第65話 魔術書探究クラブ(19)
犯罪は起きて明るみになってこそ、犯罪として捜査され、捕まった犯人はその罪により裁かれる。
けれどまだ起きていない犯罪について、警察は捜査出来ない。
犯人がわかっても、まだ起きていない罪で捕まえるわけにはいかない。
「とても難しい事件です。それにこの事件は防ぐだけではだめです。きちんとその罪を暴かないといけません……」
コンラートに促されて、工房の部屋から居間に場所を移したソフィアは、気持ちを落ち着かせるために彼が入れてくれた、蜂蜜入りのハーブティを飲んでそう言った。
工房ですでに、ソフィアは彼女の頭の中で繋がった事件の全容を伝えていた。
伝えたが、その企てはあまりに周到である。
「フィフィの言葉通りであるならば、現時点で警察を動かすことは出来ないよ」
「相手にもしてもらえないと思います……」
「たとえレストラード警部であっても、困惑するばかりで難しいだろうね」
「はい」
そして、ソフィアの訴えが現実になった時には、アシュリーはもうこの世を去り、証拠となるものは失われ、警察のコリガン講師には及ばない。
「……僕も正直半信半疑だ。フィフィを信用しないのじゃない。コリガン講師のような男がそんな方法をとったということだ。あまりに手が込んでいる」
「コリガン講師がアシュリーのそばにいても疑われない。これがこの事件では最も重要です。そのための『魔術書探究クラブ』で、あの仔羊の儀式です……」
いまの状況で家庭内でアシュリーが急死すれば、遺産のことで必ずコリガン講師には疑いが向けられる。魔術も疑われる。
だから最初から魔術を計画の中に織り込んだ。
コリガン講師の“呪術迷信”の知識を生かせられる、古い、間違った魔術を。
「これは恐ろしい計画殺人です」
絶対に止めなければならない。
コリガン講師の目論見通りにさせてはいけないと、ソフィアはきゅっと口元を引き締める。
「コリガン講師は状況を整えていた。あの仔羊の儀式自体はいつ起こしてもよいもので、アシュリーの祖母の容態の悪さをきっかけに実行されたのか……」
コンラートがソファの肘掛けに頬杖をついて呟く。
「アシュリーの話から想像するに、十八歳まで現状を引き延ばすのは難しいと考えたのだろう」
街中で会った『魔術書探究クラブ』の学生が歩きながら話していたことを、ソフィアは思い出す。彼らも「アシュリーはアルドリッジ家が養育した方がいい」「アシュリー自身が寄宿学校入学を望んでいる」と認識していた。
コリガン講師が、アシュリーを十三歳以降も己の養育下に置くことは難しい。
アシュリーが財産を自由にする権利を手にすることはもちろん、アルドリッジ家が彼女を養育することになっても、コリガン講師は困る。
年間五〇〇ポンドの養育手当はもちろん、アシュリーが受け継ぐ何万ポンドもの財産を手に入れる機会が得られなくなる。
「コリガン講師からすれば、いまが好機だ。アルドリッジ工房の創始者夫人逝去への対処で、アルドリッジ家も他のことに手が回りにくい」
コンラートの言う通りだ。
そう遠くない未来、近日中に、きっと事は起きる。
そこまでわかっているのに、ソフィアはなにも出来ない。
証拠が足りない。
ソフィアが試験した髪が、明日の分析で魔力持ち特有の相が出れば、高確率でそれはコリガン講師のものだろうといった推測は立つ。
しかし証明するには、コリガン講師自身から毛髪を提供させる必要がある。
そこまで出来たとしても、問えるのは仔羊の儀式と金貨の出所だけだ。
個人の金を使い、なにかの実験をしようとしただけと言われたら、大した罪には問えない。彼は男爵家の次男で、評価も高い魔導師。
厳重注意か、罰金刑がせいぜいだろう。
「……アシュリーが心配だ」
ぽつりと、コンラートが呟いた。
「はい」
「フィフィ、彼女の身の心配じゃない。それは当然心配だけれど、僕が言っているのはアシュリーの精神状態だ。かなり追い詰められていると思う……」
「どういうことですか、師匠?」
「彼女は僕に心配事はないか尋ねられ、“ない”と答えた。なにかありそうな様子でね。当然だよ、まだ十歳の少女なんだ不安を隠しきれない……」
