その手に取るもの
神が目を覚ますと、魔王の腕の中だった。
闇を欺く見事なまでの漆黒の長い髪に、知的な輝きを放つ一対の漆黒の瞳。
ほとんど色素のない、白く滑らかな肌。
細くはあるが、決して貧弱ではない長身を、髪や瞳と同じ漆黒の長衣に包んでいる。
銀細工に紫の石、銀糸の刺繍が施された長い飾り布に飾られた豪奢な長衣の裾は長く、虚空に流れていた。
背中には皮膜に覆われた、蝙蝠を思わせる二枚の黒く大きな羽。
美しい輪郭を描く面はいつ見ても恍惚を覚える程美しく、王たる者に相応しい気高さを漂わせていて、神は思わずときめいた。
少しして気持ちが落ち着いてくると、これはどういう状況なのだろうという疑問が湧いてくる。
配下達と別れて自分の部屋に戻ったところまでは覚えているのに、ここは魔王の居室であるし、何より自分はいつの間に眠りに落ちたのか。
記憶に欠落が生じているのは明らかだった。一体どれくらいの記憶を失っているのだろうか。
神は虚空に腰掛けた魔王に抱かれたまま、魔王と精神と繋げて概念で問いかける。
――お前、私の記憶を消したね?
精神の防御を壊して、自分の記憶を弄ることができるのは魔王しかいない。
あまりにも自明な事実ではあったが、魔王は曖昧に言った。
――恐らくその通りなのだろうが、その問いについては何とも答えようがないな。我も記憶がない。
――え? どうしてお前まで……。
――さあな。だが、詮索はしない方がいいだろう。恐らくお互いにとって、あまり愉快でないことがあった筈だからな。
――そう、だね。
どうにも引っ掛かるものがあったが、神は魔王に虚空に下ろしてもらうと、言った。
――部屋に戻るよ。
――ああ。
神が精神の繋がりを切ると、魔王は神を居室へと転送した。
黒水晶でできたその部屋は、それぞれの世界へと繋がる扉が並んだ壁までがひどく遠く、天井は高い。
実体がないために物は基本的に必要なく、配下達を部屋に招いた時に使う黒水晶のテーブルと椅子が数脚あるだけだ。
神はその椅子の一脚に腰を下ろして、失われた記憶のことを考える。
これでも時の流れを遡って過去を見ることができるので、何があったか知りたければすぐにでも知ることができるのだが、魔王の言うことも一理あった。
魔王が消した記憶は、本当に忘れてしまっていた方がいいことなのかも知れない。
それが必ずしもいいことだとは限らないが。
神はしばらく悩んでから、やはり過去を見てみることにした。
試しに記憶を遡ってみたら記憶の空白があまりにも多過ぎて、どうしても気になって仕方がない。
後悔することになるかも知れないが、このまま悶々としているよりは良さそうだった。
神は知りたい過去を心に思い浮かべながら、この世界の外側の半分を構成する自らの中から端末を生み出して過去へと飛ばす。
要領は現在の時間軸上にある世界の内側を見る時と同じだ。
端末を望む時間軸上に送れば、その端末を介してあらゆる情報を得ることができる。
そして、神は全てを知った。
やはり何も知らないままの方が良かったと、神は少なからず後悔していた。
あれ以来気まずくて、魔王とは一度も精神を繋げていない。
交わす言葉は事務的なものばかりで、用がない時は敢えて近寄らないようにしていた。
魔王は何も言わないが、ここまであからさまにされて、避けられていることに気付いていない訳がない。
魔王は何も悪くないので、罪悪感はあったが、あんなことがあった後でどう接したらいいのかわからなかった。
本当に酷いことをしてしまったし、悲しいことをさせてしまったのだから。
そもそも自分が悪いのだとよくわかっているが、だからこそきちんと話をする勇気が持てなかった。
あんなことをして、その上魔王を避けたとなれば、今度こそ嫌われてしまうかも知れない。
魔王は全てを忘れていて、恐らくは今も忘れたままなのだから、蒸し返すような真似をしなければ、とりあえずは現状を維持できるだろう。
だがやはり魔王と以前のように打ち解けて話せないのは気が塞いで、このところ部屋に篭もることが多くなっていた。
皆に心配を掛けているのはわかっているが、とても何もなかったかのように振る舞うことはできない。
とにかく迷惑だけは掛けないように、淡々と仕事をこなすだけの日々が半年程続いた。
そんなある日。
居室にいた神は、扉を叩く音に気付いて扉の一つをそっと押し開けた。
そこにいたのは褐色の肌と黒い髪の女。
この世界の領土の近くに住まう人間達は皆黒い肌をしているが、半分しか肉体を持たない配下達は強い日差しに当たっても、人間程肌が黒くならない。
年は人間で言うなら三十歳くらいだろう。
