好きな人への告白を練習していたら、練習相手だけが最初から本番だった
西園ひまりが水瀬慧に「告白の練習相手になってほしい」と頼んだとき、慧は三秒だけ黙った。
六月の終わり、放課後の教室。
梅雨の切れ間で、窓の外は嘘みたいに青い。
「……誰に」
次の小テスト対策らしい英単語帳を閉じて、慧はひまりを見た。
何を考えているのか少し分かりにくい、静かな顔だった。
「それは、ちょっと」
「本当に告白するんだ」
「するつもり」
「練習が必要なくらい?」
「必要なの!」
思わず声が大きくなって、ひまりは慌てて口を押さえた。
「だって、ちゃんと好きって言うの初めてだし……変なこと言って笑われたら嫌だし……でも友達には頼みづらいし……」
そこまで言ってから、小さく付け足す。
「水瀬くんなら、笑わなそうだから」
その瞬間、慧の睫毛がわずかに揺れた。
今思えば、たぶんあれが最初だった。
私の言葉が、この人を傷つけた最初の瞬間。
「断る理由は?」
「え?」
「いや、こっちが」
「あ……そ、そうだよね。急にごめん。変なお願いだよね」
「別に」
慧は視線を落として、英単語帳を机の端に置いた。
「何すればいいの」
「えっ」
「練習相手。やるんでしょ」
あまりにあっさり了承されて、ひまりは逆に固まった。
「い、いいの?」
「よくはないけど」
「えっ」
「……西園が困ってるなら、断れない」
その言い方が妙に自然で、ひまりはなぜだか胸の奥がくすぐったくなった。
「……ありがとう」
「で、どうやるの」
「えっと、あの、私が告白するから、水瀬くんは相手役になって、ちゃんと返事してほしい」
「ちゃんと?」
「適当じゃなくて、本番っぽく」
「難易度高くない?」
「そこを何とか」
すると慧は椅子に座り直し、ひまりを見上げた。
「わかった。じゃあ条件」
「条件?」
「笑われても怒らない」
「笑うの?」
「なるべく我慢する」
「我慢って何」
「それと」
彼は続ける。
「練習なら、褒めるだけじゃ意味ないから。変だったら変って言う」
「う……」
「それでもいいなら」
ひまりは少しだけ迷ってから、うなずいた。
「……お願いします」
「じゃあ、やる?」
「い、今!?」
「頼んだの西園だろ」
その通りだった。
ひまりは鞄を机に置いて、制服のスカートを整えた。
手のひらに汗がにじむ。
(いや、待って。今から? 本当に?)
「ちょ、ちょっと待って。心の準備が」
「あと三分で予鈴」
「もっと早く言って!?」
慧は少しだけ口元をゆるめた。
それがたぶん、彼なりの笑いだった。
「西園」
「はい」
「本番は急に来るかもしれないから」
「うっ……正論」
「だから、今ちゃんとやって」
その言い方が、なぜか妙にやさしかった。
ひまりは深呼吸をして、慧の前に立った。
「……す、好きです」
「声が小さい」
「まだ最初だから!」
「本番の相手にも言い訳するの」
「しない!」
「じゃあ、もう一回」
ひまりは耳まで赤くなりながら、もう一度息を吸った。
「好きです。付き合ってください」
言えた。
言えたけど、たぶん棒読みだった。
慧は少し考えてから言った。
「悪くない」
「ほんと?」
「でも、たぶんそれだと“ちゃんと好き”より“頑張って言いました”の方が先に伝わる」
ひまりはがっくり肩を落とした。
「だめじゃん……」
「だめではない。惜しい」
「惜しいのが一番つらい……」
「あと」
慧は椅子に座ったまま、まっすぐひまりを見た。
「その“好き”は、たぶん相手を見てない」
「え」
「言葉だけ前に飛んでる」
ひまりは思わず黙った。
そんなこと、考えたこともなかった。
「相手のどこが好きなのか、ちゃんと思い浮かべてから言った方がいいと思う」
「……水瀬くん、もしかしてこういうの慣れてる?」
「全然」
「じゃあなんでそんな冷静なの」
「西園が慌てすぎてるから」
ひまりは唇を尖らせた。
「水瀬くんって、たまにちょっとだけ意地悪」
「たまに?」
「だいたい?」
「それは心外」
でもその声は、少しだけ楽しそうだった。
