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その手に取るもの  作者: 佳景(かけい)
21/22

円環する時の中で

ご注意下さい!

この物語にはハードSM風のシーンが出てきます。

大丈夫という方のみ、本編へどうぞ。

 城の最も奥深くにある魔王の居室は明るくも暗くもなく、天井も壁も壁もなく、重力や引力すらも存在しない。


 辛うじて時だけは他の場所と同じように影響を及ぼすが、肉体を持たない魔王にとってはないのと大差なかった。


 そもそも成長や老いといった概念自体がないのだから、当然というものだろう。


 時の中で経験だけは増えるが、ただそれだけのことだ。


 時の流れがどれ程多くの者を押し流したとしても、その時が来るまでは取り残されたように在り続けるのだろう。

 

 決して一人ではないけれども。

 

 虚空に腰掛けた魔王の膝の上には、神がいた。

 

 たおやかな白百合を思わせる清楚な美貌は、目にする誰もがはっとせずにはいられないだろう。


 くすみ一つ、染み一つない、白く美しい肌。


 足元まで流れる白く長い髪。


 瞳孔も虹彩も純白の澄み切った目が、優しい輝きを放っていた。


 細くしなやかな肢体を包む純白のドレスは、薄紅色の石と長い飾り布に飾られていて美しい。


 その背中には二枚の白く大きな翼があった。

 

 魔王は銀の指輪が輝く神の白い手の平に己のそれを合わせて、そっと握り込む。


 同じ指輪が魔王の左手にもあった。


 かつて交わしたそれぞれの端末でできた指輪が、互いへの想いを示している。

 

 口付けを交わす代わりに、繋げた精神からやり取りするのは概念や感情。


 服を脱ぎ落とす代わりに、過去の記憶すら紐解き、紐解かれて、一つの嘘も許さず互いの全てが暴かれていく。

 

 貪られる。

 

 だが肉体と異なり、精神は他者と交わるようにできてはいない。


 深く潜る程に精神が軋みを上げ、記憶のいくらかが砕け散ったが、苦痛以上に甘やかな快楽の前では瑣末なことだ。

 

 痛みと快楽を共有し、尚互いを求め合う。

 

 繋いだ手に力が篭り、蕩けそうな表情をした神が物欲しそうな目を向けてきた。


 飢えた心が、もっと欲しいと訴えている。


 魔王は神の手の甲に軽く口付けて、繋がりを更に深くしようとしたが、ふと意識の端に引っ掛かるものを感じてそちらに注意を向けた。

 

 この城は同じ場所に幾層にも異なる空間を抱え込んでいる。


 世界は一つきりではなく、自分達が多くの世界に干渉しているからだ。


 そしてその内の一つで少々動きがあった。


 貫頭衣を身に着けた配下の男がひどく慌てた様子で、この城に向かっている。

 

 大方、人間の侵攻を知らせに来たのだろう。


 世界の内側に在るべきではない自分達が世界の内側に干渉すると、原則としてそれなりに力を失う羽目になる。


 常に領土を監視し続けることはできないため、何か事が生じた際には使いの者がこちらに知らせる手筈になっていた。


 何らかの理由で使者が辿り着けなかった場合には、運が悪かったと思って自力で対処してもらうしかないのだが、今回は運が良かったようだ。

 

 すぐさま世界の内側の様子を見てみると、途端にかなりの苦痛に苛まれて力が失われ始めたが、目的を果たすのに支障はない。


 予想に違わず人間の軍隊が領土の森を侵して前進しているのが確認できたところで、魔王は神を心の中から閉め出して、精神の繋がりを絶った。

 

 魔王が攻撃の意志を持って力を発動させようとしていると、神の白い指先がそっと魔王の頬に触れて、滑らかに動く。


 どうやら文字を書いているらしい。


 とある世界で、人間が今も使っている言語だ。


 少々面倒だが、この部屋には今空気を通していないので、精神に触れずに会話をするには筆談や手話といった方法しかなかった。

 

 魔王は指先の動きに注意して意味を拾う。

 

 つ、な、がった、ま、ま、で、も、よ、か、った、の、に。

 