かつてはこの世界の配下の中で最も力が強かったが、若手の台頭で位が下がり、今は三位となっている女だった。
それ程美人という訳でもなかったが、愛嬌があって、笑顔がとても魅力的だ。
ややふっくらとした体を、派手な赤に黄色い花が鮮やかに咲き乱れた民族衣装に包み、結い上げた髪には同じ柄のスカーフを巻いている。
女はにこりと微笑んで言った。
「ご機嫌よう、ちょっとよろしいかしら?」
「構わないよ」
「実は、孫が飼っている山羊が子供を産みましたの。とても可愛いんです。良かったら、見にいらっしゃいません?」
女が部屋に篭りがちの自分を心配して、外に連れ出そうとしてくれているのはわかったが、神は頷くことはできなかった。
この半年の間、何度誘いを断ってもめげずに声を掛け続けてくれたその気持ちは嬉しいし、好意を無下にしていることを申し訳なくも思う。
だがどうしても仕事以外で部屋から出る気にはなれず、神は緩く頭を振った。
「すまないね、今はそういう気分になれないんだ」
「そうですか……」
女は残念そうに目を伏せたが、すぐに目を上げて再び神と目を合わせた。
「もし私でよろしければ、何があったか話して頂けませんか? 王妃様は何でもないとおっしゃいますけど、何かあったのは誰でもわかります。こんなに長い間塞ぎ込んでいらして、きっと余程のことがあったのでしょう。皆も心配していますわ。私が力になれるとは言いませんけど、話すことで楽になることもあると思いますから」
「気持ちは嬉しいけれど、本当に大丈夫だから……」
神はやんわりと女を拒絶した。
あんなことはとても話せない。
話す訳には行かなかった。
余計な心配を掛けたくない。
神は扉を閉めようとしたが、女は素早く扉に手を入れて言う。
「王妃様は以前私を友人だと言って下さいましたね。あの言葉が嘘でないなら、どうかお話し下さいな。友人というものは、困った時には手を差し伸べ合うものですもの」
神は扉を閉じようとした手を止めた。
そんな言い方をされたら、話すしかなくなってしまう。
「あまり、詳しくは話せないけれど、それでも良ければ……」
黒水晶の椅子に腰を下ろした神は、黒水晶の丸テーブルを挟んで女と向かい合っていた。
女は何も訊かず、ただ黙って神が語り出すのを待っている。
急かされないのは有り難かった。隠したい情報を伏せつつ、現状を上手く説明するのはどう言えばいいのか、すぐには考えが纏まらない。
神は散々悩んだ挙句、慎重に言葉を選んで切り出した。
「……私は、王にとても酷いことをしてしまったんだ。決して悪気があった訳ではないのだけれど、結果的に謝ったくらいでは許されないくらい酷いことをしてしまって……それ以来気まずくて、謝りもしないでずっと王を避け続けている」
じっと神の言葉に耳を傾けていた女は、励ますことも叱ることもせず、ただ問いかけてきた。
「それで、王妃様はずっとこのままでいるおつもりですか?」
「謝りたいけれど、できないよ。王はその時の記憶を消しているから、私が何も言わなければ、ずっとこのままでいられる」
「本当に、それでよろしいんですの?」
「良くないよ。良くない、けど……怖いんだ。私達の間に何があったのかを知って、その上私が王のことを避けていたとなれば、きっと今度こそ嫌われる」
魔王に嫌われたくなかった。
嫌われたら、もう側にはいられなくなってしまう。
散々魔王に酷いことをしておいて身勝手だとはわかっているが、それでも魔王の側にいたかった。
離れたくなかった。
魔王のことが、好きだから。
神は膝の上で組んだ指に力を込めた。
「……こんなぎくしゃくした関係は嫌だよ。戻れるものなら、以前の関係に戻りたい。でも私にはできないんだ」
「本当はわかっていらっしゃるのでしょう? 元の関係に戻りたいのなら、王妃様から歩み寄って王に誠意を示さなければいけませんわ」
神は激しく頭を振った。
「無理だよ! 私はそんなに強くない! 怖いんだ! 怖くて堪らないんだ……っ!」
女は席を立つと、神へと歩み寄り、両手で神のそれを包み込んだ。
神と目を合わせて、優しい声で言う。
「王妃様、私も夫のいる身ですから、大切な人に嫌われるのが怖いのはよくわかります。代われるものなら代わって差し上げたいところですが、これは王妃様ご自身で立ち向かわなければならない問題です。とにかく王とよく話し合わなくてはいけませんわ。きっと王は、王妃様がご自身と向き合って下さるのを待っていらっしゃいます。何と言っても、王妃様以外誰もお側に近付けようとなさらない方ですもの。王妃様がいつまでも王を避けていては、王がお可哀想ですわ。王には王妃様しかいらっしゃらないのですから」