ソフィアは目を見開いた。
「薄々察していて、そうあってほしくないと願っているのかもしれない。彼女は父親を慕っている……だったらあの様子は納得がいく」
「そんな……アシュリーは父親を慕っているのに……」
アルドリッジ家と父親を選べないと泣いて、どちらも大切だから早く自立すると決意するほど好きなのだ。
「アシュリーが心配です」
自分を可愛がってくれた祖母が亡くなるだけでも辛いのに、遺産のこともさらに重みを増しているはずだ。
「本当に、どうしたらいいんでしょう。師匠!」
ソフィアはコンラートに縋った。
コンラートはソフィアの前で頬杖をついたまま、目を伏せて黙考する。
しばらく重苦しい静けさが居間の空間を満たした。
「……フィフィ、一つだけ方法がある」
「それはどんな!?」
「事が起きたその場を、僕たちが押さえることだ」
「……どうやって?」
アシュリーが、いまどこにいるのかもわからない。
首都には戻ってくるはずだ。アルドリッジ工房での追悼式がある。
魔術界における大手有名工房で行われる追悼式の案内は、大魔導師であるコンラートの元にも届いていた。来週末だ。
「追悼式で会えても、その前にもし……っ」
「落ち着いてフィフィ。どちらにしても今日はもう遅い時間だ。明日、レディントン教授のところへコリガン講師の戻りを尋ねる電報を打とう」
遺体の移送も考えたらまだ葬儀前か直後のはず、ソフィアの心配する最悪の自体にはいますぐは起きないと、コンラートはソフィアを宥めてくれた。
「今日はもう休もう。そして明日の朝、フィフィは検体の分析を終えるんだ。いいね?」
「はい、わかりました師匠」
コンラートがいてよかったとソフィアは思った。こんなにも心強い師匠はいない。
彼の言う通り、いまソフィアにできることはしっかり眠って、検体の分析を終えることだった。
◇◇◇◇◇
薄暗い寝室でアシュリーはベッドに突っし、物思いに耽っていた。
窓からの外のガス灯や街中の光で、真っ暗にはならない。
メイドは隣室の居間に下がらせて、一人でいる。
もう少しアルドリッジのお屋敷にいたかったが、父親は彼女をあの屋敷に残すことひどく嫌っている。それに教師である父親は長く学校を休んだままにも出来ない。
だから一緒に首都に戻ってきた。
首都は人が多くて忙しない。
アシュリーが滞在する街中のこのホテルも、見知らぬ人でいつも賑わっていて落ち着かないが、彼女の父親の好みそうなホテルではあった。
設備が行き届き、食事がよくて、使用人はよく働く。
このホテルの使用人達は得意客の一人である父親のおかげで、アシュリーにも親切で優しいが、彼女は自分の屋敷かアルドリッジの屋敷で落ち着きたかった。
「……お祖母さま」
長い間、心臓を患っていた祖母はびっくりするほど突然に、この世からいなくなってしまった。
知らせを受けて、父親と首都のアルドリッジ邸に駆けつけた時にはもう帰らぬ人となっていた。
大叔父や主治医、執事や侍女や話し相手の女性に囲まれて、ベッドの中で目を閉じて横たわる祖母は、眠っているように見えた。
「っ……お母さま……」
ぐすっとアシュリーが涙ぐんだその時、寝室のドアの向こうで足音と話し声がした。アシュリーのことをメイドに尋ねる男の声は、彼女がよく知るものだった。
続いて、寝室のドアがノックされて開く。
こちらに向かってくる足音と、気遣う調子の声。
「アシュリー、疲れていたのかい? でも食事はきちんと摂らないといけない」
枕元まできて、腰を落としてアシュリーの顔を覗き込んだのは、彼女の父親だった。
「食べたくないの……」
「悲しいのはわかる。だがお祖母様とていまのアシュリーを見たら心配する」
「もう少し……アルドリッジのお屋敷にいてはだめ……」
本当は布団に潜り込みたかったが、そうすればきっと父親は機嫌を損ねてしまうだろう。嫌われたくはなかった。
ゆっくりと起き上がって、ベッドの端に腰掛ければ、思った通り父親は近くの椅子を引き寄せて座るとアシュリーににっこり微笑んでくれた。
「説明しただろう? パパはお仕事がある。それにアシュリーと離れたくないんだ。君が心配でね。お祖母様は君をとても甘やかしていたから気持ちはわかるが……」