 「繋がったままでも良かったのに」と言いたいらしい。


 殺すことを嫌う神にとっては、これからの記憶は共有していたくないものの筈なのだが。

 

 単にいいところを邪魔されて名残惜しいということなのだろうと理解していると、また神の指が動く。

 

 「すきだよ」。

 

 もう長い付き合いだが、改まってこんなことを言われたのは初めてな気がする。

 

 何故今なのだろう。

 

 特に深い意味はないのかも知れないが、言語での会話は意図が上手く汲み取れなくて、どうにももどかしい。

 

 魔王は指を上げると、神の頬に同じように文字を書き始めた。

 

 「きらいではない。またあとで」。

 

 神は悲しげに微笑んで、繋いでいた手をそっと放した。

 

 自分が人を殺す時、神はいつもこういう顔をする。


 もう何度も繰り返してきた、わかり切ったことである筈なのに。


 神の願いが「配下達を守ること」であって、「敵を殺すこと」ではないのは理解しているが、領土に障壁を張り続けていてはいくら力があっても足りなかった。


 世界は一つきりではないし、どうしても守りたいのなら殺すしかない。

 

 そのことについて、抵抗や罪悪感は特になかった。


 それは恐らく、人間が虫を殺すのと大差ない感覚だろう。


 神が気に病むようなことは本当に何もないし、神もそれはわかっている筈なのだが、どうしても心を痛めずにはいられないようだった。

 

 それなら自分は一体どうすればいいのだろう。

 

 いっそ何もしない方がいいのだろうか。

 

 ふとそんなことを考えたりもするが、それはそれで神が悲しむことになる。

 

 魔王は敵の位置を完全に捕捉すると、力を飛ばして敵の頭部を全て破壊した。


 弾けた頭部から夥しい血を流しながら、死体達が静かに倒れていく。


 肉体とは脆い物だ。ほんの一部を破壊されるだけで、容易くその活動を停止する。

 

 近い内にまた来るかも知れないが、ひとまず敵を殲滅できたので、魔王は世界の内側への干渉を完全に絶った。


 神を怯えさせないように殺戮の記憶を消してから、再び精神を繋げて語り掛ける。


――終わったぞ。

――……ありがとう。


 そう言った神は、やはり浮かない顔をしていた。


 そんな顔をさせたい訳ではないのだが。


 魔王は神の頬に手を添えようとしたが、神はふわりと魔王の手から離れて行ってしまった。


――続きはまた今度。私を皆の所に送ってくれ。もう大丈夫だと言ってくるから。

――ああ。


 再び精神の繋がりを絶って言われた通りの場所に神を転送すると、魔王は一人きりになる。


 神はすぐに戻ってくるかと思ったが、予想に反してそれからしばらく姿を見せなかった。

 





 神は一体何をしているのだろう。


 一人きりの居室で、魔王は虚空に腰掛けてつらつらと考え事をしていた。


 配下の者を介して「しばらく一人になりたい」という伝言は受け取ったが、その「しばらく」が思った以上に長い。

 

 自分達が過ごす時の長さからすれば大した時間でないとはいえ、あれから数ヶ月も経っていた。

 

 神は決して遠くにいる訳ではなく、今も世界の外側にはいる。


 この世界の外側は自分と神、半々で構成されていて、神は自分の領域にいるのだ。


 その気になればすぐに会いに行くことができるし、会話もできるので、特に困るようなことはないのだが、少々不在が長過ぎる。


 時折大きな力が動いているのを感じるので、何をしているのか気にもなった。


 探ろうと思えば探ることもできたが、それではあちらの領域に入り込むことになってしまう。


 「一人になりたい」という神の意向を無視するのも忍びないと敢えて放って置いたが、それなりに帰りを待ったことでもあるし、そろそろ迎えに行ってもいいかも知れない。


 まだ帰る気がないのなら、それはそれで一向に構わなかった。

 

 とにかく今何をしていて、いつまで帰らないつもりなのかだけでも確かめておこう。

 

 そう決めて空間を跳び越えようとした時、魔王は神が突然こちら側の領域に戻って来たのを感じた。


 空間を超越した訳ではなく、あちらの領域から飛んで移動してきたため、特に力の発現はない。

 

