第五章 八叉彦命に非ず(1)
夜の闇に溶けるように、アマガエルのリズミカルな合唱が聞こえる。その音楽を聴きながら、わたしは自室の隣にある納戸の前で立ち尽くしていた。
押入れとして使われている納戸は簡単な引き戸で、少し横に引くだけで中に入ることができる。それなのに、今その引き戸はまるで石のように重く感じられた。この戸を開けて良いものか、わたしには判断がつかない。
中には人の気配がするのに、戸の隙間からは一条の光も漏れていない。そこから滲み出るのは、ただ重苦しい沈黙の気配だけ。うるさいくらいのアマガエルの声が、却ってその沈黙を際立たせる。
戸に手をかけ、ひと呼吸置いた。覚悟を決める。
そして躊躇いが生じる前に勢いよく戸を開いて、暗闇に沈む室内へと足を踏み入れた。
パチ、と明かりをつける。柔らかな白い光が室内を満たし、周囲を照らし出す。
その光から身を隠すように、八叉様は部屋の片隅でうずくまっていた。その姿勢は、家に帰ってきたときから少しも変わっていない。
「八叉様、お風呂上がったよ」
陰鬱な空気を無視して、明るく声をかける。
「……ああ」
ため息のような声を洩らして、八叉様はもぞもぞと少しだけ身じろぎした。内心迷ったものの、それを表には出さずわたしはその近くまで歩み寄る。
――あれから数時間。
ちとせの容赦ない推論を耳にした八叉様からはごっそりと表情が抜け落ち、憔悴しきっていた。ほとんど口を利くこともなく家へと帰った彼は、そのまま納戸に籠ったきりだ。
わたしも何を言ったらよいかわからず、その様子をはらはらと見守りながらも何もできずにいた。
傷つき、疲れ切った八叉様の瞳。普段であれば黒曜石のようにキラキラと輝いているその瞳は、今は夜の海のように淀み、濁りに沈んでいる。
翳に沈む彼の横顔に、それでも涙は見られない。まるで昏い感情を外へ一切洩らさず、己の裡へすべて沈めようと覚悟しているかのように。
何もかも全部抱えて、光の届かぬ深い水底へ自分もろとも封印しようとでも思っているかのように。
「泣かないんだね」
そんな彼を前に、わたしの口をついて出たのは優しさとはかけ離れた言葉だった。
――こんなときくらい、泣いても良いのに。縋りついて、抱えた感情すべてを吐露してしまえば良いのに。ひとりで抱え込もうとする八叉様を見ていると、そんな苛立ちがわたしの中で燻る。
わかっていた。彼が今までずっと、神であるという自覚故に弱みや嘆きを外へ出せずにいたことを。わたしはそんな彼のあり方を、ずっと哀しく想っていたのだから。
……でも、もう良いんじゃないだろうか。
彼が八叉彦命でないのだとしたら。神ではないのだとしたら。その小さな肩に、世界を背負う必要なんてないのだ。
ひとりで抱え込まないでほしい。自分だけ高みですべてを引き受けようとするなんて、本当に莫迦げている。そんなの、自分勝手な人間が押しつけたくだらない理想だ。
「…………」
でも、何といえば良いのだろう。言葉なんてのは野蛮で穴だらけの伝達手段で、結局のところ言いたいことは何ひとつ伝えられない。もどかしさが増すだけだ。
うずくまる八叉様を前にして、わたしはカカシみたいに立ち尽くすことしかできない。
――支えになりたいなんて、きっと自惚れだ。八叉様の苦しみを理解することなんて、わたしには一生かかってもできはしないだろう。
だとしても、その孤独に少しでも近づきたいと想う存在があること。せめてそれだけ、知ってもらえたら。
いつまでたっても、相応しい言葉は出なかった。
何も言えないまま、ただそんなことを考えながら、気づけばわたしは八叉様に抱きついていた。
「司紗……?」
温かな体温。小さな身体。わたしより華奢な、その小さな存在。どうして彼が、その身に余る業を背負わなければならないのか。
腕の中に収まる八叉様を潰しそうなほどに抱き締めながら、わたしはこみ上げてくる激情に身を震わせる。
「おい……なんで司紗が泣いているんだ……なぁ……」
――神様なんかじゃなくたって、構わない。
八叉様の困惑した声を聴きながら、わたしは彼が逃げ出さないように、自分の不細工な泣き顔が見られないように抱き締める腕に力を籠める。
そして、今まで目を逸らしていた感情に初めて向き合った。
――わたしは、八叉様が好きだ。
「……すまなかったな、司紗」
しばらくしてわたしが落ち着いたころ、抱き締めていた腕から抜け出した八叉様はぽつりと呟いた。
「え?」
わたしが首を傾げると、八叉様は唇を歪める。相変わらず彼は、辛いときも笑おうとする。でも、それはむしろ翳りを一層際立たせる陽炎のような危うい表情。
八叉様はぼんやりと右手を天井に向かって伸ばす。その指の間から溢れる光を眩しそうに受け止めるその目は、きっとわたしの視線と合わせることを避けたのだろう。
「我は……最初から、司紗に嘘をついていたようだ」
その意味を少しだけ考えて、最初に出会ったときの彼の言葉を思い出す。
『まさかこのオレがわからないのか? ここ奥木神社の祭神、八叉彦命が?』
あのときの八叉様の偉そうな態度が実は彼の精一杯の虚勢だったのかと知ると、おかしいやら切ないやら。
「なんだ、そんなことか。わたしは全然気にしてないけど」
「それもそれで、どうなんだ」
右手を下ろした八叉様は、少しだけ苦い口調でため息をつく。……相変わらず視線は合わないけれど、さっきの陰鬱な笑みに比べればずっと良い。たとえそれが開き直りなのだとしても。
「わかっているのか、司紗? 我は、お前が仕える奥木神社の祭神ではないのだぞ?」
「だって、わたしが八叉様と居るのは別にウチの神様だからって理由じゃないもん」
「どういうことだ?」
ようやく八叉様の視線がこちらを向いた。それを意識しながら、どう説明をしようかと慎重に考える。
「何て言うのかな……最初は確かにそういう義務感で、正直言って面倒だなと思ってたんだけど……」
彼との思い出を振り返ると、真っ先に思い出すのは我が身を省みずに猫を助けに行こうとするその背中。
――ああ、そうだ。多分そのときからずっと。
――わたしは、その光に引き込まれていた。
「前にも言った通り、わたしは八叉彦命を信仰しているっていう自覚はないんだ。神社の人間としては、良くないことかもしれないんだけど」
――真っ直ぐで、一生懸命で、眩しいほど明るいのに儚くて。
「結局、わたしは神様という存在を目の前にしても実感が持てなかった。今までわたしが向き合っていたのは、八叉彦命という神様じゃない……八叉様だった。そしてわたしが大事に思っているのも同じ」
しっかりと顔を上げて、彼の視線を捉える。
「だから、本当の八叉彦命がどうであったって構わない。わたしにとって、八叉様はアナタしか居ないんだから」