女に言われて、神はずっと自分のことしか考えていなかったことに気が付いた。
自分にはそれぞれの世界に友人がいるが、魔王には誰もいない。
自分が魔王を避けたら、魔王は一人ぼっちだ。
「寂しい」などと魔王は一言も言わなかったが、きっと本当は寂しかったのだろう。
もっと側にいて欲しかったのだろう。
それなのに嫌われることを恐れるあまり、自分は魔王を一人にしようとしてしまった。
また酷いことをしてしまった。
こんな自分と、魔王はずっと一緒にいようとしてくれたのに。
神は左手の薬指に嵌った指輪にそっと触れると、決然と席を立った。
「王の所に行って来るよ」
「行ってらっしゃいませ。良い結果になるよう、お祈りしています」
穏やかに微笑む女に微笑み返すと、神は居室を後にした。
神は魔王の居室の近く――魔王の主体を感じる壁の前で足を止めた。
神が壁に手を付くと、魔王に空間を跳躍させられ、部屋の中へと招き入れられる。
中は見覚えのない部屋だった。
それ程広くはないその部屋は温い空気に満たされていて、日の光とは異なる波長の光が天井から静かに降り注いでいる。
床一面を覆う土に背の低い植物が植わっていたが、どれも枯れかけていた。
神が土の中の生き物を殺さないように、着地する前にほんの少しばかり体を宙に浮かせると、死に行く植物達を前に一人佇んでいた魔王がゆるりと神を振り返る。
「何用だ?」
精神を繋げるでもなく、音声言語での会話を選んだ魔王に、神は少し心が痛んだ。
そうするように自分から仕向けたとはいえ、心に距離がある事実をまざまざと見せ付けられるのは辛い。
「……ちょっと、話がしたかったんだ」
神はそう言ったものの、いざ魔王を前にすると話を切り出す勇気が持てずに、手近にあった植物の前に屈み込んで言った。
「可哀想に……これは花?」
「ああ、試験的に栽培してみたのだが、幾度試してもどうしても枯れてしまうのだ。やはり生み出すことができない者には、育てることもできないらしい。人間ですらできることだと言うのに」
自嘲気味に語る魔王の声を、神はただ静かに聞いていた。
世界を巡る命の連なりから完全に外れた存在である自分達には、命を摘み取ることはできても、命を生み出すことはできない。
今まで魔王のように何かを育てた経験はなかったが、そうした能力が欠落していたとしても何らおかしくはなかった。
それでも魔王が敢えて花を育てようとしたのはどうしてなのだろう。
今まで園芸に興味を示したことなどなかったのに。
「どうしてお前が花なんて……」
「其方が、喜ぶと思ったのでな」
「私のために? 確かに咲けばとても綺麗だろうとは思うけれど」
「誰が其方に贈るつもりだと言った? 花を上手く咲かせられたなら、ゆくゆくは穀物も試してみるつもりだったのだ。上手く行けば、もう人間と争わなくても済むだろうと思ったのだがな」
神ははっとした。
魔王がそれぞれの世界の内側に領土を保有し続けているのは、配下達の糧を得るために必要だからだ。
だがこの世界の外側で糧を得られるようになれば、世界の内側にある領土は放棄してしまっても問題ない。
もう人間の侵攻を受けることはなく、魔王は誰も殺さなくて済むようになるだろう。
自分の憂いは消える。
願いは全て叶う。
自分は気まずさからずっと魔王を避けていたのに、魔王はただ自分のことを思って、花を育てようとしてくれていたのだ。
魔王はいつもそうだった。
側にいる以上のことは何も求めず、いつも自分を助けてくれた。
願いを叶えようとしてくれた。
ずっとずっと、まるで当たり前のように。
その優しさに、自分は全く報いていない。
神はゆっくりと立ち上がって魔王に向き直ると、静かに切り出した。
「……以前私の記憶を消した時、何があったか知っている?」
「いや」
魔王は本当に知らない様子で、少しだけ怪訝そうな面持ちになったが、神は構わず言った。
「あの時、私は何も選べなかったのだよ。お前のことも皆のことも自分のことも。何とか選ぼうとして、お前にとても酷いことをして、消えたいと願った私をお前は記憶を消して、楽にしてくれた。でも、もういいんだ。もう決めたから」
神は魔王に歩み寄ると、両手でそっと魔王の手を取った。
「私はお前を選ぶよ」
選ぶことは何かを選ばないこと。
だからずっと怖くて選べなかった。
だが、それでは駄目なのだ。
きっとまた同じことの繰り返しになる。
魔王に酷いことをしてしまう。
させてしまう。
それが嫌なら選ぶしかなかった。
一番大切なものを。