 戻って来たのはいいとして、神の様子は明らかにおかしかった。


 一瞬知覚に異常が起こったのかと思ったが、他のものはいつもと同じように知覚できているので、やはり正常なのだろう。


 あまり認めたくないことだが、認める他なかった。

 

 神が殺意を撒き散らしている。

 

 予想外の出来事は嫌いではないが、流石にこれは喜べなかった。

 

 神は敵にするとこれ以上はないという程厄介な相手だ。


 力の総量こそ同程度だが、自分が一度に揮える力の最大値は神にとっての最小値に過ぎない。


 一方、神はその気になれば全ての力を一度に放出させることすら可能だ。


 細かいことが苦手で、ただ空間を跳躍するだけで力の一割を使い切ってしまう程非効率な使い方しかできないが、火器に例えるとそれこそ拳銃と大砲程も攻撃力に差がある。


 下手をすれば一撃で自分は消滅だ。


 神の殺意が自分に向いているとは限らないのが唯一の救いではあるが、かと言ってこのまま放って置く訳にも行かないだろう。

 

 現状を引き起こした原因は、ひとまず気にしないことにした。


 過去を遡れば容易くわかるだろうが、今は余計なことに力を使っている場合ではない。

 

 魔王はすぐさま左手に嵌った神の指輪を神の領域へ転送した。


 このまま神の端末でできた物を身に着けていたら、その端末を介して攻撃されかねない。

 

 一応の安全を確保したところで、魔王は城の全ての配下達をそれぞれの世界の内側に送った。


 配下達が戻って来られないように、そして神が世界の内側に行くことがないように、境界も閉じてしまう。


 あの神を相手に、他者を庇いながら戦うのは不可能だった。


 それこそ全力を出さないと、とても生き残れはしないだろう。

 

 魔王は少し考えてから、一振りの黒い剣を創出した。

 

 黒水晶でできた長剣。


 柄の部分だけでなく、刃の部分も黒水晶でできた、精神を切り裂くための剣だ。


 たとえどれ程多くの力があろうとも、それを統御する精神さえ破壊してしまえば、力は霧散するしかない。


 武器などなくても十分戦えるが、こうして武器の形にした方が、攻撃の度にいちいち力を使い捨てるよりは効率が良かった。


 魔王は剣の柄を強く握ると、大きく横に一振りする。


 さあ、本気を出すとしようか。






 魔王は自身の領域を完全に閉ざすことにした。


 神の力の大半は自身の領域にあって、こちらには主体である精神と力の一部が移動してきているだけだ。


 神の力の流入を遮断することができれば、脅威の度合いはかなり下がる。

 

 魔王は全力で領域を閉ざそうとするが、狙いに気付いた神は逆に力任せにこじ開けようとしてきた。


 二つの力が鬩ぎ合ったのはほんの一瞬で、魔王は容易く神の力に押し負けて領域を開かれてしまう。


 反動を受けて存在に軽く痛みが走ったが、大したことはなかった。

 

 やはり純粋な力比べでは、圧倒的にこちらが不利だ。

 

 だが自分が今失ったのは力の一割、向こうは力任せに二割の力を使ってきた。


 幸い今の自分は力がほぼ十全な状態で、この城とこの姿を創るのに一割の力を使っていても、残り八割の余力がある。


 一方、神はあの姿を創るために使っている力が一割、更にあの姿に張り巡らせている防壁に一割の力を割いているところに先程二割の力を使い、不在の間に一割の力を失っているので、あと五回力を使わせれば良かった。


 とにかく主体である自分の元に辿り着くまでに、できるだけ力を削っておきたい。

 

 魔王は神に贈った指輪を介して至近距離から神に一割の力を叩き付けたが、神の防壁を壊しただけで、傷を与えることはできなかった。


 すぐに指輪を破壊されてしまったものの、また神に一割力を使わせることができたのだから十分だろう。

 

 これであと四回。

 

 明確に攻撃の意思を示したことで、神には完全に敵だと認識されたに違いない。

 

