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第三章 白火主命(3)


「司紗、何故あんな危ない真似をした」

 帰宅後、夕飯を済ませてからようやくこの話は自室にして仕切り直しとなった。

 夕飯だけではなく、八叉様はすでに風呂も上がっている。寝巻用の白い浴衣に着替えた彼はまさに『水も滴る良い男』といった風情だ。

 水気を纏った銀色の髪は蛍光灯の安っぽい光でも静かに輝き、湯上りの少し上気した彼の肌をしっとりと潤す。浴衣の合わせから見える細い手首や足は、少年ならではの中世的で神秘的な美しさ。それでいながら首元や腕はやや骨ばっていて、男性的な魅力の片鱗へんりんを見せている。

 同じシャンプーを使っているはずなのに、漂う香りすら特別なもののように感じられた。


 ……いけない。

 そこまで風呂上がりの八叉様を鑑賞してから、ようやく気がつく。怒りをあらわにする彼を前に、つい現実逃避をしてしまっていた。

 いささか不躾ぶしつけなほどに見入ってしまった視線を誤魔化すように咳払いをして、姿勢を正した。

「司紗!」

 珍しく厳しい顔つきで、八叉様はわたしに一喝する。


「それを言ったら、八叉様だって同じじゃない。どうして抵抗もせず、大人しく殺されようとしていたの? わたしに、なんの説明もしないで……」

 あのときの恐怖を思い出して、言い返す声が最後には震えてしまった。わたしのそんな返しに一瞬ぐっと詰まったものの、八叉様は揺るがない。

「司紗には……関係ない」

「関係なくなんか……!」

「司紗にも!」


 自分で自分の声に驚いたようにはっとした表情をしてから、八叉様は声を落とした。

「人の身であっても、わかったはずだ。シロの神としての力の強大さを、そしてオレとの格の違いを……。邪魔をすれば、司紗だって排除されても不思議はなかった。それなのに、司紗は何故そんな……!」




 声を押し殺してもにじみ出る彼の怒りと剣幕に、思わずたじろいだ。

「納得できなかったから、かな」

 口をついて出たのは、彼の怒りを収めるには曖昧過ぎるわたしの言葉。

「なっ、とく?」

「だって八叉様とわたしは、仮にも一週間一緒に過ごした仲だよ? そんな八叉様のことを災いを招くから殺すなんて、突然出てきた神様に言われて受け入れられると思う? たとえその神様が八叉様の言うような立場が上の立派な神様だとしても、そんな話を認めるなんて、わたしには絶対できない」


 ほんの少し沈黙が流れて、八叉様は恐る恐る口を開く。

「ひょっとして司紗は……オレのことを、信じているのか?」

「当り前じゃない! そりゃ、八叉様を信仰してるのかって言われると……そこはわかんないけど」


 ――それは、名づけることも躊躇ためらわれるような、不確かで弱々しい想い。そんなものに突き動かされて命を投げ出すなんて、馬鹿げているとは思う。

 それでも。

「わたしは、そんな風にあの人が八叉様を奪っていこうとすることが許せなかった」

 その程度には、この小さな神様を大切に思っていて。

 そして、わたしはその選択が間違いではないと胸を張って言えるのだ。その確信が何処から来ているのかなんて、わからなくても。


 言葉にすればするほど、わたしの言葉は自分の言いたいことから離れていくようでもどかしい。目を凝らせば凝らすほど、その感覚はカタチを失って崩れていく。

 ただ、もしかするとこの単純な感情こそが、神様を想う宗教の原始的な核になるのかもしれなかった。


 敢えて意識せずとも持ち合わせている、懐に忍ばせた小さな宝物。そこにあるのは崇拝なんて大袈裟なものではなく、ちょっとした行為と感謝の念。

 でもそんな単純で自然なものだからこそ、侵しがたくそして語りがたい――。

「別に、八叉様を神様として崇めているとかじゃないんだ。でも、八叉様のことはちゃんと神様だと思っているし、それを誰かに易々と壊されたくもない。上手く言えないけど……そう、思っている」




