13 マツリのあと②
そして……、別に何かが、劇的に変わった訳ではない。
結木碧生は小波中学の二年生で、共働きの両親とこの町に住むただの少年である。
成績は、悪くはないが飛び抜けて良い訳でもない、歌が上手いのでも絵が上手いのでも運動神経がずば抜けているのでもない、唯一書道だけは中二レベルを超えている、平凡な顔立ちの少年である。
ただ。
あの日以来、複数の他人に『姿勢が良くなった』『立ち姿が綺麗だ』と褒められるようになった。
その辺は無意識なのでピンとこないが、学校にある姿見の鏡やガラス戸に映る自分を見て、そうかもしれないとは思う。
理由はよくわからない。
わからないが。
背中を丸めてモソモソ歩くようなみっともない男に、奇跡の泉へ『寄り添います』などと言う資格はない、とは思う。
翌週の日曜日、午後。
少し肌寒くなってきた中、書道の道具を入れたトートバッグを手に、碧生は書道教室へと向かう。
今週か来週を目処に、展覧会用の作品を仕上げなくてはならない。
腕が鈍らないよう、手本の『臨書』だけはこの一週間、欠かさなかった。
しかし『作品』という意味では書いていない。
今日、教室で、一発勝負のつもりで書いてみようと思っている。
(ナンか……書けそうな気はするんやけど。油断してると、するっとこの感覚が逃げてしまいそうってのか)
だから、適度な緊張感の中で書く方がいい、そんな気がするのだ。
「おう、結木」
途中でナンフウに会う。
コイツだけは『マツリ』前も後も、唯一、接する態度を変えなかった。
いわゆる『不敬』『礼儀知らず』なのかもしれないが、その変わらなさがいい。信頼できる。
目の前の者と対等に、ガチで接しているからこそ、という雰囲気が伝わってくるから。
「ほんでどうや、特別枠の方。進んでるか?」
先輩風を吹かせるのは相変わらずだ。
苦笑を含み、碧生は答える。
「ん~、何とも言えん。なんとなく書けそうな気はするんやけどな。今日は教室で、腰入れて書いてみるつもりやけど」
思いがけないことに、そこでナンフウは柔らかく笑んだ。
「おう、そっか。多分、書けると思うで」
「へ? そ、そうか? ナンでそう思うん?」
キョトンとした顔で問う碧生へ、ナンフウは
「だってお前、姿勢、良うなったもん」
と、謎めいた答えを返してくる。
首を傾げているうちに教室に着いてしまった。
口々に挨拶しながら少年たちは、教室の戸を開ける。
奥から軽い足音が響いてきた。銀雪先生だ。
「はい、いらっしゃい」
いつもの、『野崎銀雪書道教室』の銀雪先生だった。
なんだかホッとする。
「マツリの季節も終わりましたし。この時間は基本、二人はウチの書道教室の生徒さん、私はこの教室の主宰者という立場に戻りますからね。よろしい?」
「あ、はい、もちろん」
「当然です!」
二人は同時にそう言い、顔を見合わせてちょっと笑う。
教室にはすでに、他の生徒が来ていた。
一人は松英さん、もう一人は雪嶺さんであったが……
「え? 大楠先生?」
素っ頓狂な声を出したところをみると、ナンフウも知らなかったらしい。
「ははは。ここ二、三ヶ月ほど、秋祭関連の用事やらなんやら、野暮用が多かったんでずっと休ませてもろててん。祭も終わったし、春頃までは割と余裕があるからね、また勉強に来させてもらいますんで、よろしくお願いします」
人たらしの笑顔で彼は言う。
絶句している少年たちへ、銀雪先生の声が飛ぶ。
「ほらほら。ぼーっとしてやんと二人とも。用意しなさいよ」
二人は慌てて用意を始めた。
思いがけないことはあったが、碧生は気持ちを切り替える。
硯の池に水を注ぎ、ゆっくり墨を磨りながら彼は、じわじわとこれから書く『明鏡止水』のことを考える。
(磨いた曇りのない鏡、漣ひとつない水面……)
そんな心境とはどういうものなのだろう?
完全なる『明鏡止水』なんて、人間が体感するのは不可能かもしれない。
(……でも)
それに近い、景色は見た。
研ぎ澄まされた白と青、無音で無風のあの世界。
畏れにひしがれそうな圧倒的世界。
そして。
その容赦のない世界そのもののような神と真っ直ぐ対峙する、余分なすべてをそぎ落とした、己れの芯。
(……あれこそが。今のオレなりの、『明鏡止水』)
世界そのものへ差し出す己れの芯を、『明鏡止水』という形へ。
彼は筆を執る。
まだ新しい大きくしなやかな筆で、濃い墨色を紙へ載せる。
ただ書く。
無心に。
『明鏡止水』……と。