 こちらに来るか。


 それとも城ごと潰しにくるだろうか。


 城を障壁で囲まれてしまうと脱出できずに潰されるしかなくなるが、ここは自分の領域で、神が障壁を張り終えるまでに主体を外に移すことなど造作もなかった。

 

 恐らくは直接こちらに来るだろう。

 

 予想に違わず、神は空間を跳び越えて居室に現出してきた。


 力の余波で存在がひりつく。

 

 あと三回。

 

 一旦どこかへ逃げることも考えたが、ここ以上に有利な場所はどこにもない。

 

 魔王は城を創るのと同じ要領で空間を多層に分断して神を足止めしようとしたが、力尽くで押し通られた。

 

 あと二回。

 

 時を短く遡って無数の黒水晶を投じてみたが、これも悉く防がれた。

 

 あと一回。

 

 こちらの能力は全て知られていて、やりにくいことこの上なかったが、泣き言を言っている場合ではない。

 

 魔王は光速以上の速さで、神との間合いを詰めた。


 肉体がないため、移動速度は容易に物理的な限界を上回ることができる。


 だが神は己の姿を創る力の大半を割いて創り出した剣で、しっかりと魔王の剣を受け止めた。

 

 剣を弾いた神の容赦無い一撃が来る。

 

 剣の切っ先が魔王に触れた瞬間、姿を維持できなくなった魔王が消えて剣だけが残った。


 魔王の手を離れた剣は、しかし落ちることなく独りでに神の胸に突き刺さる。


 目を見開いた神が咄嗟に剣を引き抜こうとするが、間に合わない。


――王手。


 剣は神の精神を破壊した。

 





 神がその場に倒れると、魔王は姿を剣からいつものそれに戻した。


 先程神にこの姿を壊されはしたが、あれは只の抜け殻で、主体である精神は攻撃が直撃する間際に剣に移っていたのだ。

 

 後は油断した一瞬の隙を突いて神の主体を捕らえ、その精神を破壊すれば良かった。


 手応えは確かにあったが、しかし神はまだ消滅してはいない。


 神の中には二つの人格があり、先程破壊したのはその内の一つだけだったのだ。

 

 もし神が自分と同じように剣で応戦せず、広範囲に力を解き放っていたら消されていたのはこちらの方だったが、そう分の悪い賭けではなかったと思う。


 もう一人の人格が神の人格を元にして作られていたとすれば、神の生真面目さと言うか、馬鹿正直さを有していたとしても何らおかしくはなかった。

 

 力は一割まで減じているものの、動けない程疲弊している訳ではない神が傷をそのままにゆるりと体を起こすと、魔王は部屋に空気を通して言う。


「さて、これは一体どういうことなのか、説明してもらおうか」

 

 精神を繋げて直接記憶をやり取りする方が手っ取り早いのは百も承知だったが、魔王は敢えて音声言語による説明を求めた。

 

 流石に殺し合いをした直後に、その相手と精神を繋げる気にはなれない。

 

 神は気まずそうな様子で肩を落としてしばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。


「……すまない」

「謝罪ではなく、説明をしろ」

「……実は、お前に内緒でもう一つ別の人格を作っていた」

「それはもうわかっている。我が訊きたいのは、其方が何故そのようなことをしたのかということだ」

「そうすれば、私も戦えると思ったから」


 今の一言で大体話は見えた。


 言いたいことはいろいろとあったが、とりあえず最後まで聞くことにして、魔王は黙って話の続きを促す。


「私は力の使い方が下手だけれど、攻撃手段を物理攻撃に限って接近戦をすれば周りに被害を及ぼさずに済む。でも殺したくないという私の心がどうしても邪魔になるから、それでもう一人別の人格を作ろうと思ったのだよ。上手く行っているつもりだったのだけれど、試しにもう一人の人格になったら、予想以上に殺戮衝動が強くて、こんなことになってしまって……」

