第33話 機械の夢魔
朝、登校してすぐに実習室に向かった。
リオはまだ保健室で眠り続けていた。颯から昨夜メッセージが来ていた。
「意識はある。でも起き上がれないみたいだ」
急がなければならない。
葵は端末を開いた。神魔解析録を起動する。バクの項目。データは満ちていた。
散盟契約の魔法陣——生成完了。
昨夜のうちに、生成が終わっていた。あとは魔力を払うだけだ。
「ライラ」
「うん」
「行くよ」
「うん」
葵は魔法陣を展開した。光の輪が床に広がった。
バクが現れた。
中国の竹林で見たのと同じ姿だった。丸い体。短い象の鼻。青白く光る大きな目。
葵を見て、少し首を傾けた。
——あの時のバクだ。
「また来た」というような顔だった。
葵は目を閉じた。頭の中にリオの顔を思い浮かべる。保健室のベッドで眠り続けているリオ。あの声。「死ぬのが当たり前みたいな気がしてきた」。
バクの鼻が、葵の手のひらに触れた。
意識が、沈んでいった。
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暗い廊下だった。
前回と同じだった。出口のない石の廊下。壁に窓がない。天井が低い。
ただ、空気の質が違っていた。前回より、重かった。
葵は手のひらに意識を向けた。内側に、招く。
光の剣が現れた。前回より速かった。青白い刃が、廊下の暗さの中で静かに輝いている。
——ライラ。
光が温かく応えた。言葉じゃない。ただ、そこにある。
足音が聞こえた。遠くから、一定のリズムで。金属の音が混じっている。
来る。
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廊下の奥から、何かが歩いてきた。
人の形をしていた。ただ、人の形ではなかった。
長い髪が、重力に逆らって広がっていた。顔に、目が四つ。額に、角。
腰から下が、機械だった。二本の鋼の脚が、石畳を支えていた。膝の関節に金属の節があった。歩くたびに、低い駆動の音がした。
古い夢に巣食う者の名を、葵は思い出していた。経典は数種の名でこれを記す。あるいは夢魔。あるいは魘魅。あるいは——眠りそのものに食らいつく形のないもの。
ただ、今ここにあるものは、その名のどれにも完全には当てはまらなかった。神話の頁から零れ落ちて、機械に縫い合わされていた。
リオの夢が、この形に縫い上げたのか。
それとも、リオの夢を縫い上げているのが、この形なのか。
葵には、わからなかった。
四つの目が、葵を捉えた。
口が開いた。
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何かが飛んできた。
葵は横に跳んだ。間に合わなかった。
正面から、食らった。
——眠い。
おかしかった。戦闘中に、眠気が来た。瞼が落ちようとする。膝が、緩んだ。
葵は手のひらの剣を見た。
迷わなかった。
左手で切っ先を取って、右腕に浅く刺した。
痛みが走った。
眠気が、退いた。
血は出なかった。夢の中だから。でも痛みはあった。痛みは意識を保つ。
——眠らされたら、終わる。
夢魔が一歩、踏み出した。鋼の脚が石畳を踏んだ。踏むたびに床が割れた。
葵は剣を構えた。右腕が痛い。それでいい。
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夢魔が鋼の脚で地面を蹴った。
速かった。石畳が割れた。
葵は光の防壁を展開した。上級光防壁。光属性の最大の盾。
光が、それぞれの位置に、寸分の狂いもなく立った。
夢魔の脚が、それを蹴った。
砕けた。
光の破片が散った。葵の体が吹き飛ぶ。廊下の壁に背中から叩きつけられた。
衝撃で、手のひらの剣が離れた。
剣が床に落ちた。青白い光が廊下の石畳の上で揺れた。
息が詰まった。立ち上がろうとした。剣が遠かった。
「——呼んで」
ライラの声が聞こえた。
「呼んで、葵」
葵は手のひらを向けた。内側に意識を向ける。ライラの温かさを感じた。招く。
剣が、手のひらに戻った。
落としても、戻せる。手放しても、消えない。魔力の塊だから、再び意識を向ければ手元に現れる。
葵はもう一度剣を見た。
魔力でできている。だとすれば、形も変えられるはずだ。
試した。意識を剣に向けたまま、形を変えようとする。刃が揺れた。長さが変わった。伸びた。縮んだ。
