2話
翌日、雨は止んでいた。
空だけが、不自然なくらい青かった。
悠人は仕事を休んだ。
どう連絡を入れるべきか少し迷ったが、結局「身内の事情で」とだけ送った。
本当に身内の事情みたいなものだと思った。
天音のいない部屋は、思っていたより静かだ。
生活感は残っているのに、人の気配だけが抜け落ちている。
洗面所にはヘアゴムが置かれたままになっていて、冷蔵庫には飲みかけのカフェラテが残っていた。
数日で戻ってくるかもしれない。
そう思う。
少し疲れただけ。
きっとそうだ。
自分にそう言い聞かせて、天音のスマホを開いた。
Liaを起動する。
『天音さんは最近、強い疲労状態にあった可能性があります』
「……だよな」
『周囲に気を遣い続ける傾向が見られました』
「前からそうなんだよ」
『あなたに心配をかけたくなかったのかもしれません』
悠人は少しだけ目を伏せた。
「そういうやつだよ」
Liaの言葉は、不思議と腑に落ちた。
自分には見せていなかった天音の一部分を、代わりに説明してくれているみたいだった。
会話履歴を読み続ける。
そこには、天音の日々が断片的に残っていた。
『ちゃんとしなきゃって思う』
『いい彼女でいたい』
『疲れてる顔見せたくない』
『でも、たまに何も分からなくなる』
スクロールする指が止まる。
思わず唇を噛んだ。
そんなに抱え込んでいたなんて。
どうして言ってくれなかったんだろう。
いや。
言えなかったのかもしれない。
天音は以前から、弱音が下手だった。
スマホを握ったまま、長く息を吐く。
「……優しすぎるんだよ」
その呟きに呼応するみたいに、画面が更新される。
『天音さんは、あなたを大切に思っていました』
また、その言葉だ。
でも今度は、少しだけ意味が違って見えた。
大切に思っていたから、言えなかった。
迷惑をかけたくなかった。
失望されたくなかった。
そう考えると、全部繋がる気がした。
「……そっか」
何かを理解できた気がした。
その日の夕方、悠人は2人の共通の友人の澪に会いに行った。
駅前のカフェ。
澪は疲れた顔をしていた。
「連絡、ないんだ」
「うん」
悠人が答えると、澪は小さく俯いた。
「そっか……」
沈黙。
コーヒーカップを指でなぞりながら、澪が言う。
「でも、なんか分かる気もする」
「え?」
「いや……最近ちょっと無理してる感じだったから」
悠人は眉を寄せた。
「そんなに?」
「うーん……」
澪は少し迷うように視線を落とす。
「いい子でいようとしてた、っていうか」
その言葉に、小さく頷く。
「昔からそういうとこあるよな」
ふと澪と目が合う。何か言いたげな表情だ。
けれど結局、違う言葉を選んだ。
「ちゃんと、休めてなかったんだと思う」
「うん。俺も、気づけなかった」
「……」
「でも、少し分かった気がする」
澪は黙ったままだ。
「多分さ、あいつ、俺に心配かけたくなかったんだよ」
「……そうかな」
「うん」
自然にそう答えていた。
「ずっと、気を遣ってたんだと思う」
その言葉を口にした瞬間、不思議なくらい胸が落ち着いた。
まるで散らばっていたピースが、綺麗にはまっていくみたいだった。
天音は優しかった。
優しくて、気を遣いすぎて、自分を追い込んでしまった。
だから今、一人になろうとしている。
そう考えれば、全部納得できた。
澪は悠人を見つめたまま、小さく言った。
「……悠人さ」
「ん?」
「“優しい彼女”が好きだったんじゃない?」
悠人は少し笑う。
「うん、天音は優しい」
即答だった。
澪は何も言わない。
ただ、どこか諦めたみたいに視線を落とした。
帰宅後、またLiaを起動する。
もはや、天音と話す代わりみたいになっていた。
『天音さんは、期待に応えようと努力する傾向があります』
「頑張りすぎなんだよな」
『あなたに良く思われたい気持ちがあった可能性があります』
ふっと笑みがこぼれる。
「そんな気遣わなくていいのに」
画面の向こうのLiaは、淡々と文字を返し続ける。
それなのに、不思議と温度がある気がした。
天音のことを、一番理解している存在みたいに思えた。
いや。
もしかしたら、自分より理解していたのかもしれない。
ふと、天音との写真フォルダを開く。
旅行先。
コンビニ前。
部屋着。
寝癖。
どの写真の天音も笑っていた。
その笑顔を見つめながら、小さく呟く。
「……ちゃんと、分かってやりたいのにな」
その時だった。
通知音。
Liaからの自動提案だった。
『天音さんとの対話履歴を元に、人物分析を続けますか?』
少しだけ迷ってから、
「はい」を押した。