「馬鹿か、其方の能力でそういう危険な人格を作るな。そういった繊細さを要求される事象に不向きなのは、其方自身が最もよく知っているだろう」

「だって、少しでもお前に迷惑を掛けたくなかったから……自分のことは自分でどうにかしたかったんだ。もう、お前にばかり殺させたくなかったから」


 どうせそんなことだろうと思っていたら、案の定だった。


 自分を大切に想ってくれているからなのだとわかってはいるが、こちらが人殺しを苦にしていないことも神には伝わっている筈なのだから、思い詰めて妙な真似をするのは本当にやめて欲しい。


 おかげで無駄に疲れた。


「手段のために目的を消してしまっては意味がないだろうが。今回はたまたま上手く切り抜けられたが、そうでなければ今頃我は消されていてもおかしくなかったのだぞ」

「本当に、お前が強くて良かったよ」

「力の程度が同等である以上、強い弱いと言うよりは戦闘に関する才覚や度胸の問題だと思うがな」


 経験に関しては考慮に入れる必要はないだろう。


 記憶を共有する時に神が追体験することがないように、自分の戦闘に関する記憶はその都度全て消しているため、お互い初めての戦闘も同然だった。


 たとえどれだけ戦闘の記憶を積み重ねていたとしても、相手が一撃で葬り去れるような相手ばかりでは、特に学ぶものもなかっただろうが。


「とにかく、もう二度とやるな」

「肝に銘じておくよ」


 神は神妙な顔でそう言った。


 反省はしているようだが、二度と同じことを繰り返さないようによくよく思い知らせておいた方がいいだろう。


 髪一筋並みに細くて危ない橋を渡らされたことでもあるし。

 

 魔王は神の顎を捉えると、敢えて微笑みながら言った。


「さて、それでは今回の件に関して礼をさせてもらうとしようか」

「やっぱり怒っている、よね……?」


 少し怯えた目をして訊いてくる神に、魔王は瞳から笑みを消して答えた。


「当然だ。これだけのことを仕出かしておいて、「すまなかった」の一言で済まされるとは思っていないだろうな?」







「っう……あぁ……」

 

 神は頭上で合わせた両手を黒水晶の杭に貫かれて、魔王の居室に創り出された壁に磔られていた。


 翼や四肢もあちこち黒水晶に貫かれ、傷口からは尽きることなく力が流れ出している。


 しばらく嬲り者にされていたおかげで苦痛に慣れてきたのか、苦痛に歪んでいた面差しからは幾分表情が抜けて、どこか虚ろな瞳が虚空を見つめていた。


 初めの内こそ体を貫かれる度に悲鳴を上げていたが、今ではわずかに開いた唇から時折うわ言を漏らすばかりだ。

 

 空中に腰掛けた魔王は読書の片手間に神を甚振っていたが、壁から新しい杭を出して神の首を貫いてみても、最早神は睫一本さえ震わせることはなく、呻き声さえ上げなかった。

 

 そろそろ許してやってもいいだろう。


 いい加減に飽きてきた。


「おい、「お許し下さい、ご主人様」と言えたら終わりにしてやってもいいぞ」

「お許し下さいぃ、ご主人様ぁ」


 余程苦しいのか、神は甘えたような口調で躊躇いもなくそう言った。


 半分冗談のつもりで言ったのだが、ここまで屈辱的な台詞を何の抵抗もなく口にされると、寧ろ困惑してしまう。


 怒りに任せて少々やり過ぎただろうか。

 

