第10話 矛盾
「スマホを貸してもらってもいいかしら?」
「はい、どうぞ」
電子カルテに個人情報を読み込ませる。……ぱっと見、おかしなところは何もない。
都内に住んでいる、聞いたことのない会社名の社員。まぁこの業界ではよくあることね。三十八歳独身。健康状態問題なし。飲んでいる薬もない。
「ありがとうございます。お返しするわ。今日は何の用で来たの?」
「用という用はないんです。近々、ドンパチがありそうで、その時にすぐ対応してもらえるように、顔合わせしておこうかと思って」
「そう。道理にかなっているわね」
「坂本さんからは凄腕の外科医と聞いております。あれ、金髪の助手さんは今日いないんですね」
「……あら。虎のことも知っているのね?」
「ええ。坂本さんは助手さんのことも褒めていました」
「あらあら。それは鼻高々だわ」
私は、微笑みながら雑談を続ける。
……そして、心の中で冷ややかに嗤う。持っている手札を安易に出し過ぎたわね。
――ダウトよ。
坂本さんが、虎を褒める? あり得ない。少なくとも、私の知っている坂本さんなら絶対に言わない。あの人は二年前、虎に散々な目に遭わされている。虎の名前が出ただけで顔をしかめるような人だ。
「そう。坂本さんは、虎のどんなところを褒めていたのかしら?」
「え?」
「いえ、ちょっと気になって。あの子、昔から褒められるようなことはあまりしないから」
「……確か、腕がいいと」
「具体的には?」
「……」
初めて、相手が言葉に詰まった。ほんの一瞬だけれど、十分だった。私は確信する。
この人は――。
“《《坂本さんから話を聞いていない》》。”
少なくとも、私が知っている坂本さんからは。私は笑顔のまま、一度紅茶を口に含んだ。
そもそも、坂本さんがこのクリニックに誰かを紹介してくるということ自体がおかしいのよ。それくらいひと悶着あったんだから。
虎がまだ医学生で、私の仕事を手伝っていた頃、坂本さんが私に向かって怒声をあげた時があった。その時、虎がメスを坂本さんに向かって投げたのだ。そして、メスを投げたかと思えば一気に間合いを詰めて、坂本さんを床に転がしてメスを首元に沿わせていた。
それ以降、坂本さんはこのクリニックに来ていない。だから、坂本さんはこのクリニックに対して誰かを紹介しようというよりは、むしろ報復をしてやろうと考えるのが自然だ。
敵組織は坂本さんを情報源としている? いや、それだと虎の情報の辻褄が合わない。
さてさて……情報の整理が必要ね。
坂本さんがここのクリニックに通っていたというのを、どこからか情報を仕入れた。
ここのクリニックでは、今でも虎という助手がいるということになっている。ということは虎の情報に関してはおそらく二年前の情報から更新されていない。
合言葉に関しては何処からか情報を仕入れている。定期的に合言葉は変えている。坂本さんは二年前に来なくなったから、そもそもなぜ最新の合言葉をこの訪問者が知っているのか、謎。
……あぁ、もう面倒ね。私はふと思い出したかのようにスマートフォンを取り出した。
「坂本さんに電話してみようかしら」
「……え?」
訪問者の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。私はそれを見逃さなかった。
「だって、あなたは坂本さんから紹介されたのでしょう?」
「ええ。そうですが……」
「なら、確認しても問題ないでしょう?」
私は笑顔のまま、坂本さんの連絡先を呼び出す。この男が本当に坂本さんから紹介されたのなら、何も問題はない。逆に嘘なら――。どうしてくれようかしらね。
発信ボタンを押す。数回の呼び出し音。
『……蘭? こんな朝早くに何の用だ』
「ちょっと確認したいことがあるの」
私は目の前の訪問者から視線を外さず、坂本さんとの通話を続ける。
「あなた、最近誰かに私のクリニックのことを話した?」
『……は?』
「例えば、私のこととか。虎のこととか。……合言葉とか」
『おい。なんで今さらそんな話を――』
私は笑みを深くする。
「あなたから紹介されたと言っている人が来ているわ」
『俺から?』
「そう」
『……蘭。俺は二年以上、お前のところには行ってねぇぞ。それにあんな獣がいるクリニックなんか誰が紹介するか』
電話越しでも分かる。坂本さんは、本気で困惑している。
「ええ。そうね。報復のために若い者をよこしてドンパチやるなら分かるのだけどね」
『じゃあ、そいつは――』
私は電話を耳に当てたまま、訪問者を見る。
先ほどまで余裕のあった男の顔から、ほんの少しだけ笑みが消えていた。
「……ええ。どうやら、少し面白いことになってきたみたいね。ありがとう、坂本さん」
私はゆっくりと通話を切り、デスクにスマホを置いた。
そして、一切の温度を消した穏やかな目線で、目の前の哀れな訪問者を見つめ返した。