「……」
「それにあちらのお屋敷は、お祖母様が亡くなったことで色々忙しい。子供の君の面倒を当主様は見られないよ。アシュリーだって大叔父様に迷惑はかけたくないだろう?」
アシュリーは頷いた。アルドリッジの屋敷には大人が次から次へとやってきて確かにとても忙しそうだった。おじさまと呼んでいる、アシュリーの大叔父にあたる当主はその対応をしなければならないことくらい、彼女もわかっている。
「いい子だ、アシュリー」
父親に頭を撫でられて、少しだけほっとする。
二年前に母親が亡くなってから、アシュリーは父親との間になんだか薄い透明な壁ができたみたいに感じていた。それにそれまでと同じように優しく接してくれるけれど、時々ひどく無関心ない眼差しを見せる。
いつか父親の人生の邪魔になって、捨てられてしまうのではないだろうかと思えて、それがとても怖い。
「スープとパンくらいは食べなさい、アシュリー。パパもお腹がぺこぺこだ、一緒に食べよう」
にこやかにアシュリーの父親はそう言って立ち上がると、彼女をエスコートするように小さな手を支えてベッドから下ろし、居間へと連れ出した。
メイドから落ち込んでいたことを聞いたのだろうか、なんだかいつもより優しくて、まるで母親が生きていた頃のようで少しうれしい。
「お父さまは、学校に行っていたの?」
「そうだよ。何日も休んでいたからね。君、私とアシュリーの食事をここに頼んでくれたまえ。軽いものでいい」
メイドにホテルの食事を持って来させるように言い付けて、ソファに腰を下ろした父親はアシュリーを膝の上に乗せてくれた。
以前はよくそうしてくれたけれど、最近は一ヶ月にそう何度もあることじゃない。
「ウィリアム達とは会った?」
「ああ、会ったよ。そうだ! 彼らがアシュリーを元気付けたいといっていたよ。木曜日に連れてこられないかって」
「……クラブのかいごう?」
「そう、第一木曜日の彼らの集まりを、アシュリーのために使ってくれるそうだ。パパは用事があって、いられないけれど」
「用事?」
アシュリーは首を傾げた。会合日はいつも父親がアシュリーを連れて行くものだったので少し不思議だった。
「お祖母様の遺したご意志の確認に……アルドリッジの屋敷に集まらねばならない」
「じゃあ、わたくしもお父さまと一緒に……!」
「ああ、アシュリー。大人の難しい話をする場だ。君には悪いが連れていけない」
「……でも」
「きっと君のことで嫌な話にもなるだろう。そんな場所にパパはアシュリーを居させたくないんだよ。それに翌朝には戻る、一日離れるだけだ」
一日しかいられないのなら、父親の言う通りアルドリッジの屋敷に行っても迷惑になるだけかもしれない。
「どうするアシュリー? もちろんホテルの部屋で落ち着いて過ごしていても構わない。彼らもがっかりはするだろうが、気を悪くはしないよ」
こんな時、なんでも話せていた乳母や楽しく教えてくれていた前の家庭教師がいたらどうしたらいいか聞けるが、もう辞めてしまっていない。
いまの家庭教師はとても厳しい人だし、首都にはついてこない。
食事を頼み、居間に静かにひかえている、一緒に来ているメイドも世話はよくしてくれるが、親しみはあまりなく仲がいいとは言えなかった。
ずっとホテルに閉じこもっているくらいなら、学校に連れて行ってもらった方がいいかもしれない。父親がいないのは心細いが、ウィリアム達なら怖くない。
「あの人も一緒に?」
少し声を落として、アシュリーはメイドが代わりに付き添うのか父親に尋ねた。
親しみはあまりないが、世話しなくてよい時もアシュリーのことを見ているので、なんだか見張られているみたいな気がする。
「学校には許可をもらった人しか入れられないからね。ホテルの送り迎えを頼んでおくよ。着いた時はパパがクラブハウスまで案内するし、帰る時はウィリアム達に見送らせよう」
「じゃあ、行きます」
「そうか。彼らも喜ぶだろう。アシュリーを心配していたからね」
そう言った父親は、アシュリーを床に下ろした。
部屋のドアベルが鳴って、食事が届いたと応対したメイドが告げた。