その日から、ひまりと慧の「告白の練習」が始まった。
◇◆◇
ルールはシンプルだった。
放課後、誰もいない教室で五分だけ。
ひまりが“本番の相手”に告白する練習をする。
慧はその相手役になり、変なところは直し、本番っぽく返事をする。
最初の三日は、ひまりの一人負けみたいなものだった。
「好きです。ずっと前から――」
「“ずっと前から”のあとで目を逸らした」
「だって恥ずかしい!」
「恥ずかしいのは分かるけど、そこ大事だろ」
「うぅ……」
「あと、今日は早口」
「そんな細かいとこまで見る?」
「見ないと練習にならないから」
「厳しい……」
けれど慧は、ただダメ出しばかりするわけじゃなかった。
「今の言い方はよかった」
「え」
「最後の“好き”だけ、ちゃんと本気っぽかった」
「そ、そう?」
「うん」
「……なんか、水瀬くんにそう言われると、ちょっと嬉しいかも」
そう言った瞬間、慧の指先が止まった。
彼は英単語帳の代わりに、最近は小さなメモ帳を持ってきていた。
ひまりの癖や、気になったところを短く書いているらしい。
「どうしたの?」
「いや」
慧は何でもないみたいに首を振った。
「練習、続ける?」
「うん」
その後も毎日続いた。
ひまりは最初、本当に“好きな人への告白”のために、この時間を使っていた。
相手はサッカー部の先輩だった。
優しくて、顔もよくて、文化祭の時に段ボールを運ぶのを手伝ってくれた。
それだけで好きになったと言ったら、友達には「ちょろい」と笑われたけれど、ひまりにとっては十分だった。
なのに。
練習を続けるうちに、ひまりの中で何かが変わり始めた。
「好きです」
「うん」
「一緒にいると落ち着いて」
「うん」
「ちゃんと見てくれるところが好きで」
そこでふと、ひまりは止まった。
ちゃんと見てくれるところ。
(……それって、先輩だっけ?)
「西園?」
「あ、ううん、何でもない」
その日はやけに調子が悪かった。
言葉が引っかかる。
本番の相手を思い浮かべようとしても、なぜか別の顔が浮かぶ。
放課後の、斜めの光の中。
いつも静かに自分の言葉を待ってくれる人。
変なところはちゃんと指摘するくせに、最後には必ず「大丈夫」と言ってくれる人。
まさか、と思う。
でも、その“まさか”を考えた瞬間に、ひまりの心臓は変なくらい速くなった。
帰り道で、友達の結衣に言われた。
「ひまり、最近なんか顔やばいよ」
「やばいって何」
「恋してる顔」
「してるよ! 告白するんだもん!」
ひまりはそう返したけれど、結衣は首を傾げた。
「いや、そういうんじゃなくて。もっと近い感じ」
「近い?」
「相手のこと思い出すだけで勝手に顔熱くなるみたいな」
ひまりは、一瞬で黙った。
それ、最近ずっとなっている。
でもその相手の顔を、まだ言葉にできなかった。
◇◆◇
変化は、慧の方にもあった。
今まで淡々と練習に付き合ってくれていたのに、五日目くらいから、少しだけ距離を取るようになったのだ。
「今日、練習いい?」
「ごめん、日直の仕事ある」
「そっか」
でも、日直の仕事なんてすぐ終わるはずだった。
七日目には、
「今日、ちょっと用事あるから」
「最近それ多くない?」
「……そうかも」
その言い方が、妙にひまりを不安にさせた。
「もしかして、迷惑だった?」
「違う」
「じゃあ何」
そこで慧は黙った。
いつもなら、答えを濁したりしないのに。
「水瀬くん」
「……本番、もう近いんでしょ」
「え」
「だったら、俺が練習相手し続けるの、あんまり良くない気がする」
「なんで?」
慧は目を伏せた。
「変に慣れると、本番でずれるかもしれないから」
それは理屈としては正しかった。
でもひまりは、なぜか胸のあたりがひどくざわついた。
それだけじゃない。
それだけの理由じゃない気がした。
「水瀬くん」
「何」
「……逃げてない?」
自分でも驚くくらい、まっすぐな言葉が出た。
慧は少しだけ目を見開いた。
「何から」
「知らない。でも、なんか最近変」
沈黙が落ちる。
