第20話 オルタの光
月曜の朝は、いつもより静かだった。
葵が仮クラスの教室に着いたとき、颯はまだいなかった。茜は窓際の席に座って、外を見ていた。葵が入ってきたのに気づいて、こちらを向いた。
「おはよう、葵」
「おはよう」
葵は自分の席に荷物を下ろした。ライラが胸元で静かに揺れている。今朝は珍しく、ほとんど喋らなかった。
「昨日、大丈夫だった?」
茜が言った。葵は少し間を置いた。
「うん、なんで?」
「……なんとなく」
茜は葵の顔をしばらく見ていた。それから、また窓の外に視線を戻した。「何か、あったの」という問いではなかった。知っているかのような、そういう静けさだった。
葵は何も言わなかった。
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颯がやってきたのは一限の直前だった。
「遅い」と葵が言うと「いや起きたら遅かったんだよ」と颯が息を切らしながら答えた。
「昨日何してたの」
「なんか、リオと話してたら長くなって」
「リオと?」
「うん。最近ちょっと、気になってて」
颯は席に着きながら言った。それ以上は続けなかった。葵も聞かなかった。
一限が始まった。
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呼び出しが来たのは、一限と二限の間の休み時間だった。
廊下に出ると、見慣れない大人が二人、案内の教師と並んで立っていた。制服ではない。こういう場所には似合わない、地味な色のジャケット。腰に端末を提げている。
警察だ、と葵はすぐわかった。
「小春葵くん?」
「はい」
「昨日の件で、少し話を聞かせてもらえますか」
葵は頷いた。ライラが胸元でわずかに緊張した気配がした。
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案内されたのは、校舎の端にある応接室だった。企業スカウトの面談に使われる部屋だ。葵は一度だけここに来たことがある。
扉を開けると——先客がいた。
リースだった。
長身。スーツの両袖だけまくれている。窓際に立って、外を見ていた。葵たちが入ってきても、すぐには振り返らなかった。
「先生が……?」
葵は思わず口に出した。警察の人を見ると、少し困ったような顔をした。
「ご担当の先生に同席をお願いしました。今回は魔法戦闘が絡む案件でしたので、魔法工学の……」
「リース先生、なんですか」
リースがゆっくりと振り返った。目が、葵を見た。
「座りなさい」
それだけだった。
葵は言われた通りにソファに腰を下ろした。警察の二人も腰を下ろした。リースは座らず、窓際に立ったままだった。
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聴取は三十分ほどかかった。
昨夜、葵がどこにいたか。どういう経緯で傭兵三人と遭遇したか。どのような方法で無力化したか。怪我はないか。葵は順を追って答えた。
警察の二人は淡々と端末に記録していた。時々、確認のために同じ質問を角度を変えて繰り返した。葵はそのたびに同じ答えを返した。
その間、リースは一度も口を挟まなかった。
ただ立っていた。窓際に。葵の斜め後ろの位置から、葵を見ているような、見ていないような——そういう立ち方で。
聴取が終わりに差しかかった頃、警察の一人が言った。
「上級傭兵三人を、一年生が単独で無力化した。確認している事実はそれだけです。不自然な点は……まあ、正直ありますが」
「なんですか」
「傭兵の依頼者が特定できていません。今のところ、依頼者不明です」
葵はその言葉を、静かに受け取った。
「……そうですか」
「何か心当たりは?」
「ないです」
警察の男は少し間を置いてから頷いた。「わかりました。また連絡することがあるかもしれません」
それで聴取は終わった。
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警察が出ていくと、担任も「何かあれば」と言い残して部屋を出た。
応接室に、葵とリースだけが残った。
葵はソファに座ったまま、少し待った。リースは動かなかった。
「……先生が来たのは、なぜですか」
