最終話 ここが私の生きる世界
――夢を見た。知ってるようで知らない世界に行って、知らない言葉を必死で覚えて、それから、それから……?――。
私は12才の頃の姿になっていて、服も中学校の頃、ほんの一ヶ月だけ着ていたあの制服を身に着け、自分の家の玄関の前に立っていた。建売の、ごく普通の一軒家。
「あれ……?」
今日は転移魔法で水害のあったアーチ領まで施しの仕事に行かなきゃいけないって昨日言われたのに。
これは夢? 今までのが夢? どっちが夢? けれど、私は震える手でドアを開ける。
「おかえり、安奈。今日はお父さん遅いらしいから、二人で早めにごはん食べようか」
笑顔のお母さんが立っていた。量販店で買ってきたエプロンと薄手のぶかぶかセーターとジーンズを着ている。あの、RPGのような質素な分厚い麻の洋服なんかじゃない。幼い頃から、見慣れた姿。
「お、おかあ、さん」
私が震える声でそう言う。もう何年も話していない日本語は、どこか違和感すら覚える。
「どうしたの、安奈」
私の様子が妙なことに気がついたのか、母は私に駆け寄ってくる。そして抱きしめようとして……身体が通り抜けた。空を切るように、するりと。
「え!?」
驚く母を見て、私は安堵と落胆を同時に感じていた。そして、母に問う。
「おかあさん、私の母子手帳を見せて。私がおかあさんのお腹から産まれたんなら、あるよね?」
「……な、失くしちゃったのよ。十二年も前だし、引っ越しもあったし、だから」
「母子手帳なんて、初めから無いんでしょう? 私はどこでかは知らないけど、おかあさんとおとうさんに拾われたんでしょう?」
母は口ごもる。私はそのまま語り続けた。
「私、本当のお父さんとお母さんに、会ったよ」
「えっ……」
母は驚きの表情のまま、固まった。それを見ても、私は語り続けた。
「お母さんは私そっくりだった。お父さんは……病気で死んじゃったけど、死ぬ前にちゃんと会えた。それに、私、双子だったの。双子のお姉ちゃんにも、会ったよ。同じ顔で……本当にそっくりだった。私とお姉ちゃんが入れ替わっても気が付かれない程度には」
狼狽える母が私に縋ろうと歩み寄る。しかし、やはり母の身体は私の身体をすり抜けて、玄関に倒れ込んだ。それでも母は言葉を紡ぐ。
「な、何を言ってるの、安奈。確かにあなたは乳児院でもらってきた子だけど……そんな、そんなこと」
「私はこの世界にはもういられないみたい。おかあさんに触ることもできない。私は……きっと今日から、私の産まれた世界で六年過ごした。何を言ってるのかわからないかもしれないけど……その世界の言葉も教えてもらった。生きていく場所も用意してもらった。それに。私にはもう、好きな人がいるの。いつになるかわからないけど、その人と結婚する」
「安奈、どうしたの? 変な漫画でも読んだの? 何を言ってるの……」
私の背後でおろおろする母に言う。
「ここは私の世界じゃない。私は私の世界に帰る。待っててくれる人がいるから」
そして呼吸を整えて、言う。ルジャの言葉を。
「メッシ、ウールヴァ。……マェモ」
そして、再び意識が途切れた。
目を開けた。視界にはベッドに貼られた天蓋が広がっている。無意識に頬を撫でると、涙を流していた跡がある。あれは、夢? それとも、また異空間に取り込まれたのだろうか。どちらにせよ……。
「ありがとう。……さよなら、おかあさん」
再び同じ言葉を復唱する。この言葉は母に届いただろうか。私を育ててくれた優しい母に。
そのまま私は朝を迎え、すっかり着慣れたドレスを身に纏うと、大量の食料や綺麗な飲水と共に、転移魔法でアーチ領へと飛んだ。アーチ領の領主の家には、多数の市民が押しかけていた。
「領主様、私の家は大水で流されてしまいました。どうか、今夜寝る場所を」
「領主様、うちには寝たきりの母がいるんです。どうか我が家にお恵みを……!」
口々に言う市民たちを必死で領主の家を守る騎士隊がなだめていた。
私もついてきてもらった騎士団に荷物を運んでもらい、ハーフリングやドワーフの職人たちを連れて転移魔法の陣の張られた転移場である小部屋を出た。
私の姿を見て、市民たちがざわめく。
「……アンナ様?」
「いや、アンヌ様だ!」
「王都から来てくださったのですか!」
私に駆け寄る市民たちの手を取り、私は言う。
「この度は水害をもたらした治水工事の不備、まことに申し訳ありませんでした。優秀なハーフリングやドワーフの職人たちにすぐに直してもらいます。みなさんの家の保障も国で持ちましょう。すぐに、とは言えませんが、じきに職人たちが立派な家を建ててくれます。それまで耐えてくださいますか? とにかく、すぐに温かい食事を用意します」
「あぁ、なんてお優しい」
「アンヌ様、ありがとうございます」
私は笑って言う。
「全て姉である女王アンナ様の指示ですから」
それからすぐに作業は開始された。ハーフリングの職人たちは機敏な身体を駆使して高い場所から水の流れと溜まりやすい場所を指定し、ドワーフの職人たちは支持された場所を的確に、厳重に整備していく。
他種族とも協力して、このルジャの国をより良くしよう。それがアンナ様の政治方針だった。勿論、彼らにも多額の資金や給金が与えられる。それらは全て市民たちが収めてくれた税である米を輸出し、得た血税から賄われている。
アンナ様は言っていた。国民が税を払ってくれるのは、王族や貴族たちを豊かに暮らさせるためではない。市民たちが困った時に的確に使う為なのだと。そのおこぼれを貰って暮らしていることを、自分たちは忘れてはいけないのだと。