窓の外では、吹奏楽部の音が遠くで揺れていた。
「西園」
やがて慧が静かに言った。
「本番、ちゃんとうまくいくといいね」
その言葉は優しかった。
優しかったのに、どうしようもなく苦しかった。
ひまりはそこで初めて気づいた。
うまくいってほしいはずなのに。
好きな先輩に告白するのが目標だったはずなのに。
今いちばん聞きたくない言葉は、それなんだと。
◇◆◇
告白当日。
放課後、ひまりは校舎裏でサッカー部の先輩を待っていた。
手のひらが冷たい。
なのに背中は熱い。
呼吸も浅い。
練習した。
たくさんした。
言葉も考えた。
タイミングだって間違えないようにした。
なのに、先輩の姿が見えた瞬間。
何も言えなくなった。
「西園?」
優しい声。
困ったような目。
たぶん、悪い人じゃない。
でも違った。
ちゃんと分かってしまったのだ。
――この人じゃない。
私が「好きです」と言った時、一番うれしそうな顔をしてほしい相手は。
言葉の変なところをすぐ見抜いてくれるのに、最後には絶対に肯定してくれる人は。
私が少しでも頑張ったら、それに気づいてくれる人は。
ひまりはぎゅっとスカートを握りしめた。
「ごめんなさい」
「え?」
「呼び出しておいてごめんなさい。私……」
息を吸う。
「告白、できません」
先輩は少し驚いたあと、何かを察したみたいに笑った。
「そっか」
「本当にごめんなさい」
「ううん。むしろ、ちゃんと気づけてよかったんじゃない」
その言い方まで優しくて、ひまりは余計に申し訳なくなった。
でも今は、立ち止まっていられなかった。
ひまりは頭を下げると、そのまま走り出した。
向かう先は決まっている。
いつもの教室だった。
◇◆◇
もう誰もいないと思った。
でも、いた。
夕暮れの教室のいちばん後ろ。
窓際の席に座って、慧がひとりで本を読んでいた。
ひまりはドアのところで立ち止まり、肩で息をした。
慧が顔を上げる。
「西園」
「……いた」
「いたけど」
「よかった」
「告白、どうだった」
その問いに、ひまりは数秒黙った。
そして、まっすぐ彼を見た。
「ごめん。やり直したい」
「何を?」
「告白の練習」
慧の指先が止まる。
「今度はちゃんと、本当に好きな人に言うから」
その一言で、空気が変わったのが分かった。
慧はしばらく何も言わなかった。
窓から入る夕陽が、机の角を赤く染めている。
「……それ、俺?」
「そう」
「いつから」
「分かんない」
ひまりは苦笑いした。
「たぶん、最初は本当に先輩の練習だった。でも途中から、言えば言うほど、おかしくなった」
慧は黙って聞いている。
「“ちゃんと見てくれるところが好き”って言った時、もう先輩のこと考えてなかった」
ひまりは一歩、彼に近づいた。
「“緊張してるの先にバレる”って言われるのも、“今の好きは本気っぽかった”って言われるのも、水瀬くんだから嬉しかった」
喉が震える。
恥ずかしい。
逃げたい。
でも、今は逃げたくない。
「私、ずっと練習してるつもりだった」
ひまりは笑いそうになって、でも泣きそうにもなった。
「でも違った。私、毎回ちょっとずつ、本気になってた」
そこで慧が、ようやく小さく息を吐いた。
「西園」
「……はい」
「それ、ずるい」
「何が」
「今さら言うの」
その声は少しだけ掠れていた。
「俺、最初からしんどかった」
ひまりは目を見開く。
慧は本を閉じて、机に置いた。
「練習相手なんて、やるつもりなかった」
「え」
「でも断れなかった」
「どうして」
彼は少しだけ困ったみたいに笑った。
「好きだったから」
頭の中が真っ白になった。
「……いつから」
「たぶん、西園が覚えてない頃から」
「なにそれ……」
「朝、教室入ってきた時、誰にでもちゃんとおはようって言うところとか。消しゴム忘れたやつに、自分の半分ちぎって渡すところとか」
そんな細かいことまで見ていたのかと思うと、胸が熱くなる。
「だから、練習でも“好き”って言われるたび、うれしかった」
慧はまっすぐひまりを見た。
