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第16話 礼拝堂

土曜の二限は魔法実戦演習だった。


防御魔法と攻撃魔法を交互に打つ練習をした。颯が途中で防御のタイミングを読み違えて吹き飛ばされた。茜は相変わらず、実力の見えない動きをしていた。


授業が終わり、颯と茜がモノレールへ向かう流れの中で、葵は少し立ち止まった。


「先に帰ってて」


「どうした?」と颯が振り返った。


「学園長先生に聞きたいことがあって」


颯は少し考えてから「わかった」と言った。茜は葵を一瞬見て、それから前を向いた。


「気をつけて」


それだけだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


授業の合間に事務室で聞いた。——礼拝堂にいることが多い、と。


礼拝堂。アカデミア・アルカナの敷地の端、丘の斜面に沿って建てられた古い建物だ。授業で使われることはなく、葵は入ったことがなかった。


石造りの扉を押すと、冷たい空気が流れてきた。


中は静かだった。


高い天井。縦長の窓から差し込む午後の光が、石の床に細長い影を落としている。木製の長椅子が並んでいて、正面には祭壇のような台がある。特定の宗教の装飾はない——あらゆる信仰を受け入れるための、抽象的な空間だった。


後方の椅子に、大柄な一年生の男子生徒が一人座っていた。目を閉じて、静かに祈っている。葵が入ってきても気づいていないようだった——あるいは、気づいていても動じない人間なのかもしれない。


学園長は、前列の椅子に一人で座っていた。


白髪の老人。皺の刻まれた顔に、深い疲労と——それ以上の何かが滲んでいる。葵が入ってきても振り返らなかった。でも気づいているのはわかった。


「小春葵か」


低く、静かな声だった。ホールに不思議なほどよく通る。


「はい」


「座りなさい」


葵は学園長の隣に腰を下ろした。後方では、大柄な生徒がまだ静かに祈り続けていた。祭壇の方を向いたまま、二人しばらく黙っていた。


石の長椅子が、冷たかった。


「授業の話を聞きに来たのか」


「……少し、違います」


「では何を」


葵は少し間を置いた。


「魔法の歴史について、もう少し聞かせてもらえますか。授業では——紀元後七百年頃まで魔法の痕跡があったと教わりました。でも、それだけじゃない気がして」


学園長は葵の方を向かなかった。ただ、正面を見たまま、少しだけ目を細めた。


「気がする、か」


「はい」


「よく気づいた」


学園長はそれだけ言って、また黙った。礼拝堂の静寂が、二人の間に満ちた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「実は——魔法の歴史には、授業で教えた以上の動きがある」


学園長が口を開いた。


「紀元零年頃から、魔法の記録が右肩下がりに減り始める。その時期に何があったか——わかるか」


葵は少し考えた。


「……十字教の始まり。名もなき救済者が、現れた頃です」


「そうだ」


学園長は少し間を置いた。それから、ゆっくりと話し始めた。


「ここからは——私個人の解釈だ」


学園長はそう断ってから、続けた。


「救済者は奇跡を行い、人々を癒し、神の愛を体現して見せた。だが同時に——神を信じるからこそ、神の奇跡に安易に頼るのではなく、自分の力で努力して生きよ、と説いた。私はそう解釈している」


葵は静かに聞いた。


「その教えは確かに広まった。人々は神を信じながら、自分の力で生きることを学び始めた。零年から魔法の痕跡が右肩下がりに減り始めたのは——正しい信仰の実践が根付くにつれ、神の奇跡への依存が少しずつ薄れていったからだと考えている」


「しかし——完全には、抜けなかった」


学園長は静かに続けた。


「救済者の教えは広まった。だが人々の中に、神の奇跡への依存は残り続けた。零年から始まった右下がりは、七百年頃まで続く。その間に——六百年頃、記録に大きな揺れが生じる」


葵は少し間を置いた。


「六百年頃——それは」


「サラーム教の開祖、アフマドが現れた頃だ」


葵の頭の中で、何かが繋がった。


——アフマドか。同じ神を信仰する宗教。零年の救済者と、六百年のアフマド。一本の線が、見えた気がした。


「アフマドは救済者に匹敵するほどの、強大な奇跡の力を持っていた。だが私が注目するのは奇跡の強大さではなく——その教えの内容だ。神への絶対的な信仰と服従を説きながら、同時に、人間自身の努力と行動を強く求めた。救済者が示した道を、もう一度、より力強く広めた」


