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薬も過ぎれば  作者: 伊織ライ


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藤原理恵の場合1

「──お嬢様、こちらで宜しいでしょうか?」

「ええ、いいわ。ありがとう」


 生まれてから一度も染めたことのない漆黒の髪はしっかり手入れを重ね、我ながら艶やかに仕上がっていると思う。今日は髪結いの得意な者に頼んで、清潔感を感じられるよう丁寧に編み込んでもらった。姿見の前でワンピースの裾を軽く直す。用意されていたこの服はシンプルながらも清楚な雰囲気が感じられ、着心地も申し分ない。要所にあしらわれた女性らしい花模様のレース飾りが、キツい顔立ちの私に似合っているかどうかは別として。


 先方に指定されたレストランは品の良い佇まいで、隠れ家的な落ち着きを演出しているようだ。内装には所々遊び心のあるインテリアが採用されており、店員が案内してくれる間も飽きさせず目を楽しませてくれる。こんな日でなければ、もっと心躍り楽しめただろうと思うと少々残念だった。

 まだ誰もいない予約の個室。座り心地の良い椅子に浅く腰掛けた私の耳には、己の心音だけがドクドクと響いて聞こえる。膝の上で重ね合わせた手がじとりと湿った。瞼を閉じ、意識して息を深く吸う。それを吐き切るより前に軽いノックの音が響き、先ほど私も通った個室の扉がなめらかに開かれた。

 私をここまで案内してくれたのと同じ店員が軽く頭を下げ、一歩横へと身体をずらす。硬い靴音を鳴らして姿を見せたのは、ぴしりとスーツを着こなした二十代後半くらいの男性だ。背が高く、程よく筋肉の付いた雄々しい体格。眉が凛々しく、額の形が良い。真っ直ぐ射抜くようにこちらをみつめる瞳は意志が強そうで、唇はぐっと引き結ばれている。


 私は、その硬質で美しい人に数舜見惚れてしまった。息苦しさを感じ、無意識に詰めていた息をほうっと吐く。

 数時間前──いや、この扉が開く直前まで、こんな場所から逃げ出してしまいたいと思っていたはずなのに。人の気持ちというものは、こんなにも簡単に変わってしまえるものなのだろうか?


「初めまして、私西園寺(さいおんじ)理恵(りえ)と申します。本日はこのような機会を頂き嬉しく思います」


 出来るだけ美しく見えるよう、訓練した角度で礼をする。挨拶の口上を述べた喉がやたらと乾き、その声は僅かに震えていた。

 

 対面の椅子の横に姿勢よく立った彼は、慣れた様子で軽く頭を下げる。


「初めまして、藤原(ふじわら)憲司(けんじ)です。申し訳ありません、仕事の都合で少し遅れてしまいました。良ければ──こちら、名刺を」

「──頂戴致します。あの……私はまだ学生の身で名刺は持っておらず……」

「構いません、承知していますので。では後の話は食事をしながらということでよろしいですね」


 スマートに合図が出され、室内に食事が運ばれる。合間に邪魔をしないためだろう、デザート以外の全てが同時に卓上へ並べられているようだ。マナーに不安がある訳ではないが、それでもカジュアルな雰囲気の方が僅かに気は休まるかもしれない。ただでさえ男性との交流には慣れておらず、二人きりで食事をするという状況だけで既にいっぱいいっぱいなのだ。先々週に授業内容の質問をするため大学の教授と廊下で立ち話をしたのが、男性と会話をした最新の記憶である。そもそも父親とだって、このお見合いの話を聞かされた際に呼び出されるまで久しく会っていなかったのだし。家に勤める使用人は女性が圧倒的に多く、その中の数少ない男性も私の側には滅多に近寄らない。おそらく父からそう指示されているのだろう。通っている大学は女子校だし、幼い頃から家庭教師や習い事で忙しく、異性の友人知人を作る機会など一切なかったのだ。

 三歳年下に弟がいるけれど、彼は父が代表取締役を務める国内屈指の製薬会社の跡継ぎとあって修めるべき事象が数多ある。日々のスケジュールは細かく管理されているだろうし、私よりもよほど忙しくしているようだ。年に一度は家族揃って食事をする機会も設定されているが、逆に言うとそんな時でなければ無駄に広い家の中、顔を合わせることさえほとんどないのだった。


「西園寺さんのご父君にはいつも世話になっています。治験に協力している関係で、お話をさせていただく機会も多くて」

「こちらこそ、藤原さんはとても優秀なお医者様だと父から聞いています。まだお若いのに、博識で大変立派な方だと」

「……いえ、私の父が管理職に就いていますから。そのおかげで発言が通りやすいだけのことでしょう。周囲からは親の七光だなんだと日々(わら)われておりますよ」

「そんなっ! 絶対に、それは違います! 藤原さんが昨年出された論文だって本当に素晴らしいものでした。あれは患者様と病気に真摯に向き合っていればこそ書けたものでしょう? 周囲の声なんてきっと、藤原さんの努力と才能に嫉妬している愚か者たちの戯言に違いありません!」


 自嘲気味な彼の言葉に、つい大きな声をあげてしまった。それほど素晴らしい論文だったのだ。きっと日本の医療の未来を変えるのは、彼のような人なのだと胸が熱くなってしまうくらいに。

 藤原さんは眉を上げ、少し目を丸くしてこちらに視線を向けた。そしてその口元を初めて緩め、穏やかに微笑んだ。


「西園寺さんは僕の論文も読んで下さっていたのですか。女性なのに珍しいことだ。ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいよ」


 身を乗り出すようにして大声を上げた自分の姿に今更気付き、慌てて身を引き姿勢を正す。なんてはしたない真似をしてしまったのだろうか。顔が熱いので、きっと赤くなってしまっているだろう。羞恥もあるけれど……初めて目にした彼の微笑みが、あまりにも素敵だったから。

 

 近いうちに自分の夫となるらしいこの人に、私はこの時恋をしたのだ。


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