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第21話 引っ越しと合一

放課後、葵が教室を出ようとしたとき、廊下でアーデルが待っていた。


珍しかった。アーデルが生徒を廊下で待つことは、葵の知る限りなかった。


「小春」


「……はい」


「少し時間はあるか」


葵は颯に「先に帰ってて」と言った。


颯は葵とアーデルを交互に見て、「わかった、またメッセージして」とだけ言って歩いていった。


茜は少し間を置いてから、何も言わずに颯の後を追った。


ただ曲がり角で一度だけ振り返って、葵を見た。


葵が頷くと、茜は前を向いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


北棟の端の談話室は、普段は鍵がかかっている。アーデルは迷わず開けた。


テーブルが一つ。向かい合わせのソファが二つ。それだけの部屋だった。


アーデルがソファに腰を下ろした。葵も向かいに座った。


「今日、警察が来たな」


「はい」


「聴取の内容は聞いた」


葵は「誰から」とは聞かなかった。聞く必要がない気がした。


「お前、今は一人暮らしか」


「……はい。親がスウェーデンの会社に赴任していて。妹も一緒に」


「いつからだ」


「入学の少し前から。半年ほど」


アーデルが少し間を置いた。


「昨日の件が同じ勢力によるものなら、また来る可能性がある」


「……そうですね」


「一人でいる方がリスクが高い。教員寮に移れ。私の部屋の隣が空いている」


葵は「え」と言いかけて、飲み込んだ。


「もしくは、ハルトマンの部屋でもいい。あちらは角部屋で広い」


ハルトマンの顔が浮かんだ。大柄。傷跡。朝の素振りの音。


「……アーデル先生の隣でお願いします」


「そうか」


アーデルはそれ以上何も言わなかった。表情も変わらなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


オールドクォーターの路地は、夕方の橙色に染まり始めていた。


葵の家は中でも少し奥に入ったところにある、石造りの古い集合住宅だった。


アーデルは感想を言わなかった。


昨夜の路地の近くを通ったとき、一度だけ足を止めて周囲を見た。


部屋に入ると、アーデルは入口近くに立って葵が荷物をまとめるのを待った。


「慣れているんだな、一人で」


「まあ……半年経ったので」


「寂しくはなかったか」


葵は少し考えた。


「ライラが居ましたから。……でも、夜は少し」


「そうか」


アーデルはそれ以上聞かなかった。


葵は何日か分の着替えと教科書、魔法の練習道具を鞄に詰めた。


「行けるか」


「はい」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


石畳に二人分の足音が響いた。


荷物はアーデルが半分持った。


葵が「いいです」と言ったが、アーデルは黙って持った。


「先生」


葵が口を開いた。


「昨日の傭兵なんですが、戦っていて気になったことがあって」


「言ってみろ」


「傭兵たちが、詠唱なしで魔法を使っていました。防護膜を展開するときも、攻撃を放つときも」


アーデルが前を向いたまま、少し間を置いた。


「上級傭兵か」


「そう聞きました」


「ありうる」


葵は続きを待った。


「魔法具で補完する方法がある」


「魔法具」


「高額だが、詠唱を肩代わりする道具がある。傭兵はコンマ一秒で生き死にが変わる」


「……」


「だが——採算が合わない」


アーデルが先に言った。葵は顔を向けた。


「そう思っていました」


「上級傭兵を三人。高額な魔法具。一年生の学生を消すコストではない」


「はい」


「もう一つ、ありうる」


「はい」


「合一だ」


葵の歩幅が、一瞬乱れた。


「……合一」


「知っているか」


「名前だけ。授業ではまだ出てきていないので」


アーデルが少し間を置いてから、淡々と話した。


「契約者と神魔が、一時的に一つの存在になる。古い契約の中でも、最も深い段階だ」


「……一つに」


「長い鍛錬と、深い契約が要る。一朝一夕にはできない」


「できれば、詠唱は」


「いらなくなる場合がある。意思が一致しているからだ」


葵は頭の中でその言葉を転がした。


——神魔の意思と、術者の意思が、一致する。


ライラが胸元で、じっと静かにしていた。


「相当な年月のかかる傭兵の話だ。だが、昨夜の動きの説明にはなる」


「……先生は、できるんですか」


アーデルが少し間を置いた。


「私の契約神魔は、口が重い」


答えとも言えず、答えでないとも言えない返し方だった。


「お前さえよければ、教えてやる」