「うれしかったし、しんどかった。毎回、これ本番だったらいいのにって思ってた」
ひまりは、もうだめだった。
目の奥がつんとして、鼻の奥まで痛くなる。
「……ごめん」
「なんで西園が謝るの」
「だって、私、全然気づかなくて」
「気づかなくて当然だろ。言ってないんだから」
その言い方まで優しかった。
ひまりは、ぎゅっと拳を握る。
「じゃあ、言い直す」
「え」
「今度こそ、本番だから」
ひまりは深呼吸をして、慧の前に立った。
最初に練習を頼んだ日みたいに。
でも今は、逃げ道なんていらなかった。
「水瀬くん」
「ん」
「好きです」
慧の目が、少しだけ揺れる。
「一緒にいると落ち着くところが好き。ちゃんと見てくれるところも好き。変なこと言っても笑わないところも、優しいところも好き」
途中で声が震えた。
でも止まらなかった。
「たぶん、ずっと前から好きだったんだと思う。私が気づくのが遅かっただけで」
ひまりは息を吸う。
「私と、付き合ってください」
静かだった。
教室の中には、遠くのグラウンドから聞こえる掛け声だけが薄く届く。
慧はしばらく黙ってから、立ち上がった。
「それ」
「うん」
「やっと本番か」
ひまりは泣きそうな顔のまま笑った。
「長かった……」
「俺はもっと長かった」
「それは、ごめん」
「だから、ちょっと考えていい?」
まさかの返しに、ひまりは固まった。
「え?」
「返事」
「い、今!?」
「本番だから適当にしない」
その瞬間、ひまりは初日の自分を思い出した。
変なこと言って笑わないで、と頼んだこと。
ちゃんと返事して、と言ったこと。
あれを全部守ってくれていたのだ、この人は。
「……ずるいの、そっちじゃん」
「そうかも」
慧は、今まででいちばんやわらかく笑った。
「好きだよ、西園」
その一言で、ひまりの胸の中の何かが、一気にほどけた。
「前からずっと」
「……うん」
「付き合いたい」
「うん」
「でもひとつだけ」
「何」
「これから西園が誰かに告白の練習頼まれても、絶対引き受けないで」
ひまりは一瞬ぽかんとしてから、吹き出した。
「頼まれないよ、もう」
「頼まれてもだめ」
「わかった」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そう答えた瞬間、慧は少しだけ安心した顔をした。
それがなんだか、たまらなく愛しくて。
ひまりは一歩近づいて、彼の制服の袖をつまんだ。
「ねえ」
「何」
「今さらだけど」
「うん」
「本番の返事、ちゃんと聞けてよかった」
慧は目を細めた。
「俺も」
夕陽の差し込む教室で、ふたりはしばらく笑っていた。
最初から、練習なんかじゃなかったのかもしれない。
少なくとも、彼にとってはずっと本番だった。
でも、回り道をしたからこそ分かったこともある。
好きな人にうまく伝える方法を探していたはずなのに、
いちばん伝えたかった相手は、ずっとすぐそばにいたのだ。
翌日から、ひまりは少し困ることになる。
「西園さん、なんか今日すごく機嫌よくない?」
「えっ、わかる?」
「わかるよ。あと、なんで水瀬くんと目が合うたびに変な間があるの」
変な間、ではない。
ただお互い、目が合うだけでちょっと照れてしまうだけだ。
放課後、帰り道でひまりがそのことを言うと、慧は少し考えてから言った。
「じゃあ、しばらく練習する?」
「何を」
「付き合ったあとの会話」
「それはもう本番でやって」
「そっか」
「でも」
ひまりは彼の隣を歩きながら、小さく笑った。
「好きって言う練習なら、もうちょっとしてもいいかも」
慧が足を止めた。
「西園」
「なに」
「今それ言うの反則」
「本番だからいいの」
そう言うと、彼は耳まで赤くして顔を逸らした。
そんな顔するんだ、と思って、ひまりは胸の奥がきゅうっと甘くなる。
練習していたはずの言葉は、ようやくちゃんと届く場所を見つけた。
そしてこれからは、何度だって本番で言えばいい。
好きな人に。
いちばん言いたかった相手に。