——できる。
夢魔がまた近づいてきた。
葵は剣を短くした。鋭く、細く——短剣の形。
右上の目を狙って投擲した。刃が目に刺さった。夢魔が動きを止めた。一瞬だけ。
葵は手のひらを向けた。招く。剣が戻った。
葵は剣を変えた。長い柄。重い頭。槌の形。魔力を大きく込めた。
夢魔の頭部に向かって飛び、槌を振り下ろした。
槌が角に当たった。
骨と金属が混じったような音がした。角が、欠けた。
欠けた断面は、白かった。白いまま、まだ髪を支えていた。
夢魔が体勢を崩した。
葵は後退した。距離を取る。
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夢魔がまた口を開いた。
眠りが、連続して飛んできた。
葵は走りながら回避した。左。右。一発が肩をかすめた。
眠気がまた来た。
葵は右腕の傷を押さえた。
痛みが来る。眠気が退いた。
——次に食らったら、深く刺すしかない。
終わらせる。
剣をナイフの形に変えた。小さく、速く。体ごと回転しながら夢魔に近づいた。
夢魔の脚が葵を蹴ろうとした。
葵はそれをくぐった。
至近距離。背中に回り込む。
回転しながら、魔力を一気に込めた。
ナイフが、変わった。伸びた。広がった。大剣の形。
刃が、夢魔の肩から腰までを——機械の部分と人体の部分を分かつ境界を——一直線に断った。
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鋼の脚が、傾いた。
二本のうちの一本が、独りで、石畳に倒れた。
長い髪が、ほどけた。
ほどけたまま、まだ重力に逆らっていた。
ただ、それは、もう夢魔の髪ではなかった。
体が、縦に分かれた。
裂け目の奥に、何もなかった。
夢魔が、消えた。
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静かになった。
葵は大剣を消した。手のひらが熱い。一度に込めた魔力が多すぎた。
肩が痛んだ。かすった眠りの影響がまだ残っている。意識は保っているが、どこかが重い。
——倒した。
でも、倒したことで何かが解決したのかは、まだわからなかった。
意識が、引き戻される感覚があった。
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目が開いた。
いつの間にか来ていた颯が「大丈夫か」と言った。
「うん」
葵は少し間を置いてから立ち上がった。右腕が少し重い。夢の中の感覚が体に残っていた。
「倒した」
颯が「リオは?」と聞いた。
「わからない。でも、悪夢が続く理由はなくなったと思う」
颯は何も言わなかった。ただ、バクを見た。
バクはあくびをして、元の世界に帰っていった。
「保健室に行ってみよう」
葵は言った。
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保健室の扉を開けると、カヴィヤがいた。葵と颯を見て、小さく頷いた。
「よかった」
それだけだった。
ベッドの上にリオがいた。眠っていた。
でも、顔色が違った。静かで穏やかだった。
颯が「眠れてるな」と小さく言った。
「ええ」
カヴィヤが言った。
「さっきから呼吸が落ち着いてきたの。魔力反応も安定している」
葵は保健室を見渡した。
壁に魔法陣が刻まれた機材が並んでいた。棚には触媒の瓶。ベッドの脇に設置された装置が静かに光っている。普通の病院とは違う。アカデミア・アルカナの保健室は、魔法由来の症状を持つ患者のための設備が整っている。
リオの手首に、細い光のラインが走っていた。魔力の計測だろう。数値が安定していた。
「しばらく休ませてあげて」
カヴィヤが言った。「体が回復すれば、自分で目を覚ます」
颯がリオのそばの椅子に座った。離れるつもりはない、という座り方だった。
葵はカヴィヤを見た。
「……ありがとうございます」
ありがとう、と葵は本当に思った。
カヴィヤが葵の顔を見た。穏やかな目だったが、どこか心配そうな色があった。
「あなたも、無理しないで」
葵は少し間を置いてから「はい」と言った。
扉を出た。
右腕はまだ少し重い。でも、助けられてよかった。
ライラが胸元で、温かく揺れた。
大切だ、と葵は思った。