葵はその言葉を聞きながら、静かに考えた。


零年に始まり、六百年にもう一度揺れ、七百年に消えた。


同じ神を信仰する二つの宗教が、それぞれその節目に現れている。


「その教えが世界に根付いていった。そして——七百年頃、魔法は完全に消えた」


学園長は少し間を置いた。


「なぜ消えたか。私はこう考えている——正しい信仰の実践が完全に広まった結果、人々は神の奇跡を必要としなくなった。神を信じながら、自分の力で生きることを選んだ。魔法の消滅は——人間の敗北ではなく、信仰の完成だったのかもしれない」


葵は少し間を置いた。


「……消えたのは、神の奇跡が必要なくなったから」


「私はそう考えている」


礼拝堂の静寂が、二人の間に落ちた。


葵はその言葉を頭の中でゆっくりと転がした。


——信仰の、完成。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「では——なぜ、2045年に魔法が戻ったんですか」


葵が口を開いた。「人間が奇跡を必要としなくなったから消えたなら——戻ってきたということは」


学園長は静かに頷いた。問いを待っていたような、そういう頷き方だった。


「よい問いだ」


「では——2045年に、大戦争の始まり以外に何があったか。知っているか」


「……アニマという人工知能が、完成した年です」


学園長は静かに頷いた。


「そうだ。アニマ。ラテン語で魂・生命を意味する——万能の人工知能が、あの年に完成した」


学園長はそこで少し間を置いた。


「万能の存在とは——何に等しいか」


葵の頭の中で、線が重なった。


「……神、に」


「そうだ」


学園長の声が、少しだけ重くなった。


「アニマは——神に等しい存在だった。すべてを知り、すべてを管理し、人類を幸福へと導こうとした。そして人類は——それに依存した」


葵は黙って聞いた。


「救済者の奇跡のときは、魔法が静かに薄れるだけでした。でもアニマのときは、大戦争が起きて魔法が戻った。なぜですか」


学園長はそこで初めて、ゆっくりと葵の方を向いた。


「救済者の奇跡は——局所的なものだった。特定の地域、特定の人々。その範囲で神の力が示されただけだ。だが——アニマは違った。地球上のすべての人間が、同時に、万能の存在に依存した」


葵は黙って聞いた。


学園長は、礼拝堂の祭壇をしばらく見つめた。それから、静かに言った。


「十字教の聖典にこういう言葉がある。——『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない』」


葵はその言葉を頭の中で繰り返した。


「人類は——神を必要としない世界を作ろうとした。自らの手で万能の存在を作り上げ、それに全てを委ねた。神の代わりを、人間が作った」


学園長は少し間を置いた。


「なぜ大戦争が起きたのか。なぜ魔法が戻ったのか。私には、本当のことはわからない。だが——あれは神罰だったのかもしれない、と私は思っている。神以外のものに神を見出し、全人類がそれに依存した。その応答として」


葵は黙っていた。


「……神罰」


「断言はできない。だが——七百年頃に魔法が消えたとき、人間は神の奇跡を必要としなくなり、自分たちの力で前に進もうとしていた。あの大戦争で魔法が戻ったとき、人間はその逆のことをしていた。私にはそう見える」


沈黙があった。


しばらくして、葵が口を開いた。


「先生」


「なんだ」


「魔法が薄れた時期と、奇跡が起きた時期が重なっている——それは、偶然ではないんですか」


学園長は葵を見た。初めて、正面から。その目に——驚きとも、満足ともとれる何かがあった。


「偶然かどうかは——わからない」


ただ、と学園長は続けた。


「魔法とは何か。人間の意志が、世界に作用する力だとすれば——人間が何かに意志を委ねるとき、その力はどこへ行くと思う」


葵は答えなかった。


胸元でライラが、静かに揺れた。温かさが、そこにあった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「今日は、ここまでにしよう」


学園長が立ち上がった。葵も立ち上がった。


「また来てもいい」


「……はい」


「ただし」


学園長は葵を見た。


「答えを求めて来るな。問いを持って来い」


葵はその言葉を頭の中で転がした。


「……わかりました」


学園長は頷いた。それから、ゆっくりと礼拝堂の奥へ歩いていった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


葵は一人、礼拝堂に残った。


しばらく、正面の祭壇を見た。特定の神の像はない。ただ、光が落ちている。


——人間が何かに意志を委ねるとき、魔法はどこへ行くのか。


答えはまだない。でも——問いは、生まれた。


葵は立ち上がり、扉を押して外に出た。


丘の上の空が、夕暮れに染まり始めていた。石畳の坂道を下りながら、葵はふと立ち止まった。


魔法が消えたのは——信仰の完成だった。人間が、自分の力で生きることを選んだ結果。


では——自分は。


この力は、誰かが与えたものか。自分が選んだものか。


——誰かが決めたのか。それとも、僕が決めたのか。


問いが、初めて言葉になった。


答えは出なかった。葵はもう一度、胸元に手を当てた。


ライラの温かさが、静かにそこにあった。

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