第1話 日常という檻
燃えている。
街が、燃えていた。
廃墟の路地に背中を貼り付けながら、葵は息を整えた。
肺が痛い。足が重い。眼下に、人影が三つ。
人の形をしているが、人ではない——全身が黒いもやに包まれ、目だけが赤く光っている。
「数が多い」
「わかってる」葵の肩に、小さな光が宿った。
妖精、ライラだ。葵は右手を前に突き出した。
考える前に体が動く。
指先から青白い光が迸り、もやの一体を貫いた。
残りをライラが引きつける。背後に回り込み、手のひらを押し当てる。
光が弾ける——もやが霧散した。静寂。
「ライラ、なんでここにいるんだっけ」
「……わからない。気づいたら、ここにいた」
葵が何か言いかけた瞬間、世界が白くなった。
——消える直前、葵は感じた。
誰かが、見ていた。炎の向こうから。瓦礫の向こうから。
冷たくはなかった。でも——温かいとも言えなかった。
ただ、ずっと前から、そこにいたような。
名前を知っている、という確信だけが、白い光の中に残った。
―――――――――――――――――
葵は、目を開けた。天井。白い天井。壁のホログラムパネルが、静かに今日の日付を映し出している。
夢を見ていた気がする。でも内容は、もう覚えていなかった。ただ——体が重かった。まるで、一晩中走り回っていたかのように。
葵が生まれ育ったのは、アルカディア島だった。
三十年前の大戦争——神と悪魔が現世に現れ、人間と入り乱れて戦った時代。
魔法が「伝説」から「現実」に引き戻され、世界が塗り替えられたその戦争で故郷を失った避難民たちが、傷を抱えながら流れ着いた人工島。
日本人の子孫である葵の家族もその一つだった。
島を覆う光の建築群、空中を走るモノレール、魔法と科学が融合した街並み——訪れる者は誰もが「夢の未来都市」と呼ぶ。
けれど葵はこの島で生まれ育ったからこそ知っていた。この美しい島の、どこか深いところに、得体の知れない何かが潜んでいることを。
いや、「知っている」というより——感じていた、という方が正確だろうか。
三十年前の大戦争以降、世界は「管理」されるようになった。
空にはドローンが飛び交い、街角には感情認識カメラが並び、人々の喜怒哀楽がすべてデータとして記録される。犯罪は激減し、病気の早期発見率は上がった。政府はそれを「進化」と呼んだ。
外から来た者たちは、アルカディア島を「自由の楽園」と呼ぶ。
管理の網がないように見えるから。でも葵には、この島の自由でさえ、どこか息苦しく感じられることがあった。
島の管理は外よりずっと巧妙で、気づかれないだけだと、どこかで感じていた。
理由はうまく言葉にできない。ただ、朝目が覚めるたびに、この世界には何か大切なものが欠けているような気がしてならなかった。
「葵ー! また寝坊してるだろ!」
窓の外から声が飛んできた。
葵は重たい瞼をこじ開け、天井を見上げる。壁に埋め込まれたホログラムパネルには、今日の気温・湿度・推奨される行動スケジュールが淡く映し出されていた。
――推奨起床時刻より十四分超過。
小さな文字がそう告げている。
「うん、わかってる……」
葵は小さく呟き、ベッドから体を起こし、制服に腕を通した。
窓を開けると、眼下の路地に颯が立っていた。いつもと変わらない笑顔で、大きく手を振っている。黒髪が朝の風にさらさらと揺れていた。
「お前、また推奨起床時刻無視してるのかよ、無視すんの気持ち悪くね?」
「もう、うるさいな」
颯は笑いながらそれだけ言った。悪意はない。責めてもいない。ただ——当たり前のように言った。
葵はその言葉を聞きながら、なんとなく窓の外に目を向けた。
感情認識カメラの丸いレンズが、路地の角でこちらを向いていた。
今日から、新しい学校が始まる。
アカデミア・アルカナ。
ラテン語で「神秘の学び舎」。魔法と科学が共存する、世界で唯一の特殊学校。
世界中から選び抜かれたエリートだけが入学を許される場所。
アルカディア島の中心部に構える荘厳な学び舎で、葵と颯は、ともにその入学資格を得た。
島の出身者としては、異例のことだった。
葵には不思議だった。自分がなぜ選ばれたのか、今もってわからない。
魔法の才能を測定する適性検査で、検査官がひどく困惑した顔をしていたことだけを、葵は覚えていた。
「――測定不能」
そう言って、検査官は何度も機械を叩き直した。
――――――――――――――――――
「なんか、実感わかないな」
家を出た颯が、歩きながら呟いた。
「俺たち、中央部に通うことになるんだぞ。毎日」
「そうだね」
葵も、まだどこかぴんとこなかった。
オールドクォーター——島の中心部と港の間に広がる住宅街を、葵たちはそう呼んでいた。避難民の子孫たちが世代を重ねて築いた、山の手にあたるエリアだ——からアルカナのある中心部へ。
同じ島の中の話なのに、子どもの頃から「向こう側」と感じてきた場所だ。
向こう側に近づくなという空気が、小さい頃からなんとなく伝わってきた。
「しかも世界中から来るんだろ、あそこ。どんなやつらがいるんだろうな」
「どうだろうね」
「お前、もうちょっとテンション上げろよ。せっかくの新生活じゃないか」
颯はそう言って、葵の肩をぽんと叩いた。
