第五章 八叉彦命に非ず(2)
わたしの拙い言葉を聞いて、八叉様は複雑な表情を浮かべる。
「言葉は嬉しいが、司紗は我があの穢れの原因とは考えないのか?我は『祟り神』として扱われているのだろう? そしてシロのあの言葉……普通だったら、我を疑うのが当然だと思うのだが」
「穢れの原因が何かはわからないけどさ、一個だけ確実に言えることがあるから」
屈託なく笑って、わたしは返す。
「もし万が一八叉様が穢れの原因だったとしても……八叉様はこの地を脅かすことを望みはしないでしょ?」
あっさりと述べたわたしの答えに、八叉様は怯んだように肩をびくりと震わせた。だらりと下ろしていた右手を握り締め、八叉様は目を逸らして言い捨てる。
「我は……司紗に信頼されてないのかと思っていた」
「えっ、どうして?」
思いがけない言葉に素っ頓狂な声を上げると、迷うように服の裾を弄びながら八叉様は意外なことを言い出す。
「ほら、氾濫した河で猫を見つけたときのことがあっただろう? 司紗は、我を助けに来たじゃないか」
奇しくも先ほど、そのときのことを思い出したばかりだ。
「もしかして、余計なお世話だった?」
慌てたように八叉様はぶんぶんと首を振る。
「そんなことはない。とても……嬉しかった」
うん、嬉しかったんだ、と八叉様は確かめるように口の中で繰り返す。
「だが助けが必要だと思われるなんて、神様として信頼されてないも同然じゃないか……」
神様ゴコロというものも、なかなかに厄介なモノだ。
「確かに八叉様は見た目が小さいから、危なっかしくて見てられないと思ったのは事実だけど。でも、これは別に神様としての能力を疑ったんじゃなくて……」
うーん、と腕を組んだ。深く考えずに起こした行動を改めて言語化するのは難しい。
「別にわたしは八叉様を正体はどうあれ神様だと思ってるし、信頼もしている。でも、あのときわたしが心配したのは神様じゃなくて八叉様だったんだ」
言葉に変換された感覚は、それを起点に徐々に道筋をなしていく。ああ、そういうことだったのかと自分で頷きながらわたしは言葉を紡ぎ始めた。
「正直わたしやその他多くの日本人にとって、神様っていうのは名前がない概念なんだ。わたしたちの手には負えない、尊くて大きな超越した何か。西洋の神様も仏さまも付喪神なんかも……あるいは自然現象でさえも、神様という大きな括りの中では一緒くた、同一の感覚で拝んでいる。そこに個別の名前をつけてオリジナリティを確立した神様っていうのが、個々の宗教としてある……みたいな」
言葉として正しいかはわからないが、自身の感覚に一番近い説明ができているようには感じられる。
「神社のお参りなんて、わかりやすい例じゃないかな。極端な話、参拝者のほとんどは自分が祈っている神様が何者かなんて気にしていない。ただ、漠然とカミサマに手を合わせているだけで」
興味深そうに顔を上げた八叉様の髪が、さらさらとその肩からこぼれた。夜の静けさがしっとりと染みこんだ彼の銀髪は、雪のように淡く幻想的で美しい。
「何が言いたいかっていうと、その神様っていう概念から独立したオリジナリティ。わたしが八叉様を見出しているのは、それってこと。わたしがあのとき手を差し伸べたのは、そして今まで向き合ってきたのは、言い方が正しいのかはわからないけれど……八叉様という個人。だからその背景となる神様という性質が多少揺らいだとしても、わたしにとってそこは重要じゃないんだ」
八叉様だから助けたのだ、という普段なら恥ずかしくて言えない台詞を、間接的ながらもわたしは熱く言い募る。
うつむいてそれを聞いていた八叉様は、ふと立ち上がって二、三歩わたしから距離をとった。そして、遠い目で何処かを見やる。
「本来であれば、司紗個人が我のことをどう受け止めようと、それが我の在り方に影響するなんてあり得ないのだが……」
――そうだ。そんなひとりの人間の解釈が八叉様を救うなんて思ってはいない。
けれどいくらわかっていても、それでも願わずにはいられないのだ。それがたとえ、傲慢な自己満足であっても。
己の中にしばらく思いを馳せた後、弱り切ったように八叉様は目を閉じてゆっくりと頭を振る。
「我も、ひとつの存在として長くここに居すぎたのかもしれない。……司紗のこんな言葉が」
一瞬言葉を詰まらせ、八叉様は振り絞るように吐き出す。
「こんなにも、嬉しいなんて……!」
「……っ!」
――嗚呼。それは、どれほど悦ばしい言葉だっただろう。
そして、どれほど誉れ高い言葉だっただろう。
後になっても、わたしはそのときの感情を言い表すだけの言葉を見つけることができない。
――たとえそれが、彼と『神』との隔絶を決定づける致命的な言葉だったとしても。