葵は少し驚いてアーデルを見た。


「……合一、をですか」


「基礎からだ。すぐにできるものではない。ただ、知っておいて損はない」


「なぜ、僕に」


アーデルは葵の方を向かなかった。


「ライラが、お前の胸元で八年、光っている」


「はい」


「そういう関係は——形にしてやった方がいい場合がある」


葵はその言葉の奥に、何かがあるような気がした。


「……お願いします」


アーデルが小さく頷いた。


「急がなくていい。ライラと話しながら、少しずつやる」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


教員寮は校舎の北側にある、石造りの低い建物だった。


アーデルの部屋は二階の廊下の突き当たり。


その隣の部屋の鍵を受け取って、葵が中に入った瞬間、冷たい空気が流れてきた。


部屋が、暗かった。


暗いだけでなく、冷えている。壁際の暖房器具のパネルが赤く点滅していた。故障を示すサインだった。


葵がパネルを触った。何も反応しなかった。


「……先生」


廊下からアーデルが覗いた。赤い点滅を見て、少し間を置いた。


「古い棟だ。よく壊れる」


「修理は」


「業者は明後日しか来られないと聞いた」


九月とはいえ、夜のアルカディア島は海風が入ると冷える。暖房なしで二日は、少し厳しい。


葵はパネルを見て、それからアーデルを見た。


「……大丈夫です。着込めば」


「シャワーも確認してみろ」


葵がユニットバスの扉を開けた。蛇口をひねった。


水が、出なかった。


配管の問題らしかった。壁のパネルに「断水中」の文字が小さく出ていた。


葵は少しの間、蛇口を見ていた。


「……先生」


「わかった」


アーデルはそれだけ言った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


アーデルの部屋は、隣室より一回り広かった。


ダイニングを兼ねたリビング。その奥に二つの扉。アーデルの寝室と、もう一部屋。暖房は生きていて、シャワーも問題なく出た。


「お前は、こっちを使え」


アーデルが奥の扉を開けた。荷物を置く分には十分な広さの部屋だった。机と、空の棚。


「寝るのはリビングのソファベッドにしろ。夜は冷える。あっちの方が暖房の効きがいい」


「……はい」


葵はリビングに戻った。


ソファは二人掛けのものだった。背もたれを倒せばベッドになる仕様らしかった。


すでに、シーツが置いてあった。


葵が立ち止まった。


シーツに、皺がなかった。


ライラが胸元で、かすかに揺れた。


葵は荷物を奥の部屋に置きに行った。


「狭いか」


戻ってきた葵に、アーデルが声をかけた。


「……いえ、僕、小さいので」


アーデルが少し葵を見た。表情は変わらなかった。


「そうか」


本棚に、分厚い本が並んでいた。魔法理論の専門書、契約論、古い戦史の記録。一番端に、薄い詩集が一冊だけ、少し斜めに挿さっていた。


なんとなく、目が止まった。


でも何も聞かなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


テーブルの上に、温めた缶詰とパンが置かれた。


大したものではなかった。でも葵は「ありがとうございます」と言って、食べた。


「食事は自分でどうにかしろ。ただ、当面は一緒に食べる方が都合がいい」


「はい」


「朝は五時半に起きる。お前は気にしなくていい」


「……わかりました」


食べながら、ぼんやりと思った。


ハルトマンだったら夜明け前に起こされていたかもしれない。


食事が終わると、アーデルは本棚から一冊取って、リビングの椅子に腰を下ろした。


葵がいることで、何かを変えるつもりはないらしかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ライラが胸元から顔を出した。


「狭いね」とライラが言った。


「うん」


「でも暖かい」


「うん」


ライラはしばらく部屋を見回した。


本棚を見て、本を読むアーデルの横顔を見て、また葵の方に顔を向けた。


「合一……」


「うん」


「葵は、したいの」


「したい。ライラと一緒なら」


ライラはすぐには答えなかった。しばらくして、小さく言った。


「……する」


「うん」


ライラが胸元で、頷くように揺れた。


葵は天井を見た。遠くで海風が建物を鳴らしていた。


紙をめくる音がした。


アーデルはまだ本を読んでいた。葵はその気配を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。

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