第18話 帰り道
オールドクォーターの駅は、中心街から三十分ほどかかる。
モノレールを降りた頃には、空はすでに深い橙色に染まっていた。
セレンとは駅の手前で別れた。
「また明日」
それだけ言って、セレンは別の方向へ歩いていった。振り返らなかった。でもその背中は、どこか今日という日を引きずっているように、葵には見えた。
——気のせいかもしれないけれど。
ライラが胸元でゆっくりと動いた。
「楽しかった?」
「うん」
「セレン、思ったより笑うんだね」
「笑ってたっけ」
「笑ってた。葵が気づいてないだけ」
葵はそれに何も言わなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
路地に差しかかったとき、ライラが静かになった。
急に、だった。さっきまで胸元でほんのりと温かかった光が、すっと引いた感じがした。
「……ライラ?」
返事がない。
葵は立ち止まった。
路地の両端に、人影があった。
二人。
いや——
背後にも、気配があった。
振り返ると、三人目がそこにいた。
三人とも、黒いコートを着ていた。フードを深く被っていて顔がよく見えない。体格はそれぞれ違う。真正面にいる男が一番大柄で、背後にいた男が最も細身だった。右手の男が、ぼそりと言った。
「こんなガキ一人、殺すのに俺たちが必要なのか」
大柄な男——リーダーらしい——が低い声で返した。
「無駄口を叩くな。最低でも上級光魔法使いだと思え」
「でも」と細身の男が言った。「契約しているのがよりによってピクシーだろ」
少し間があった。
「……それにしても、顔可愛いなあ。殺した後、持って帰っていいか?」
葵の背筋が、冷たくなった。
でもそれ以上は、何も来なかった。
静かで、冷えた、感情の凪のようなものが、葵の中に広がっただけだった。
葵はカバンに手を入れながら、端末を取り出した。警察に通報する。それが最初にやるべきことだ。
画面を開いた。
圏外、とある。
——繋がらない。
端末を見たまま、葵は状況を整理した。三方を塞がれている。路地の幅は狭い。魔法で突破しようとすれば、三人同時に対処しなければならない。逃げる方向がない。
リーダーが一歩前に出た。
「悪いな。仕事なんでな」
その声は、謝罪ではなかった。
葵はカバンを地面に下ろした。
中に手を入れた。
クラウ・ソラス・レプリカの柄が、手のひらに収まった。
もう一方の手で、アリアから受け取った拳銃を握った。
「……拳銃まで持ってるのか」と右手の男が嘲るように言った。
「黙れ」とリーダーが言った。「構えろ」
——なぜ、持ち歩いていたのだろう。
今朝、鞄に入れたのは葵自身だ。誰かに言われたわけでも、義務があるわけでもない。
まるで、今日これが必要になると——知っていたかのように。
三人が動いた。
葵は考えを止めた。今ここで考えることではない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最初に動いたのは右手の男だった。
魔法陣が展開された——光属性への対抗を想定した、闇寄りの防御魔法だった。黒紫の膜が男の体を薄く包む。
ライラが葵の胸元で鋭く揺れた。
葵はそれを感じた瞬間、体が動いていた。
拳銃を構えた。魔力弾を装填する詠唱はしない。意図するだけでいい——銃身の魔法陣が青白く発光した。
引き金を引いた。
光の弾が、まっすぐに飛んだ。
黒紫の防護膜に当たった。
——通る。
光属性への防護のはずだった。だが魔力弾は属性よりも先に「物理の弾丸」として機能した。防護膜が揺らいで、弾丸が膜を貫いた。男の右肩が吹き飛び、膝をついた。
「なっ——」
細身の男が横から踏み込んできた。短刀を構えていた。
ライラの光が左に傾いた。
葵は半歩引いて、軌道から外れた。体が知っていた——どこに足を置けば次に繋がるかを、夢の中で何度も刻んだように。
細身の男の懐に入った。
クラウ・ソラス・レプリカを、逆手に持ち替えた。柄頭で鳩尾を打った。
柄頭から光の衝撃波が出て、男が息を詰めて折れた。
