美紀。立ちなさい」
と、冷たく美紀に言い放った。
美紀はよろよろと立ち上がり、手放してしまった竹刀を探し始める。本物の真剣勝負ならば、その場で美紀は水樹に斬られていたか、もしも美紀の相手が水樹ではなく男性だった場合、美紀は着衣をはぎ取られてその身体に辱めを受けることになったとしても、今の彼女にはそれに抵抗など出来る力は残っていなかったであろう。
闘う以上、己の全てを賭ける。
真剣勝負とは、そういうものなのである。
それでも美紀は立ち上がり、勇敢に水樹へと立ち向かった。この後、美紀はその竹刀を巻き上げられること四回、その身体を床に叩きつけられること七回に及んだが、そのたびに、美紀は竹刀を探してはふらふらと立ち上がり、水樹に対してその竹刀を振り上げた。
水樹は心を鬼にして、そのたびに美紀を打ちのめした。
互角稽古が終わり、互いに礼を終えると、美紀は失神して床に倒れ込んだ。水樹は美紀を両手に抱き上げると、真夏の隣に美紀を運び、
「美紀ちゃんを、よろしくお願いいたします。真夏さん……」
と言い残して次の門人との稽古に向かっていった。
真夏と志村はその水樹を、またしても呆然と目で追った。
「ここまでするなんて……」
志村はつぶやいたが、真夏は美紀の額に手を当て、
「よくがんばったわね、美紀。水樹さんも……」
激しく呼吸を繰り返す美紀の力ない笑顔には、大粒の汗と涙が流れていた。
佐紀の置かれた状況は、さらに過酷だった。
光野忠彦三等空佐、彼は最年少で錬士・六段の称号・段位を持ち、辰夫自らの手で、無外流の薫陶をも受けている男である。
佐紀は、美紀のように竹刀を巻き上げられることも、床に叩きつけられることもなかったが、佐紀の正確な打ち込みを光野は躱し、時に竹刀で払いながら、佐紀の体力を奪っていった。
光野三佐は佐紀を弄んでいるわけではない。光野もまた、佐紀に対して有効な打撃を打ち込めずにいるのだ。
(あと二年……、一年でもいい。お嬢様方がここにいらして下されば……)
姉妹は光野と共に、その手に真剣を把って、無外流の剣技を辰夫からこの道場で学べたことであろう。
突進してきた佐紀を、光野が鍔迫り合いからの体当たりで弾き飛ばすと、佐紀は竹刀をその手に握ったまま、器用にバク転をして正眼の構えに戻った。
佐紀の目が闘志に燃えている。
(くそ! せめて、あと半年でもよいのだ……)
光野は佐紀から見て左前方に隙を見せ、そこに飛び込んできた佐紀の小手を軽く竹刀で斬った。
その感触を右手首に受けた佐紀は、光野を振り返り、
「参りました。光野さん」
と、真摯にその頭を下げた。