ドワーフたちが槌を振るう音を聞きながら、私は市民たちを励まし続ける。私個人にできることなんてその程度。騎士団が作り、出来上がったスープを配り、励ましの言葉をかける。
「アンヌ様、私の田畑も流されてしまいました。これでは税を払えるか……」
悲観にくれる農民であろう男性に私は言う。
「心配はいりません。税に関しては姉がきちんと管理し、損害をうけた分の保障も与えてくれますから。この地は……多数の種族の暮らす、このルジャの国は強いですから、今は辛くとも、数年後には元の生活を取り戻せます。必ずです。とにかく、今はエルフたちとも協力し、土を元に戻しましょう。まずはそれから。ルジャの国そのものが皆さんの家だと忘れないでください。家族が困ったら協力し合うものだと姉は言いました。だから今は存分に国に甘えて下さい。そして、また働けるようになったら、きちんと納税をお願いします。大丈夫です。アーチの農産物も、この国の宝のひとつです。税を治めてくだされば、その分、必ず見返りが来るのは知ってらっしゃるでしょう? だから姉が、アンナ様がそうして下さいます。必ず」
その男性は涙を流しながら頷き、スープを受け取った。
配給を配り終わり、私が椅子に腰掛けて一息ついていると、革のマントとマスクで顔を隠した男が近づいてきた。私は警戒することもしなかった。彼は、私の後を追ってきていた、私専属の護衛。
「ラマトゥ」
「ご苦労だったな、『お姫様』。疲れてないか?」
そう言って手渡さたのは小さなキャラメルだった。私は有り難く包み紙を剥がし、それを口に放り込む。ミルクの甘い風味が口いっぱいに広がって、疲れを溶かしていくように感じた。
「私は平気。私なんかより、職人さんたちの工事の方が大変だよ」
「そうだな。……この国は地理の問題か、台風の通り道だ。火山が多いからか、地震も多い。丈夫な家を建てても、水で流されたらおしまいだ」
「でも、何度だって立ち上がるよ、この国は。だって、あんな女王陛下が治めてるんだよ?」
傲慢で、気高く、自信家で、実力も伴った、まだ若いけど、優秀な指導者である女性。私と同じ姿をしているのに、その中身はまったく違う、双子の姉。
「あぁ……前に言ったこと、撤回する。お前は女王には向いていない。女王になるには優しすぎる。やっぱり、神様ってのが定めたこの国の指導者はあの高慢ちきな女王様なんだな」
「どういう意味、それ……」
「聞いたままだよ」
私を守るオーブルはそう言って笑った。
王族として暮らすのは、絵本の世界と違って楽じゃない。市民のことを最優先して、その為なら自分たちの暮らしも切り詰める。多数の種族と友好的な関係を築き、こういう場面で協力しあえるようにすること。他国の首脳たちには侮られないように、騎士団を鍛え、魔法学をより強固に発展させること。国を守ることは、大変な仕事だ。でも、だからこそ。
「……私はアンナ様を支えたいよ。私はその為に、この世界に呼び戻されたんだから。……アンナ様のオーブルとしても、ちゃんと務めを果たしたい」
「あぁ、お前ならそう言うだろうと思ってたさ」
私の恋人は少し呆れたように呟いた。それを聞いて思わず笑いがこみ上げてきた。
「……何笑ってんだ、アンヌ」
「……ううん。私の恋人は私をよくわかってくれてるんだなって思っただけ」
なんだそりゃ、と肩をすくめる私の恋人はマスクの下できっとふてくされた顔をしている。私はそんな顔も好きだなぁ、なんて思っているんだから、これ以上ない幸せ者だ。
口の中のキャラメルが溶け切り、私は大きく伸びをして立ち上がる。
「さて、今度は市街に出なきゃなー」
「まだ働くのか」
「当然! 市街の被害も見てアンナ様に報告しなきゃ。今日はその為にも来てるんだから。だから、護衛よろしく、オーブルさん」
「……はいはい」
初めは見知らぬ世界だと思っていた。
でも今はここが故郷なんだと胸を張って言える。
高慢ちきで少しだけ恥ずかしがり屋の姉、ただただ尽くして優しくあってくれる友人、我が道をゆく、けれど優秀なエルフの宰相。一途に姉を思い続け、王配の約束を取り付けた従兄弟、頼りがいのある、陽気な上司、そして。
「ジャン」
答えはない。今は外。ふたりっきりじゃない。それでも私は側を歩く彼に言う。
「私、この世界が好きだよ。ここには、ジャンがいてくれるから。だから、元の世界に未練はないよ」
それがこの世界を好きな最大の理由だなんて、告げたら……彼はどんな顔をするだろう。照れるだろうか。怒るだろうか。でも、きっとどんな顔を見せたって、最後には笑ってくれるだろう。
私はこのルジャ王国でお姫様を続ける。王族であることは大変で、とても疲れる仕事だけど、それでも私は姉を支え、この世界で生きていく。
城の中では、今も謀略や策略が密やかに交わされていることだろう。女王であるアンナ様はそんなことも全部お見通して、私はアンナ様の道を妨害する存在を先回りして、蹴飛ばして走るだけ。私は走ることしか取り柄がないのだから。
そして、この愛する潰れたトマト顔の男は、きっといつまでも側にいてくれるだろう。……浮気なんてしたら、絶対に許さないけど、今までだってそんな素振りは見せないし。一途に想ってくれているのは、嫌ってほど実感している。
……だから、私は大丈夫だよ、おかあさん。
私はここで生きているから、心配しないで。
言葉はきっと届かない。
それでも、私は育った日本のことも忘れない。
よく似た世界、違う世界。ここが私の故郷で、あの世界だって私の故郷なのだから。