葵は小さく笑った。颯のこういうところが、昔から好きだった。どんな場所でも、どんな状況でも、颯はいつも明るかった。
——あの日も、そうだった。
幼い頃の記憶が、ふと脳裏をよぎる。
あれは葵が八歳の夏のことだ。颯が島の岸壁で無茶をして、海に落ちた。葵は岸から必死に叫んだ。助けを呼ぼうとして、でも間に合わなくて。
そのとき、葵の目の前に、彼女が現れた。
小さな翼を持つ、光の粒のような存在。
——あの子を助けたいなら、私と契約して。
気づけば葵は答えていた。言葉の意味もわからないまま、ただ颯を助けたい一心で。
次の瞬間、葵の体は海に飛び込んでいた。普通なら届かないはずの深さから、颯を引き上げた。どうやって泳いだのか、今も覚えていない。
颯は何事もなかったように助かった。
あの光の存在は、その後もずっと葵のそばにいる。
「葵? どうした、ぼーっとして」
颯の声で、葵は現実に引き戻された。
「ううん、なんでもないよ」
葵は何も答えず、アルカディアの輝く街並みに目を向けた。
美しい。誰もがそう言う。けれど葵には、どうしてもこの完璧な輝きの裏に、何か暗いものが潜んでいる気がしてならなかった。
――――――――――――――――――
いつもの角を曲がると、茜がすでに待っていた。
葵は思わず目を止めた。
茜。アルカディア島で生まれ育った、幼馴染。
いつ見ても、と葵は思う。
茜の顔立ちは不思議なほど整っている。男女どちらにも見えるような、どちらから見ても美しいような——そういう顔だ。
本人はそれをまったく気にしていないように見えるし、ことさらに飾り立てることもしない。だからこそ余計に、目に留まる。
「遅い」
茜が言った。
「ごめんね、少し寝坊した」
「責めてない。ただ言っただけ」
茜はそう言って、葵の隣に並んだ。
颯が「よっ」と軽く手を上げる。茜は颯をちらりと見て、視線を前に戻した。
三人でモノレールの駅へ向かった。
なんだか不思議な気分だった。世界中からエリートが集まるというのに、葵のそばにいるのは、幼い頃から知っている顔たちだった。
――――――――――――――――――
モノレールを降りると、丘の上にアカデミア・アルカナが見えた。
荘厳な石造りの校舎と、近未来的なガラスと魔法陣の組み合わさった施設が混在している。丘の上から島全体と海が見渡せた。
葵は校舎の門をくぐりながら、ふと空を見上げた。
青く広がる海の向こうに、かつて戦場だった空がある。三十年前、人間と神と悪魔が入り乱れて戦ったという空が。
葵にはその戦争の記憶がない。当然だ、生まれる前の話だから。
けれどなぜか、その空を見上げるたびに、葵の胸の奥が、静かに、痛んだ。
「……なんでだろう」
誰に言うでもなく、葵は呟いた。
その声に答えるように、葵の胸元で、かすかな光が瞬いた。
8年前に契約した妖精、ライラの気配だった。
葵はそっと胸に手を当て、小さく息を吐いた。
「ねえ、ライラ」
光は返事をするように、ぽわりと温かく輝いた。
「ここに来たのは、正解だったのかな」
答えは返ってこなかった。
ただ、温かさだけが、葵の手のひらに静かに宿っていた。
――――――――――――――――――
入学式は、アカデミア・アルカナの大ホールで行われた。
世界各国から集まった生徒たちが、思い思いの言語で囁き合っている。
翻訳デバイスがそれを自動で日本語に変換していくが、それでも音としての多様さは消えない。
葵はその様子をぼんやりと眺めながら、颯と並んで席に座った。茜は少し離れた列に座っている。
壇上に立った学園長は、白髪の老人だった。皺の刻まれた顔に、深い疲労と、それ以上の何かが滲んでいた。
三十年前の大戦争を——実際に経験した目を、葵は知らない。でも、この老人の目は、何かを長く見てきた者の目だと感じた。
「ようこそ、アカデミア・アルカナへ」
老人の声は低く、静かだった。それでもホール全体に不思議なほどよく通る。
「君たちはここで、魔法と科学の融合を学ぶ。神や悪魔との契約の理論を学ぶ。そして――」
老人はそこで言葉を切り、会場をゆっくりと見渡した。
「この世界の本当の姿を、学ぶことになるだろう」
その言葉の意味を、葵はまだ理解できなかった。
ただ、老人の視線が一瞬だけ、自分のいる方向に向いた気がした。
気のせいかもしれない。
でも葵は、背筋にわずかな寒気を感じた。
――――――――――――――――――
入学式の後、仮クラスの発表があった。
本クラスの確定は一ヶ月後——最初の実戦演習の成績をもとに行われる。
今はまだ、全員が仮クラスに振り分けられるだけだ。葵の仮クラスは、颯と同じだった。茜も同じ。三人が揃った形になった。
教室に入ると、すでに何人かの生徒が座っていた。制服は同じでも、纏う雰囲気がそれぞれ違う。
葵は空いている席に腰を下ろした。そのとき、斜め前の席に座った生徒と、一瞬目が合った。
静かな目をしていた。感情が読みにくい。でも、敵意はなかった。
葵はそっと視線を外した。
胸元でライラが、小さく揺れた。
——何かを感じている。でも、悪意じゃない。
葵はそれだけ確認して、教室の前に目を向けた。
今日が、始まりだった。