そのまま後頭部に柄頭で衝撃波を入れた。男が崩れた。
倒れた。
二秒も経っていなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
リーダーが動いた。
今度は魔法だった。
闇属性の圧力が広がった——周囲の光が吸われるような、重い感覚。葵の視界がわずかに暗くなった。
ライラが葵の胸元で光を強めた。小さな体から放たれる光が、闇の圧力を押し返す。完全にではない。でも少し、視界が戻った。
リーダーは大柄だった。近づけば力で押し切られる。
葵は拳銃を向けた。
リーダーが横に跳んだ。速い。熟練の戦士の体術だった。
葵は照準を追った——追いながら、足を踏み出した。
リーダーは拳銃を警戒したのか、射線から大きく身を躱し、上級範囲闇魔法で反撃しようとした。
ライラの光が急激に強まった——壁。
——光よ、砦となれ。フォルティス・ルクス。
リーダーは躱そうとした速度のまま、突如出現した光の大壁に激突し、一瞬足が止まる。
チャンスだ——フォム・タークから踏み込む。
リーダーが反射的にコンバットナイフを抜いた。受ける体勢を取った——その瞬間、葵は止めた。フェイントだ。右に流れながら、拳銃を脇腹に向けた。
引き金を引いた。
光の弾が、至近距離で炸裂した。
リーダーが吹き飛んだ。壁に背中を打って、ずるりと崩れた。
動かなくなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
路地に、静寂が戻った。
三人とも、倒れている。
息はある。全員、気絶しているか、動けなくなっているかのどちらかだった。
「……お前」
声がした。
最初に右肩を撃った男だった。まだ意識があった。吹き飛んだ右肩を押さえたまま、葵を見上げていた。
「お前、何なんだ」
葵はその目を、静かに見返した。
「……俺たち、上級傭兵だぞ。光属性対策もしてた。なのに……」
男が息を荒らげながら続けた。
「ピクシーと、ガキ一人に……」
葵は何も言わなかった。
男がそのまま、意識を手放した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
葵はしばらく、その場に立ったまま動かなかった。
拳銃を下ろした。クラウ・ソラス・レプリカを収めた。
路地に三人が倒れている。自分の手でそうした。
人を傷つけた。初めて、実戦で。
でも手が震えていない。心臓が乱れていない。頭が冷えたまま動いている。
おかしいはずだった。初めて人を倒したのに、手が震えていない。
——ライラが教えてくれた。どこに撃つか。どこに動くか。
自分だけだったら、こうはいかなかった。それは分かった。でも——ライラはなぜ知っていたのだろう。
ピクシーが、上級傭兵の動きを読めるはずがない。なのにライラは、迷わなかった。
そこまで考えて、葵は頭の中を静かにした。
葵は端末を開いた。
まだ圏外だった。
路地を出た。少し歩いたところで、アンテナが一本立った。葵は警察の緊急番号に繋いだ。
「……路地で三人倒れています。武装した傭兵だと思います。場所は——」
通報を終えて、端末を閉じた。
夜の空気が、じわりと体に染みてきた。
「……ライラ、ありがとう」
ライラが胸元で静かに揺れた。
「うん。葵が危なかったから」
少し間があった。
「……ライラは、なんであんなに分かったの」
ライラの光が、一瞬だけ揺れた。
でも何も言わなかった。
葵は聞き返さなかった。
——知っているのかもしれない。
何を。
なぜ葵の体が、戦い方を知っているのかを。
でもライラも今は、何も言わなかった。
葵は歩き出した。
家まで、あとそれほど遠くない。オールドクォーターの夜は静かで、街灯の光が石畳に伸びている。どこかの家から、夕食の匂いがした。
いつもと変わらない、帰り道だった。
でも葵の手のひらには、さっきまで銃を握っていた感触がまだ残っていた。
——僕は、何なんだろう。
葵はただ、家に向かって歩き続けた。




