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第22話 演習前と準備

 五時半に、アーデルが起きた。


 葵は気づいていた。眠れていなかったわけではない。ただ、誰かと同じ部屋にいる感覚が、体にまだ馴染んでいなかった。


 アーデルは音を立てなかった。起き上がる気配、水を使う音、書類をめくる音。最低限の音だけが、静かな部屋に溶けていた。


 葵はしばらくそれを聞いていた。


 ——悪くない、と思った。


「起きているなら、顔を洗ってこい」


 アーデルが言った。葵の方を見ていなかった。机に向かったまま、書類に何かを書いていた。


「……起きてるのわかってたんですか」


「呼吸が変わっていた」


 葵はそれ以上何も言わずに、洗面所に向かった。


 鏡の中の自分の顔は、思ったより普通だった。何も残っていなかった。


 水が冷たかった。


 ライラが胸元で、ゆっくりと目を覚ます気配がした。


「おはよう」


「おはよう、ライラ」


「……よく眠れた?」


「まあまあ」


「先生は?」


「もう起きてる」


 ライラがくすりと笑った気配がした。


――――――――――――――――――――


 朝食は、アーデルがまた缶詰とパンを出した。昨夜と同じだった。


「先生、いつもこれですか」


「何か不満か」


「不満じゃないですけど……」


「料理はしない」


「……わかりました」


 葵は黙って食べた。ライラが胸元から顔を出して、パンのかけらをもらった。アーデルはそれを見て、何も言わなかった。


「今週末だな」


 アーデルが言った。


「演習が」


「……はい」


「準備はできているか」


 葵はパンを手に持ったまま、少し考えた。


「わからないです。何が出るかも、自分がどんな結果を出すかも」


「正直でいい」


「先生は……どうなると思いますか」


 アーデルは少し間を置いた。


「見てみないとわからない」


 それだけだった。でもその言い方は、突き放しているのではなかった。ただ、結果を先に決めない、そういう意味だと葵にはわかった。


「当日は、自分とライラだけを見ろ。余計なことを考えるな」


「はい」


「それだけでいい」


――――――――――――――――――――


 学校に着くと、颯がすでに教室にいた。珍しかった。いつもぎりぎりか遅刻かのどちらかだ。


「早いね」


「なんか今日は早く起きた」と颯が言った。「葵、昨日どこ泊まったの」


「学校の寮」


「え、なんで」


「ちょっと色々あって。しばらくそっちにいる」


 颯は少し間を置いた。


「……一人でいるの、危ないから? 昨日の傭兵の件で」


「まあ、そんな感じ」


「誰と?」


「アーデル先生の部屋」


 颯が固まった。


「え」


「設備が壊れてて隣の部屋が使えなかった」


「……それで先生の部屋に?」


「うん」


 颯はしばらく葵の顔を見ていた。何か言いたそうだったが、結局「まあ、葵が安全ならいいか」と言って前を向いた。


 茜は葵が来たとき、いつもと同じように「おはよう」と言った。それだけだった。でも葵の顔を、少しだけ長く見ていた。


「アーデル先生の部屋にいるんだって」と颯が言うと、茜は少し間を置いた。


「……そう」


「うん」


「葵が、安心できるなら」


 それだけだった。でも茜の声の端が、いつもより少しだけ平坦だった。


――――――――――――――――――――


 その日の授業は通常通りだった。


 ただ——廊下を歩くとき、食堂で食事をするとき、葵はいつもより視線を感じた。


 傭兵を倒した話が、どこかから広まっていた。


 颯が昼休みに「お前有名人になってるじゃん」と笑った。葵は「やめてほしい」と答えた。


――――――――――――――――――――


 午後の魔法工学の授業で、リースが教室に入ってきた。


 いつもと同じだった。長身、両袖だけまくれたスーツ、無表情に近い顔。でも葵には——今朝の応接室での会話が頭に残っていた。


 「知らない」という、あの速さが。


 リースは授業を始めた。今日の内容は魔法陣の設計論だった。術式の構造をどう最適化するか、どこを省略できるか——詠唱なし魔法の原理に近い話だった。


 葵はノートを取りながら、時々リースの肩の近くを見た。


 光は、なかった。


 授業中はオルタがパネルの中にいる。でも昨日の応接室では、パネルなしで光が浮かんでいた。


 ——あれは何だったのか。


 授業が終わった後、リースが葵を呼び止めた。


「小春」


「はい」


「演習の件だが」


「……演習?」


「今週末のクラス分けだ。見ている人間は多い。余計な力みは要らない」


 葵はリースの目を見た。いつもの「少し笑っているような」目だった。


「それだけです」


 リースはそれだけ言って、先に教室を出た。


 ライラが胸元で、静かに光を揺らした。何も言わなかった。でも葵には、ライラが何かを測っているのがわかった。


――――――――――――――――――――


 演習の前日の夜、葵はアーデルの部屋のソファベッドに横になって、天井を見ていた。


 アーデルはいつものように机に向かっていた。ペンを走らせる音が、静かに続いていた。


「先生」


「何だ」


「緊張、って、どうすればなくなりますか」


 アーデルはペンを止めた。少し間を置いてから、振り返らずに答えた。


「なくならない」


「……そうですか」


「緊張は、なくすものではない。そこにあるまま、動くものだ」


 葵はその言葉を、頭の中で転がした。


「先生も、緊張しますか」


「する」


「どんなときに?」


 少し長い間があった。


「大事なものが、そこにあるときだ」


 アーデルはそれだけ言って、またペンを動かし始めた。


 葵はライラを胸元に感じながら、目を閉じた。


 ——大事なものが、そこにあるとき。


 ライラが、温かく光った。


 葵は静かに、眠りに落ちた。

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