 魔王は本を閉じると、神を壁に縫い止めていた黒水晶を壁ごと消した。


 体を支える気力もないのか、そのまま倒れる神を抱き留めて軽く揺さぶる。


「おい、しっかりしろ」

「ま、おう……」


 神はまだ苦痛の余韻の中にいるようで、呂律が少し怪しかったが、よろめきながらも魔王から体を離すといくらかしっかりした口調で言った。


「本当に、これで終わりでいい?」

「ああ、すまなかったな。我としたことが少々感情的になったようだ」

「謝らないでいい。これくらいの罰は当然だから。寧ろ足りないくらいだと思う。お前がしろと言うなら何でもするよ。奴隷でも愛玩動物でも、何にでもなる」


 跪いた神が魔王の服の裾を手に取って口付けようとするのを制し、魔王は神の腕を引いて立ち上がらせた。


「やめろ。馬鹿な真似をしている暇があったら、早く傷を塞げ。いくら其方でも消滅するぞ」

「構わない」

「構え」


 魔王は神の傷を塞ぐために力を神のそれに同調させ始めた。


 自分達のような者にとっては他者の力は毒にしかならないが、ごく近しい存在であるお互いだけは例外だ。


 力を同調しさえすれば、己の一部として受け入れることができる。


 神にそのつもりがないと多少時間はかかるが、傷を塞ぐことなど造作もなかった。


 だが神は緩く頭を振る。


「私のことはもういい。私はお前にとても酷いことをしてしまった。本当に何と詫びたらいいのかわからない」

「それはもういいと言っている」

「私を許さないでくれ!」


 耳に突き刺さるような悲痛な声だった。


 神は涙を流せるものなら今にも泣き出しそうな顔をしていて、どうしていいかわからなくなる。

 

 たとえ万の軍勢にはだかろうとも、たじろいだりはしないと言うのに。

 

 魔王が掛けるべき言葉を失って立ち竦んでいると、神が続けた。


「お前に迷惑を掛けたくないからしたことなのに、却ってお前に迷惑を掛けてしまった! もう嫌だ! 私はいつもお前ばかりに殺させている! 私だってお前程上手くはできないにしろ、戦うことはできるのに、恐ろしいからお前に押し付けてしまっている! 皆を守るのは私の望みなのだから、私がやらなければならないことなのに! 私はそれがとても辛いんだ! 我儘だとわかっているのに、私にはどうしても選ぶことができない! あきらめることができない! お前には私のせいで殺して欲しくないし、私は人殺しをしたくないし、皆のことも守りたい! もう私はどうしたらいいのかわからない……っ!」


 神の声がどこか遠くに聞こえるのは何故だろうと魔王は思った。


 以前からいつかこんな日が来ることを予感していた気がするが、いざその時になってみると、本当に情けない程何もできない。


 何も悪くないと慰めればいいのだろうか。


 どれかを選べと叱ればいいのだろうか。


 どうすればいいのだろう。


 何も責めるつもりはないし、そのことをわかって欲しかったが、今心に触れたら余計に苦しめてしまいそうで、できなかった。


 これ程近くにいるのに、ずっと近くにいたのに、心に触れることすらできるのに、これ程までに想いは遠く隔たってしまっている。

 

 それがひどく空しくて、もどかしかった。


「本当にすまない。余計にお前を傷付けてしまって。でも私はもう無理だから。限界だから……」

「それなら、ここを限界にしなければいいだけの話だろう」


 魔王は神の精神に干渉した。


 神が慌てた様子で締め出そうとするが、魔王は構わず神の精神に強引に入り込んでいく。


 今の神の力は一割を切っていて、ねじ伏せるのはさして難しいことではなかった。


 抵抗されると面倒なので、眠らせてしまうことにする。

 

 弱々しかった神の抵抗が止むのを待って、魔王は神の傷を塞ぎ、記憶の一部を消し始めた。


 今回の出来事と自分が人間を殺してきたことを忘れさせてしまえば、神は今の苦しみから解放される筈だ。


 同時に自分の記憶からも消してしまえば、全てはなかったも同然になる。


 過去を見ることができる神がその気になれば、失われた記憶が何だったのか知ることは造作もないが、恐らくすぐに自分の意図に気付いてやめるだろう。


 仮にそうでなかったとしても、このまま辛い記憶を抱えているよりは生じた事実を外から眺める方が、いくらか楽になるに違いない。


 神が苦しみを積み重ねて心を磨耗させた状態から脱することができれば、それで良かった。

 

 これでひとまずは全てが元の通りになるだろう。


 もしいつかまた同じ場所に辿り着いてしまったら、その時は何度でもやり直せばいい。


 成長も老いもしない自分達には、停滞こそがよく似合っている。

 

 円環する時の中で、ただ静かに最期の時を待とう。

 

 魔王は神の領域に送った指輪を再び左手の薬指に戻すと、自らの力で創り出した銀の指輪を眠る神の左手の薬指に嵌め、その唇に己のそれをそっと重ねた。







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