第58話 「恥ずかしいんですけど」Aパート
終業時間の間際に何とか仕事を終えることができた。今日は危うかった。
昨晩飲み過ぎたせいか、一日を通して身体がだる重い。リナちゃんも時間通りに仕事を終えたようで、すでに帰り支度を始めている。足立はデスクを片付け、パソコンをシャットダウンさせた。
「先輩、今日は何だか調子悪そうでしたね」
駅に向かう道すがら、並んで歩くリナちゃんは心配するような眼差しを向けている。
「昨日ちょっと飲み過ぎちゃって」と思わず返したが、足立はすぐにリナちゃんを見つめ、「でも、もう平気だから! むしろ夜の方が調子いいかも!」
「そうですか? 無理しなくても良いですよ」
「ううん! 約束通り、今日はリナちゃんのうちに行きましょ」
「それじゃ、私も頑張って美味しいの作りますね」と、リナちゃんは張り切った様子で目を輝かせた。
最寄駅に到着した。このままマンションに向かえば、日暮れまでには――。
「ちょっと、スーパーに寄って行きたいんですけど」
改札を出たところで、リナちゃんがそう言ってきた。
「ど、どうして?」
「一応準備はしてるんですけど、念のため食材をもう少し買い足しておこうかなぁって」と彼女は答え、「先輩もお酒とか好きなやつ選んでくださいよ」と笑顔を向けている。
どうしよう。時間がかかると日が落ちちゃう。少しなら大丈夫かしら? でも……。
「ど、どうかなぁ? 今日はそんなに飲まないかもなぁ」と、遠まわしにスーパーを避けるように足立は発言した。するとリナちゃんは不安げな表情を浮かべ、「やっぱり、体調良くないですか? じゃあ、今日は――」
「いやいやいやっ! 体調は大丈夫だから!」
うまく伝わらなかったか。えっ? それより私って、体調悪い時以外はいつだってお酒飲んでるみたいに思われてんのかなぁ。あ、でも実際そうだわ。
「ほらっ! 近くにコンビニあるでしょ? 足りなかったらそっちで買い足せばいいじゃない。ついでにアイスとか買って、そういうのも楽しいかもなぁ」
「…………」
足立をじっと見つめる彼女は、どこか怪しむような眼差しを送っていた。けれどすぐに小さく息を漏らし、「まぁいっか。そうしましょ」と言って足立と腕を組みながら歩き出した。
マンションが近づいてくる。今頃はあの男が望遠鏡で周囲を伺っているのかもしれない。通り過ぎるだけで良いと言われたが、遠くから見られていると思うだけで、緊張してしまう。
リナちゃんはマンションに近づくにつれて口数が減り、目に見えて大人しくなった。
「あぁ、リナちゃんの手料理なんて、楽しみだなぁ」
足立は気を紛らわせようとするが、彼女は苦笑いをしただけですぐに俯いてしまった。
いよいよ、マンションの一部が視界に入った。足立の右腕に組んだリナちゃんの手にも、自ずと力が入る。
えっ。何よあれ……。
敷地内の駐車場が目に入った瞬間だった。男性二人が立ち話をしているのが見える。一人は昨晩に酒を酌み交わした(個人的には、だいぶ距離が縮まったと感じている)前野という名のあご髭男。そしてもう一人は――、黒ずくめの男!
やっぱりあの二人って繋がってたの? ……作戦はどうしたのよ。でも、今は知らんぷりで通り過ぎましょ。明日になったら問い詰めてやるんだから!
「やっぱり、感じる……」
震えた声でリナちゃんは呟いた。足立の腕をギュッと握り締め、前かがみになって足早に進んでいる。
「あっ、ちょっと」
足立はリナちゃんに腕を引っ張られながら、マンションの正面を通り過ぎる際にふと石田の部屋のベランダを見上げた。すると偶然にも夕日を反射させた何かが光りを発し、その瞬間を目で捉えた。
「――ここが私の家です!」
マンションを通り過ぎてから嘘みたいに気分を取り戻したリナちゃんは、ご機嫌な表情で自宅を指差した。
なんというか、想像していた外装よりも、ずっと地味だった。彼女のことだから、もう少しメルヘンチックな趣の西洋風の建物に住んでいるものだと想像していたが、実際は何の変哲もない軽量鉄骨のアパートメントだ。
二階建ての建物で、彼女の住まいは一階の角部屋だった。外からそっと壁を叩いてみたが、その響きには防音面に多少の危うさが感じられる。
「狭いですけど、どうぞ」と、彼女は部屋の扉を開いた。
間取りは足立の部屋と似たようなものだった。入ってすぐに短い廊下があり、右側にはお風呂に通じる扉。こちらはユニットバスなので、扉は一つしかない。左側には小さなシンクと一口の電気コンロ。その隣に小ぶりの冷蔵庫。うちには玄関に洗濯機があるけれど、ここはベランダで使用するタイプかしら。
廊下を抜けた先の、淡いグレーのカーテンがまた地味……。と思っていた矢先、部屋の中から毛むくじゃらの物体がこちらに向かって猛スピードで駆けてきた。