 ――果たして、わたしの言いたいことがどれだけ伝わったのだろう。

 じっとうつむいた八叉様は、しばらく顔を上げようとはしない。

「司紗がそう思ってくれるのなら……」

 やがて下を向いたまま、八叉様はひとつひとつの言葉を確かめるように区切りながら口を開いた。

オレも司紗に……伝えねばならないことがある」

「うん、聞くよ。何でも言って」

 緊張で声がかすれる。自然と肩に力が入った。


オレは……オレは、司紗の願いを叶えるために来たのではない」

 夕方も耳にした告白。でも、今回のその告白には続きがあることをわたしは悟った。

オレは……」

 しばしの逡巡しゅんじゅんの末、八叉様は辛そうに目を伏せる。

オレは、何故自分が此処に居るのか……わからない」

 え、と思わず息を呑んだ。それは、予想だにしていなかった彼の言葉。


 わたしの反応を見て頷き、八叉様は告白を続ける。

「本来、神と人とは交わらぬものなのだ。神は伝説を生き、人の子を……そして森羅万象を包括した存在でなければならない。それが神の、神たる所以ゆえん。それなのに、オレは姿を現して、こうして司紗と共に生活をしている」

 生活という単語ほど神に似合わぬものもないな、と八叉様は自虐的な苦笑いを浮かべる。


オレが此処にいる理由が、必然性がわからない。……だからシロに殺すと告げられたとき、それこそが自分の役割なのかもしれないと思ったんだ」

 中空を睨みつける、固い表情。


「そんなんで納得しちゃうの? 白火主命ってそんな逆らえない相手なわけ?」

「……わからない」

「は?」

「わからないんだ、オレには。ただ、八叉彦命という自分が此処に居るということ以外は、何も」

 くしゃりと歪む彼の顔は、笑顔のつもりなのだろうが泣き顔にしか見えない。

「シロの言うとおりだ。こんなオレを、出来損ないと言わずして何と言おう……」

 声は少し上擦って、ふつりと切れる。


 かける言葉が見つからなくて、わたしは黙り込んだまま目を逸らした。

 彼が泣いていれば、慰めることもできたかもしれない。でも、あくまで気丈に八叉様は笑って。


 だからわたしは、その肩が細かく震えていることに気づかないフリをすることしかできなかったのだ。




「え……地震……?」

 ――ふと、その震えに呼応するように足元が小さく揺れはじめたように感じた。気の所為だろうかと少し意識を向けると、眩暈にも似たその漫然とした揺れは徐々にはっきりした形をとりはじめる。

 それでも大した揺れではなさそうだ。そう判断したわたしは、机の上の小物類が倒れないように手を伸ばし……そこで、違和感に気がついて動きを止めた。

 机の上の、猫のマスコットキャラクターに目が吸い寄せられる。昨日買ったペットボトルのお茶についていた、おまけのミニフィギュア。


 手ぬぐいを被って二本足で立つ和風の猫。それはキャラクターものにしては妙に写実的で、踊るように身をくねらせる姿と相まってどことなく妖怪の猫又を思わせる。足元に筆文字で書かれた『ねこじゃねこじゃ』というキャラクターの名前も、何処か不気味な雰囲気だ。

 まったくわたしの趣味ではないのだが、以前ちとせが好きだと言っていたために取っておいたものである。


 何が言いたいかというと、そんな二本足の安定の悪いフィギュアが周囲の揺れの中でぴくりとも動いていないのだ。慌てて隣のペン立てに目を移すが、そちらも同様、微動だにしていない。

 先ほどに比べれば随分と弱まっているものの、足元では未だに揺れ続ける確かな振動を感じる。それなのに、わたしの目に映るのは一切それに反応せず、静かに佇んだきりの小物類。

 ――まるで、地震など存在していないかのように。


 ずん、と一際大きな衝撃が大地を揺るがす。平衡感覚を失った身体がゆらりと傾ぎ、反射的に右手がベッドの縁を握りしめる。

 そして、揺れは唐突に終わりを告げた。

 整然と並んだままの勉強道具や時計を薄気味悪いで眺めながら、嘆息する。




 ――ああ、そうだ。夕方の地震の時点で、気がつくべきだったのだ。

 あんなに大きく大地が揺れていたというのにバスは平然と走っていたし、その後も地震の通知やニュースは一切出てきていなかった。

 これは、地震ではない。現実の枠組みを超えた、何かしらの超自然的な現象。


 思わず、八叉様をきっと見据えていた。その視線に少しとげが含まれていたとしても、致し方ないことだろう。

 わたしの鋭い視線に一瞬怯んだものの、八叉様は落ち着いた様子で首を振った。この地震について知ることはないと言いたいらしい。


 「何もわからない」という八叉様。何かを知っている様子の白火主命。そして、「八叉様が此処に居ると、災いが起きる」という彼の言葉。

 それぞれが口にした断片的な情報が、整理の追いつかないわたしの頭の中を錯綜さくそうする。


 八叉様が祟り神だなんて、思っていない。彼を助けたことを後悔するつもりも、一切ない。

 それでも、選択には常に責任がついて回るものだ。


 ――わたしが守った目の前の彼は、一体『何』なのだろうか。




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