「本当にすまなかった。もう私のために殺さなくていい。お前が望むなら、もう誰にも会わないで昔のように二人きりで過ごそう。お前だけのものになるから。だから……だから、これからもお前の側にいてもいい……?」
神は怯えでともすれば震えそうになる声で続けた。
「もう優しくしてくれなくてもいいから、私を嫌いにだけはならないで欲しいんだ。側にいて欲しいんだ。お前に嫌われてしまったら、私はもう本当にどうしていいのかわからない。こんなに、以前よりずっとお前のことが好きなのに……っ!」
神が勇気を振り絞ってそう言った途端、魔王の手がするりと神の手から抜けた。
想いは届かなかったのだろう。
それも仕方のないことだった。
今まで本当に酷いことばかりしてきたのだから。
神が力なく手を下ろすと同時に、魔王は神の前に跪いた。
その姿に、神は言葉もなく目を瞠る。
あの高い高い矜持の持ち主である魔王が、自分に膝を付くところを見るとは思わなかった。
しかし、これには一体どういう意図があるのだろう。
全く訳がわからない。
神が唖然としていると、魔王が胸に手を当てて言った。
「愛している」
神は肩を小さく震わせた。突然思い掛けないことを言われて、言葉が上手く出て来ない。
とても嬉しい筈なのに。
神がただ立ち尽くしていると、魔王が続けた。
「この感情を愛と呼ぶことが許されるなら、我は其方を愛している。もう一度、我と結婚してくれ。其方を本当の意味で我の伴侶にしたい。其方がもう決して離れようなどと思わないように」
ああ、そうか。
神はようやく腑に落ちた。
とある世界――伴侶がいることを指輪を身に着けることで示す人間の文化圏の一つでは、求婚する男は女の前に跪くものとされている。
その文化に倣ってお互い指輪を着けるようになったので、求婚の仕方もそれに倣ったのだろう。
神は空中に両膝を付くと、魔王の首に細い両腕を回して心からの言葉を口にした。
「……私もお前のことを、お前のことだけを愛しているよ。お前となら何回だって結婚する。ずっとお前の側にいるよ」
神は魔王の体を離すと、魔王の唇に己のそれをそっと重ねる。
久し振りの口付けはとても優しく、幸せだった。
唇を離すと、神は魔王の手を取って言う。
「さあ、立って。いつまでもこんな格好をしているなんて、お前には似合わないよ」
魔王が立ち上がると、神はおずおずと尋ねた。
「……これから、どうしようか? 全部捨てて二人で逃げる?」
「以前から思っていたが、其方は些か極端過ぎるな。何も無理をする必要はないぞ」
微苦笑して言う魔王に、神は何とも複雑な気持ちになった。
「無理なんてしていないよ。お前にとって、私の気持ちは迷惑なの?」
「そういう訳ではないのだが、突然我以外の者に対して全く関心がなくなった訳でもないのだろう?」
「それはまあ、そうだけれど……」
基本的に自ら統治している訳ではないので、自分達がいなくなったとしても配下達の暮らしに支障は出ないが、有事の際のことを思うとやはり心配だ。
できれば誰も死んだり、怪我をしたりして欲しくない。
「我としては、現状のままで特に不服はないぞ」
「でも、それではこれからもお前に頼ってばかりになってしまう」
「構わぬぞ。我としては其方に塞ぎ込まれる方が問題だ。互いに利害が一致しているのだから、何も気に病む必要はない」
魔王は事も無げにそう言ったが、神は頷く気にはなれなかった。
それでは自分の気が済まない。
「お前の気持ちは有り難いけれど、それではあまりに虫が良すぎるというものだよ。私だってお前のために何かしたい」
「それで全てを捨てて我だけを選ぶと言うのか? 一つを選んだからと言って、他のものを全て捨てなければならない道理もないだろう。我はただ、其方が悲しまずにいてくれればそれでいい」
ただただ優しい言葉を口にする魔王に、神は愛しさが心に溢れるのを感じた。
魔王も同じ気持ちだったらいいと思う。
「すまないけれど、お前が誰かを殺す度に悲しくなるのはどうしようもない。でも、今度はきちんと受け止めようと思うんだ。もうあんなことを繰り返さないためにも。だから、お前には何も隠さないで欲しい。お前がどんな風に人間達を殺すのか、お前がどんな気持ちなのか、私にも見せて欲しいんだ。お前が私のことを気遣ってくれているのはわかるけれど、分かち合うことすらできないと、余計に悲しくなってしまうから」
「そうか……わかった」
同じものを見て、感じて、互いの全てを共有しながらこれからもずっと共に在りたい。
精神を繋げることができる自分達には、それができるのだから。
神がそっと魔王の心に触れると、その心はとても温かかった。