葵が聞いた。
リースは窓の外を見たまま、少し間を置いてから言った。
「魔法戦闘の証言には、魔法工学的な精査が必要なこともある。学校側の担当として来た」
「アーデル先生じゃなくて?」
「ちょうど、空いていたので」
その答えは自然だった。でも葵には——なんとなく、何かが足りない気がした。説明として間違っていない。でも聞いた質問に答えている、という感じだった。
ライラが胸元で、じっと静かにしていた。悪意を感じているわけではない。でも何かを測っているような気配だった。
「……君は」
リースが口を開いた。ゆっくりと葵の方に向き直った。目が、葵を見た。いつもの「少し笑っているような」目ではなかった。真剣な、静かな目だった。
「怖くなかったか」
葵は少し間を置いた。
「……怖い、とは思わなかったです」
「そうか」
リースは葵の顔を、もう少し見ていた。
「手が、震えなかったか」
「震えませんでした」
「……そうか」
それだけだった。
窓の外、校庭の方向から、授業前の生徒たちの声が聞こえてきた。
「先生は……」
葵は言いかけた。何を聞こうとしたのか、自分でもわからなかった。
「何?」
「いえ……なんでもないです」
「聞きたいことは、聞いた方がいい」
リースはそう言って、また窓の外を向いた。
「聞いても答えない場合はある。でも聞かなければ何も始まらない」
葵はその言葉を、頭の中で転がした。
——聞いても答えない場合はある。
それは、答えないことがある、と最初から宣言しているような言い方だった。
「……なぜ、体が動き方を知っているんでしょうか」
葵が言った。「ずっと思っていたことなんですが。剣も、魔法も——誰かに教わったわけじゃないのに、最初から体が知っている気がして」
応接室が静かになった。
リースは葵の方を見なかった。窓の外を向いたまま、少しだけ目を細めた。
「夢を見るか」
予想していなかった質問だった。
「……見ます。内容は、覚えていないんですが」
「そうか」
「先生は、何か——」
「知らない」
リースは遮った。でもその「知らない」は、あまりにも早かった。葵が最後まで言い終わる前に来た。
ライラが、胸元でほんのわずかに光を揺らした。それだけだった。
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応接室を出る直前、葵はもう一度だけ振り返った。
リースは窓際に戻っていた。葵には背を向けていた。
その肩の近く——空中に、ぼんやりとした光が揺れていた。
青白い、小さな光の輪郭。
オルタだ、と葵は思った。リースが連れているAIの補佐。授業のときは黒板の隣のパネルに映っている。でも今は、そこにパネルはない。
なのに光がある。
リースの肩の近くで、ゆっくりと揺れている。
葵はそれを見ていた。
オルタの光が、一瞬、葵の方を向いた気がした。
気のせいかもしれない。輪郭だけの光に、向くも向かないもないかもしれない。
でも葵には——その光が、何かを見ているように感じた。
「葵」
リースが、背を向けたまま言った。
「気をつけて帰れ」
葵は少し間を置いた。
「……はい」
廊下に出た。扉が閉まった。
石造りの廊下は静かで、葵の足音だけが響いた。
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教室に戻ると、颯がすぐに気づいた。
「何があったの」
「警察の聴取。昨日の件」
「……え、昨日って何があったの」
「傭兵に絡まれた。倒した」
颯が固まった。
「え? 待って、全部聞かせて」
「あとで」
葵は席に着いた。ライラが胸元で、小さく動いた。
「リース先生……」
ライラが、ぽつりと言った。
「悪い感じはしなかった」
「うん」
「でも」
「うん」
葵もそう思っていた。悪意はなかった。ライラの感知もそう言っている。でも——「知らない」と言ったあの速さが、どうしても頭に残っていた。
答えないことがある、と最初から言った人間の「知らない」だった。
ライラは何も続けなかった。胸元で静かに光を揺らすだけだった。
二限の予鈴が鳴った。
葵は教科書を開いた。窓の外、朝の光の中にアルカディア島の中心部が白く輝いていた。




